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伝えたいことを読み取る
この記事では2024年12月15日(日)の十日町教会における礼拝メッセージを公開しています。
聖書:マタイによる福音書1章1~17節 「伝えたいことを読み取る」
メッセージ:
イエス・キリストの系図が伝えたいことを読み取る
おはようございます。3本目のろうそくが灯りました。いよいよ来週はクリスマスです。降誕前第2主日、待降節第3主日の今日はマタイによる福音書に記されたイエス・キリストの系図を朗読していただきました。この系図は聖書を読んでみようと思い立った人にとって最初に立ちはだかる関門です。新約聖書を開くと1ページ目からいきなり大量の見知らぬ名前が羅列しており、聖書を読もうとする人の意思を挫いてしまいます。私が初めて聖書を読んだときには読み飛ばしたと思いますが、律儀に最初から読み進める人にとっては苦しい読み始めであろうと想像します。しかし一方で何年、何十年と時間をかけて聖書を読み味わっている人にとってこの系図はたいへん意味ある事柄を示してます。本日は、マタイによる福音書がイエス・キリストの系図を通して私たちに伝えたいことを読み取り、クリスマスまでの残りの日数を過ごしたく思っています。
アブラハムの子
まずこの系図はアブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図として紹介されています。アブラハムとは旧約聖書の創世記に登場する人物で、多くのユダヤ人が自分たちの父すなわち祖先として理解していた人物です。創世記12章から彼の物語が始まり、物語としても非常に面白く読み応えがあるので時間のある方は今週読んでいただきたいと思いますが、今日の説教の中で触れておくべき点は彼が牧畜をする人であり、羊の群れと牛の群れを持っていたということです。ユダヤ人、そしてイエス・キリストは牧畜をする人々、特に羊飼いの末裔であるという自己認識を持っていました。だからこそイエスは人々に向かって語ったたとえの中で羊飼いの話をしていますし、別の福音書ではありますが自分のことを良い羊飼いであると語ります。
聖書考古学によると、イエスの生きた時代ユダヤ人の多くは町や村で定住生活を送っており外で牧畜をしていた人は少数派だったようです。社会というものは今も昔も変わらず少数派ではなく多数派にとって生きやすいルールが用いられていますから、イエスが生きていた時代の羊飼いたちにとっては生きづらい世の中でした。特に当時のユダヤ教の宗教指導者たちは安息日を守ることなどを強調していましたから、安息日にも羊の世話をしなければいけない羊飼いたちはルールを守れない罪人という悪い評価を受けていました。でも、そんな時代にあってマタイによる福音書は改めて救い主イエスは羊飼いアブラハムの家系から生まれたことを読者に伝えています。さらにこれはルカによる福音書の降誕物語になりますが、救い主誕生の知らせは天使によって夜通し羊の群れの番をしていた羊飼いたちに告げられます。世を救う神の子イエスの誕生は、王宮にいる王さまや貴族ではなく、またエルサレム神殿にいた祭司といった宗教指導者たちでもなく、ユダヤ人の父であるアブラハムも従事していた牧畜の人々に告げられるのです。
牧畜に携わっていたアブラハムの一族は元々は小さく弱い集団でした。しかしその人々を神さまが目に留めて大きな国民としました。いまやユダヤ人の多くは牧畜には携わっておらず、少数の人々が携わるのみです。宗教指導者を中心にして多数派を占める定住のユダヤ人たちは少数派である羊飼いたちにルールを守らずに生きる罪人という悪い評価を下しています。アブラハムで始まるイエス・キリストの系図は羊飼いたちに対する評価は妥当であるのかを多数派である定住のユダヤ人たちに問いかけています。
ダビデの子
続いて系図の中で取り上げたい人物はダビデです。6節を改めて読みますのでお聞きください。「エッサイは、ダビデ王をもうけた。ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ」…。ダビデは王さまでした。エジプトから脱出し、パレスチナに定住したイスラエルの人々が国家を建設したときの王さまです。彼は次の王となるソロモンをもうけますが、聖書には驚くべきことが書かれていました。「ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ」たのです。ウリヤの妻ということは人妻です。そういう女性との間に生まれた子どもがソロモンなのです。ウリヤの妻の名前はバト・シェバと言います。旧約聖書・サムエル記下11章に登場します。ダビデは彼女が水浴びをしていたところを目撃し、大層美しかったので人をやって彼女のことを調べさせ、ウリヤの妻であることを知った上で自分のところに召し出して関係を持ちました。ウリヤは兵士でしたがダビデは彼を戦場の最前線に送り込んで討ち死にさせます。ウリヤの死後、ダビデはウリヤの妻バト・シェバを王宮に引き取り、自分の妻にしました。ソロモンはウリヤが殺され、バト・シェバがダビデの妻になってから妊娠して生まれた子どもです。でもマタイによる福音書はあえてダビデがバト・シェバによってソロモンをもうけたとは書かずに「ウリヤの妻によってソロモンをもうけ」たと記し、ダビデが何をした人物であるかを私たちに思い起こさせようとしています。
旧約聖書イザヤ書はダビデから救い主が生まれるという預言の言葉を告げています。だからこそマタイによる福音書は救い主イエス・キリストの系図を記すにあたってダビデの名を記さずにはいられませんでした。ダビデはイエスが生きていた時代、一般的には理想的な王さまとして見られていました。特にイスラエルは当時ローマの支配下にあり宗教的にも経済的にも苦しめられていましたから、再びダビデ王のような存在が現れて自分たちをローマの支配から解放してくれるという期待を持っていました。そのような考えが一般的に浸透している中でマタイによる福音書はイエス・キリストの系図としてダビデを登場させるときにウリヤの妻バト・シェバとの間にソロモンをもうけたのだと記すのです。ダビデは確かに信仰の人でしたが神の前に何の落ち度もない人間ではありません。サムエル記を読むとダビデの持つしたたかさや淡白さに驚かされる場面がいくつもありますし、権力が絶頂に達しているときにウリヤの妻バト・シェバを人妻と知りながら強引に、自らの権力を悪用して収奪する一面をも兼ね備えた人物なのです。安易に一人の人間を理想化して見ることは危険を伴うということをマタイによる福音書は私たちに伝えています。
ボアズとルツ
最後に取り上げたい人物はボアズです。5節に登場します。読みますのでお聞きください。「サルモンはラハブによってボアズをもうけ、ボアズはルツによってオベドをもうけ、オベドはエッサイをもうけ」…。ボアズはルツによってダビデの祖父オベドをもうけた人物です。ボアズとその妻ルツは旧約聖書ルツ記に登場しますが、ボアズの妻となるルツという女性はイスラエルではなくモアブの人であり、元々はマフロンという男性と結婚しモアブの地に住んでいました。しかし夫が死に彼女は義理の母ナオミと共にナオミの故郷であるユダのベツレヘムに帰ります。ベツレヘムにはナオミの亡き夫の親戚でボアズという有力者がいました。
ベツレヘムに帰って来たナオミとルツでしたが、仕事がないのでルツはある畑に落穂拾いに出かけます。落穂拾いとはイスラエルにおいてやもめや孤児、寄留者といって現代の難民のような生活困窮者を守るための社会福祉の仕組みです。聖書にはこのような規定が書かれています。レビ記19章9~10節「土地の実りを刈り入れる場合、あなたがたは畑の隅まで刈り尽くしてはならない。刈り入れの落ち穂を拾い集めてはならない。ぶどう畑の実を摘み尽くしてはならない。ぶどう畑に落ちた実を拾い集めてはならない。貧しい人や寄留者のために残しなさい。私は主、あなたがたの神である」。続いて申命記24章19節「あなたが畑で刈り入れをするとき、畑に一束忘れても、それを取りに戻ってはならない。それは、寄留者、孤児、寡婦のものである」。ルツもナオミもやもめであり貧しい人であったため、ルツは畑に残された落ち穂を拾いに出かけました。すると偶然にもその畑はナオミの夫の親戚であり有力者であったボアズの畑であり、彼がこれまた偶然自分の畑にやってきてルツを発見し「あの娘はどこの者なのか」と尋ねます。初めて見る顔だったから気になったのでしょうか。彼女はモアブ出身だったため容姿や服装も周りの人とは違っていたのかもしれません。ボアズに尋ねられた畑の監督者は答えます。「彼女はモアブの野から、ナオミと一緒に帰って来たモアブの娘です。」ボアズはこれを聞くと彼女にとても親切にし、たくさんの落ち穂を持たせてナオミのところに帰らせました。
ナオミはルツがあまりにもたくさんの落ち穂を持って帰ってきたので驚き、「あなたは今日どこで落ち穂拾いをしたのですか」と尋ねるとルツから「ボアズという人のところです」という回答を得ます。これを聞いたナオミはボアズが自分の夫の親戚で、自分たちの家を絶やさないようにする責任のある者の一人であることを告げます。「自分たちの家を絶やさないようにする責任」とは古代イスラエルの「ゴーエール」という制度を指します。「ゴーエール」とは、借金が返せず身売りして奴隷などになっている人や生活が苦しくて土地を売ろうとする際に、もっとも近い血縁者が代価を支払って人や土地を買い戻し、その一族の身体と資産を維持する責任を果たす制度です。買い戻すがヘブライ語で「ガーアール」、その責任を持つ親族を「ゴーエール」と言います。ボアズはルツ、というより正確にはナオミのゴーエールの一人でしたがもっと近い親戚がいたので、ボアズはその親戚を交渉してナオミが売りに出した畑を買い戻し、さらにはルツのことも引き取りました。そしてボアズはルツと結婚し、2人の間にオベドが生まれたのです。
イエスの十字架、贖い
ボアズの前に確認したイエス・キリストの系図に出てくるダビデはウリヤの妻を権力を使って無理やり奪い自分のものとしましたが、ボアズは違います。夫に先立たれたルツに対して聖書に記された教えを守り、彼女を買い戻す責任を果たしました。「買い戻す」という言葉は聖書では「贖う」という専門用語が用いられ、新約聖書においてイエス・キリストの十字架は私たちの罪の贖いであると理解・解釈されています。イエス・キリストの系図を辿ると単にダビデの子であるというだけでなく、聖書の教えを守りルツを買い戻す責任を果たしたボアズからオベドが生まれ、そこからダビデ、そしてイエスが生まれたことが分かります。
待降節第3主日に私たちはイエス・キリストの系図を通してルツとボアズの物語に触れ、古代イスラエルのゴーエールという制度を思い起こしました。私たちはいよいよ来週クリスマスを迎えます。クリスマスはイエスの誕生を喜び祝う時ですがそれと共に、そのイエスが歩む十字架への道、暗く寂しい道のりにも心を留めて過ごしたいと思います。私たちがクリスマスにその誕生を祝うイエスは十字架を通して私たちに対する神の愛を明らかにし、罪によって寸断されていた神と人との間にある命の門を開いてくださいました。十字架の業に感謝して祈りつつクリスマスを待ち望みましょう。
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