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善人も悪人も神に招かれている

この記事では2025年1月12日(日)における十日町教会の日曜礼拝の聖書メッセージを公開しています。

聖書:マタイによる福音書22章1~14節

メッセージ本文:
今日は何だか良く分からないたとえ話ではないだろうか。王からの招待、しかも王子の婚宴を断る人なんているのだろうか。今日のたとえ話はルカによる福音書にも似たたとえがあるので比較のために読んでみたい。ルカによる
福音書14章15節〜22節である。以下のリンク(日本聖書協会の聖書本文検索)で読んで欲しい。

https://www.bible.or.jp/read/vers_search/titlechapter.html

ルカによる福音書におけるたとえとマタイによる福音書におけるたとえとでは設定や状況が異なっている。まずルカでは王ではなくある人の宴会の招待となっている。こちらならまだ断られるのも理解できるが、当時の状況を考えるとこれもおかしな話である。どういうことが言われているのか詳しく見ていきたい。

まずルカではある人が宴会に招待している。宴会と訳された語は1日の中心になる食事でたいがいは夕食を指す言葉である。この時代の宴会の目的は単に飲みたいということではなく、都市にいる上流階級の人々が折々に開いて基本的には自分と同じ身分・階級の人々の間で互いに返礼しあって社会的身分と繋がりを強化する政治的な機能があったと言われる。

食事の用意が整ったのでその人は1人の奴隷を招待客のところに遣わす。彼らは事前に招待してあった人々であり、招待に対して出席の返事をした人々である。宴会の主催者は出席人数に合わせて食事の内容や量を決める。例えば2~4人なら鶏、5~8人なら鴨、10~15人なら子ヤギ、15~35人なら羊、35~75人なら仔牛という具合である。冷蔵庫がない時代だから用意した料理はその日のうちに食べないと腐ってしまう。だから招待を承諾した客は約束を守って宴会に来る義務がある。

にもかかわらず招待客や皆一致して宴会に来ることを断る。たくさん招待したうちの数名が当日キャンセルするというのではない。年末に幼児園で忘年会を行ったが前日や当日に感染症や体調不良で急遽欠席となった職員が数名いたが、今日のたとえでは招待客全員が当日になって招待を断ったという驚きの事態を告げている。状況を知れば知るほどこのたとえで言われていることがどれだけ異常なことかが分かる。

どうして全員が断ったのか。招待客が結託して宴会の主催者を侮辱する目的があったからだと思われる。先ほどこの時代の宴会は基本的に自分と同じ身分・階級の人々が集まって繋がりを強化するために行われると説明した。要するに招待された客らは主催者が自分たちより下の存在で、一緒に食事をするのにふさわしくない身分・階級であるということを思い知らせるためにこのような侮辱的な仕打ちをしたと考えられる。招待客から主催者へのメッセージはこうである。「あなたは私たちを食事会に招く仲間、同じ身分・階級に属していると思っているかも知れませんが、私たちはそんなこと思っていませんよ。あなたは私たちより下で、一緒に食事をするのにふさわしくない人間です。」

たとえ話は宴会の主催者が侮辱されたところでは終わらずその後の物語を語る。宴会の主催者は皆一致して招待を断ったと知って怒り、「急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい」と奴隷に命じて用意した食事を与えたという。

招待客が皆一斉に招待を拒否したことにより、裕福であっただろう宴会主催者の家はその家にはそぐわない貧しい人々でいっぱいになった。彼/彼女らは思いがけないご馳走を前に笑顔いっぱいで楽しく賑やかな食事の時を過ごした。予定通り招待客が来ていたら繰り広げられることはなかっであろう楽しそうな声があちこちで起こる賑やかな食事会となったことが報告されてルカのたとえは終わる。

マタイではこのたとえが彼の意図に沿って編集され、主人公は王さま、宴会は王子の婚宴に変更されており、招待客が王の招待を断るというよりありえない状況が語られている。貴族が王さまの招待を断るなど実際の国家においてありうるのだろうか。マタイによる福音書においてイエスが語る話に出てくる王というのは神を表している。王である神が招待しているのにその招きに応えないだけでなく王の使いを無視し、捕まえて乱暴し、殺してしまう人々とは、かつて神が世に遣わした預言者たちをそのように扱った不信仰なイスラエルの人々(宮廷にいた貴族や祭司、宮廷預言者たち)を指していると考えられる。また同時に福音書記者であるマタイは神の子であるイエスを認めず、ついには十字架につけて殺した人々(ファリサイ派、律法学者、民の長老、祭司長たち等)のことも含めてこのたとえを編集している。

王子の婚宴への招きを拒否し、家来に乱暴した人々に対して王は怒り、軍隊を送って彼らを滅ぼして町を焼き払ったとイエスは語る。随分と恐ろしい王なる神の対応だが、これはイスラエルがローマによってエルサレムの町を破壊された紀元70年の歴史的事実を踏まえて書かれている。イエスが生きたのは紀元30年頃、そしてマタイによる福音書の成立は80〜90年頃と言われ、福音書には紀元66年から始まったユダヤ戦争そして神殿の破壊という経験が反映されているとみなされている。

かつてイスラエルの民はバビロン捕囚という国を滅ぼされ強制移住をさせられるという辛酸を舐めた。彼らはこれを神の裁きと理解し、不信仰であった自分たちイスラエルが預言者を拒否し神に逆らって生きた結果であると考えた。同じようにマタイは紀元70年ローマによってエルサレム神殿を含む町が破壊されたのは神の裁きであり、イスラエルの民がかつてと同じように神が遣わしたイエスを拒否し神に逆らって生きたためであると解釈したのである。そのような事情があるからマタイは特に物語の整合性を重視しておらず、たとえ話では町を焼き払ったと語っているのに次の文章では町の大通りに行って人を連れて来るようにという矛盾した王の言葉が記されている。

紀元70年、エルサレムの町はローマによって焼き払われた。これによってエルサレムに住んでいたユダヤ人、神から宝の民と呼ばれていた人々は世界各地に離散していった。王なる神は彼らの代わりに人々を招いている。どんな人を招くかと言えば正しい人、善人を選ぶのではなく町の大通りで見かけた人を誰でも招く。そこには善人も悪人もいて婚宴は客でいっぱいになった。「善人も悪人も」というのがマタイがたとえを通して私たちに知ってほしいことなのだと思う。神はかつてイスラエルの民を選び出した。それは数が多かったからではなく、他のどの民族よりも貧弱だったけれど、神の愛のゆえに神は彼らを選んだという。彼らが特別優れていた、信仰深かったというわけでもない。イスラエルには善人も悪人もいたが神は彼らを選んで宝の民とした。

エルサレムが破壊されユダヤ人が世界各地に離散すると、神は再びご自分の民とする人々を選ぶ。キリスト教の立場からするとそれが教会ということになる。私自身はそういうユダヤ人が選びから除外されて代わりにキリスト教徒が選ばれたという選民思想は展開したくない。歴史を振り返ってみればそのような思想がヨーロッパにおいてユダヤ人差別を常態化させ、ついにはナチスによるホロコーストといった虐殺を生み出したことをキリスト教徒として真剣に受け止める必要があると考えている。

一方でこれまでユダヤ人という一つの民族に限定されていた選び、招きが民族に関わらず、すべての人に開かれていることを教えるイエス・キリストの福音が喜びの知らせであることには代わりない。キリスト教会は王なる神によってすべての人が招かれている。教会というと清く正しい人が集うというイメージが日本にはある。しかしマタイによる福音書が示す教会のイメージは善人も悪人もが神に招かれて集う場所である。ふさわしくない者も招かれて用意されたご馳走をいただき、喜びに包まれるのが教会である。そしてふさわしくない私を招いて喜びを与えてくださることに感謝の応答をして私たちは神にふさわしい礼服を着る。礼服を着るとは身なりを整えるということではなく、招いてくださる神にふさわしい者となることである。それは隣人を自分のように愛して生きるという神に喜ばれる人生を歩むということである。

今日も神は私たちを礼拝に招いてくださった。善人だから招かれたのではない。私たちは心に悪いことを思い浮かべる時も多々あるし、他者に対していつも愛を持っているわけでもない。しかし神はそのような私たちを教会に招いて命のパンであるみ言葉を与え、喜びを与えてくださる。これに感謝し、神にふさわしい礼服をまとって今日から始まる一週間へと歩み出していこう。

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キリスト教会の礼拝で行われている説教と呼ばれる聖書をテキストにしたメッセージを公開しています。

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