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この記事では2024年9月29日(日)の十日町教会における礼拝メッセージを掲載いたします。


聖書:マルコによる福音書4章26~34節

メッセージ本文

神の国のたとえ

 イエスが語る神の国のたとえに耳を傾けました。イエスはたとえを通して神の国とはどういうものなのか思い描けるよう私たちの想像力に働きかけています。「人が大地に種を蒔き、一晩寝て起きると種は芽を出して成長している。しかし人はどうしてそうなるのか知らない。大地がおのずと実を結ぶ。種が芽を出すとはじめに茎、次に穂、それから穂の中に穀物が満ちる。」

種の不思議

 改めて言われてみると不思議なことです。種は保管している状態では芽が出ることがありません。しかし大地に種を蒔いてしばらくすると芽を出します。そこには土を耕したり水をやったりという手間も必要かもしれませんが、それ以上に太陽の光や大地が持っている力が重要です。私たちは種が芽を出して成長し、やがて豊かな収穫が与えられることを通して目に見えることのない大地の力を感じます。イエスはこの大地の力のように神の国は目に見えない神の働きによっておのずと芽を出して成長し、豊かに実るのだと語ります。大地の力を身近に感じていた当時の人々、特に農業に携わっていた人はイエスが語るたとえを通して具体的に神の国のありようを思い描けたことでしょう。では私たちはどうでしょうか。

稲刈りの話

 先週幼児園の年長さんたちと松之山まで稲刈りに行ってきました。5月に田植えをさせてもらった米農家さんの田んぼに行くと、そこには黄金色の穂が豊かに実っていました。子どもたちは農家さんから稲刈りの仕方を教わって左手で稲を掴み、右手で鎌を持って稲刈りを行いました。来月にはお米を送っていただいてみんなでおいしい新米を食べます。

 米農家のAさんと話していると「先週と天気が逆だったら良かったんだけど」と表情を曇らせていました。稲刈りに行った前の週は雨続きで稲刈りがほどんどできなかったと言います。5月の田植えの時期には雨がほとんど降らず、雪不足の影響もあって深刻な水不足で、半分くらいの棚田にしか水を張ることができず収穫量が減ると頭を抱えておられました。今度は収穫というタイミングで雨が続き稲刈りをすることができない状況です。雨続きで倒れた稲の株から新しい茎が伸び始めてしまったり、発芽し始めたり…。早くに倒れた稲はくず米が多く、倒れて高温の中で浸水した稲から発芽が出ると米の品質と収穫量が下がる原因だと言います。「最後の最後、収穫の時期になって今までの苦労が報われないそんな年もあるんだなーと頭を抱えたくなる年。農業は、本当に難しいです。」そのようにSNSで嘆いておられました。

 稲刈りをさせてもらった日は天気が良かったためAさんは子どもたちの稲刈りがひと段落すると、「本業の収穫があるのでこれで失礼します」と言って遅れている収穫作業へと向かわれました。本来なら1秒でも時間が惜しい時に子どもたちの食育のため貴重な時間を割いてくださることに感謝しつつ、農家さんのたくましさに頭の下がる思いでした。

大地が持つ力

 田植えの時は水不足という困難の中も辛抱しました。収穫の時期になったら今度は長雨で品質が下がり収穫量が減ってしまうという苦労を負わされていますが、それでもなお目の前のなすべき仕事を忠実に果たして、来年もまた同じ働きを続けるのです。もし自分だったら心折れてしまうのではと思いました。尊敬の念を持って農家さんが苦難を経験しても折れることなく忍耐し続ける力をどこから得るのだろうと考えている時に今日のイエスのたとえを聞き、その力は大地から来るのだと教えてもらった思いです。

 イエスのたとえを聞いた人たちと同じように農家さんたちは大地の力を知っています。ここで言う知っているとはただ知識として頭に入っているという以上の、実感として分かっているということです。自分たちが稲を植えたら大地は大きな力を発揮して人間の予想を超えた驚きの成長を見せて、豊かな実りをもたらしてくれる。そのような感動を知っているからこそ農家の方々は苦労が報われない年があっても折れてしまうことなく忍耐して働き続けるのです。大地の力が自分の苦労以上の収穫を迎える驚き、感動をもたらすことを知っているからです。

人間の持つ力


 イエスは神の国はこれを同じだと語ります。人が大地に種を蒔くとは教会に置き換えると人々に聖書を通してイエスの語った良い知らせ、神の言葉を言動で伝えることでしょうし、保育園の場合だったら子どもたちにキリスト教保育を行うということでしょう。種を蒔き、場合によっては芽が出て成長するためにいろいろと手をかける苦労があります。でもその苦労とは関係のないところで大地はおのずと実を結ばせると言います。今回このイエスのたとえをじっくり読んで「大地がおのずと実を結ばせる」と言われていることに改めて気づきました。これまでは神の言葉という種が蒔かれたら神の言葉がおのずと芽を出すと読んでいたんですね。しかしここで言われていることはそうではなく、種が人間という大地に蒔かれると、人間という大地がおのずから実を結ばせると言われています。つまり実際の大地に種を成長させる力が秘められているように、神さまに造られた人間、神さまの愛を注がれて生きている人間の内にも大地と同じように目に見えない大きな力、神の力が秘められているということにイエスは気づかせたいのです。

人間の内にある力は神の言葉と出会うことで発揮される

 人間の内側にある力っていうのはこれこれができるというような目に見える力のことではありません。そうではなくて神の言葉という種が蒔かれた時、神の言葉と出会った時に現れてくる死んでいた人を生き返らせる力のことです。がっくり肩を落とす状況にあってもそれに耐えてやり抜こうとする力が湧き上がってくるということです。

ライオン株式会社創業者の小林富次郎の話

 教会に届いたある冊子を読んでいたらデンタルヘルスで有名なライオン株式会社の創業者である小林富次郎の話が載っていました。彼は1888年に神戸の多聞基督教会で洗礼を受けたキリスト者で、材木関係の商売をしていましたが1890年の大洪水で1年分の原木を失うこととなります。失意のうちに水中に身を投じようとした際、多聞基督教会の牧師から送ってもらった葉書に記されていた聖書の言葉・ヘブライ人への手紙12章11節の言葉を思い出し、生きながらえたそうです。その後彼はライオン株式会社の創業者となりました。では彼が失意のうちに出会った聖書の言葉とはどういうものだったのでしょう。ヘブライ人への手紙12章11節にはこう書かれています。「およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後には、それによって鍛え上げられた人々に、平安な義の実を結ばせるのです。」小林富次郎という大地にこの神の言葉という種が蒔かれ、彼が生きる力を失い死人となった時に彼の中でこの種が芽を出して死人を生き返らせる力となりました。

人間の持つ力を信頼して神の言葉という種を蒔く

 私たちにも神の言葉という種が蒔かれています。この種は私という大地でおのずと芽を出し、豊かな実りをもたらします。私の内には大きな実りをもたらす力が秘められています。それは普段は見えないかもしれませんが、神の言葉と出会った時に発揮する大きな力です。それによって私たちは失意の時にも立ち上がる力、困難に耐えて進み続ける力を与えられて豊かな実りへと向かっていけるのです。大地の力、人間のうちに秘められた驚き感動するほどの力と可能性を知っている私たちだからこそ、子どもたちに、そしてすべての人に神の言葉という種を蒔き続ける働きを続けていきましょう。

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キリスト教会の礼拝で行われている説教と呼ばれる聖書をテキストにしたメッセージを公開しています。

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