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一人を大切にする聖書のリーダーシップ
この記事では、2025年2月9日(日)に行われた十日町教会の日曜礼拝において語られた聖書に基づくメッセージを公開しています。
聖書:ルカによる福音書15章1~10節
メッセージ:
先週はまぁ降り積もりましたね。これぞ豪雪地帯ということを思う1週間でした。昨年は除雪のお仕事をする方々、仕事がなくて大変だったかと思いますが今年はもう十分仕事ができたでしょうからそろそろ降り止んでもらいたいものですね。去年の田植えシーズンに水不足を嘆いていた松之山の農家さんもこの冬は屋根の上に積もった2メートル以上の雪を何度も雪下ろししていて、さすがにそろそろ雪はいらないと嘆いておられます笑
今週水曜日からいよいよ雪掘りキャンプが始まります。近年のキャンプは小雪でキャンパーにとって物足りない除雪体験でしたが今年はしっかりと体を使って雪国十日町を味わってもらえそうです。除雪体験に行かせていただく皆さま、どうぞよろしくお願いいたします。また青年たちにとって良い経験と学びの時となるように、また安全が守られるようにお祈りください。
いまの世の中では「リーダーシップ」という語が大変重宝され、国家や企業、保育園などあらゆる組織のトップにはリーダーシップが必要とされています。教会という組織においては牧師にリーダーシップが期待されていることでしょう。しかし同時に私が10年以上牧師をやってきて感じているのは、教会において牧師が発揮すべきリーダーシップと社会が求めるリーダーシップには重なる部分もあるけれど完全に一致するわけではないということです。そこを教会自身もですが特に牧師が弁えて注意しないといけないということを強く感じています。教会において牧師が発揮すべきリーダーシップとは必ずしも社会が賞賛するリーダーシップではないのです。それでは牧師は教会でどのようなリーダシップを発揮すれば良いのでしょう。そのヒントは聖書に記されています。キリスト教会は「私は良い羊飼いである」とご自分のことを紹介されたイエス・キリストが発揮されたリーダーシップを模範とするのです。ではイエスさまが語られるリーダーシップの内容とはどのようなものでしょうか。本日の聖書箇所、イエスさまの語られたたとえ話を通して迫って行きましょう。
イエスさまは人々に向けて百匹の羊を持っている人のたとえを語ります。羊飼いのたとえです。彼はリーダーシップを発揮して百匹の羊を放牧・飼育していましたが、ある日そのうちの一匹を見失ってしまいました。するとこの羊飼いは九十九匹を荒れ野に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し歩くというのです。そして見つけたら、喜んでその羊を担いで家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて一緒に喜ぶと言います。さて、皆さんはこのたとえを聞いてどんな感想を持ったでしょうか。(何人かに当てて聞いてみる)
たとえ話を詳しく見ていくと気付かされることがあります。それはここで羊飼いが一匹の羊を「見失った」と表現されていることです。実は百匹の羊のたとえはマタイによる福音書にも記されていますが、そちらでは「迷い出た」と表現されています。では「見失った」と「迷い出た」では何がどう異なるでしょう。非常にわずかな表現の違いですが、両者の表現を比較すると違いが浮かび上がってきます。まず「見失った」という表現では羊飼いに過失があるように取れます(繰り返し)。しかし「迷い出た」という表現では迷子になった羊自身に過失があるように感じられます。
私の好きな賛美歌の一つに『讃美歌21』の200番「小さいひつじが」があります。1節はこうです。「小さい羊が 家をはなれ ある日遠くへ あそびにいき 花さく野はらの おもしろさに 帰る道さえ わすれました」。いかがでしょう。この歌詞を聞くと羊が迷子になった責任は羊にあるように感じますよね。おそらくこの歌詞はマタイ版の羊のたとえ話を基に作られたのだと思います。
対して私たちが本日耳にしたのはルカによる福音書に記されたたとえ話です。そこでは羊飼いが一匹の羊を「見失った」と語られています。それは羊飼い自身が「自分が一匹の羊を見失ってしまった」という責任や過失を強く感じていることが分かる表現です。彼は百匹のうちの一匹がいなくなったことに対して、一匹が勝手に迷子になったとは考えていません。そうではなくて「自分が目を離してしまったから群れからはぐれてしまったのだ」と強く責任を感じているのです。もし皆さんがこの羊飼いの立場だったら、果たしてそんな風に思えるでしょうか。仮に教会でバスを貸し切って旅行に出かけたとします。40名が参加しました。観光名所に到着し、一同練り歩きながら観光を楽しみ、昼食場所に到着したところ一組いません。これってよくあることですよね~。そんな時に旅行を取り仕切っていた人があなただったら、どう思いますか?「誰々さんどこかのお店で夢中になって買い物しているうちに迷子になっちゃったんだ」とその人が群れから「迷い出た」と考えないでしょうか。私の場合、これが子どもたちを引率するキャンプだったら「見失った」と考えると思いますが、良い大人たちを引率する旅行であれば私が「見失った」とは思わずにその人が「迷い出た」と考えるでしょうね。
しかしイエスさまがたとえを通して語られた、百匹の羊を持っている羊飼いは異なるのです。一匹がいなくなるとそれを自分の責任を考え「見失った」と思いました。だからこそ、だからこそです。彼は九十九匹を荒れ野に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し歩くのです。私はいま九十九匹を「荒れ野」に残すと言いました。皆さんがお持ちになっている聖書では「荒れ野」ではなく「野原」と訳されていると思います。「荒れ野」と「野原」では受ける印象がだいぶ異なりますよね。聖書の元の語を調べるとここで用いられているのはルカによる福音書4章1節以下でイエスさまが荒れ野で40日間、悪魔から試みを受けられたという出来事に出てくる「荒れ野」と同じ語です。キリスト教会ではまもなく受難節/レントといってイエスさまが十字架につけられるまでの苦しみを覚える期間を40日間過ごし、その後に復活祭/イースターという祝祭を迎えます。受難節に入る最初の日曜日には必ずイエスさまが荒れ野で40日間誘惑を受けられたことを覚えて礼拝をお捧げします。もしもここが荒れ野の誘惑ではなく野原の誘惑だったらおかしいですよね。野原の誘惑って何ですかそれ?お花とか蝶々が誘惑してくるんでしょうか。もしも荒れ野を野原と訳してしまってはここで言いたいことが全く伝わりません。その意味で新共同訳聖書の訳は適切ではありません。現に新しく出版された聖書協会共同訳聖書では九十九匹が残された場所は荒れ野の誘惑と同じく「荒れ野」に訳が変わりました。つまり羊飼いは荒れ野に九十九匹を残してまでも一匹を捜しに出かけたのです。
私はこれがイエスさまが示された聖書のリーダーシップであり、教会の牧師が目指すリーダーの姿なのだと思います。すなわち一匹が群れからはぐれ寂しい思いをしている、不安に押しつぶされそうになっている、危険にさらされているという時に自分が「見失った」のだという意識を持ち九十九匹を荒れ野に置いてまでして一匹が見つかるまで捜し歩くリーダーです。費用対効果だのじゃあ荒れ野に残された九十九匹はどうなるんだという一見するともっともらしい批判の言葉を振り切って、数の問題ではなく切迫度や緊急度の高いたった一人の優先順位を一番にして全身全霊を注いでいく。これがイエスさまが福音書を通して私たちに示されたリーダーの姿です。それは過激で、ひどく偏っています。以前の説教でも私は神の愛は偏る、偏愛すると述べました。イエスさまは今日のたとえ話において私たちに過激なまでに偏った愛を示しています。そして「あなたがたのうちに、百匹の羊を持っていて、一匹を見失ったら九十九匹を荒れ野に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し歩かないだろうか。それをするのが当然だろう。この過激なまでの愛の偏りこそ神の愛そのものであり、あなたがたが求めてやまない神の国とはこのような愛の偏りが批判されることなく当然のこととして受け入れられ、歓迎される場所、社会である。」そのように語っているのです。
東日本大震災が発生した時、ある先輩牧師がすぐに東北に向かい救援活動を開始しました。その方は北海道出身の牧師ですが、阪神淡路大震災より前の1993年(平成5年)に発生した北海道南西地震によって死者202人、行方不明者28人という甚大な被害を被った奥尻島での救援活動にかかわり、その後の阪神淡路大震災でも長田センターの柴田さんらの先輩として救援活動に携わった、いわばその道の先駆者の一人です。その方は東日本大震災の際には岩手の大船渡や釜石に入って救援活動を開始するのですが、そこで目にした津波の被害は今までに見たことのない惨状でした。それでも自分にできることを見定めて一所懸命に救援活動に取り組みました。月曜日に現地入りし、土曜日には千葉にある自分の牧会する教会に帰り日曜日の礼拝説教を担当する予定でしたが、土曜日になってその牧師さんはある決断をして電話で教会役員会に伝えます。「日曜日も教会に帰らない。いや、帰れない。明日は自分たちで礼拝を守り、被災地のために祈ってくれ。以上。」本当にその牧師さんはこういうぶっきらぼうというか直接的な言い方をされる方なんですが、そういって現地にとどまり、結局3週間か1ヶ月岩手で救援活動を行いようやく千葉に帰りました。
さて皆さん、突然3週間から1ヶ月も牧師が帰って来なくなり教会役員会はじめ教会の皆さんはどんな反応を見せたでしょう。もしこれが十日町教会で起こったらと仮定して考えてみると面白いかもしれません。その教会では役員会、そして教会員の総意として、こんな未曾有の災害で現地入りして救援活動をするのなら1ヶ月くらい帰って来られないのは当たり前。自分たちは千葉で被災地のこと、そして牧師の安全を祈りながら礼拝を守るから私たちの分までよろしくお願いします。そういう態度で牧師の決断を後押ししました。
私はこの話を聞いた時、素直に感動しましたね。どれだけの教会がこういう決断をして送り出してくれるだろう。むしろ「牧師の務めは教会の礼拝を守ること。被災地での救援活動から帰って来ないなんてけしからん!」そう言って牧師の決断を批判し、謝罪させる教会の方が多いんじゃないかって思ったからです。もちろん状況にもよりますしこれが必ずしも正解というほど事柄は単純ではありませんが、それでも現地に救援活動に赴いた人が悩み祈りながら残るという決断をしたのであれば、それをもっともらしい言葉で批判するのって、イエスさまが今日教えてくださった羊飼いの姿すら批判することにならないかなって私は思うんです。
イエスさまはもっともらしい批判の言葉を口にしてしまう私たちに問いかけています。「九十九匹を荒れ野に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し歩かないだろうか。」そして見つかったら友達や近所の人々を呼び集めて「一緒に喜んでください」と言い、その人たちも一緒に喜んでくれるはずではないかと。イエスさまは友達や近所の人々に対して九十九匹を荒れ野に置き去りにして一匹を捜しに行ったことを批判するのではなく、一匹が見つかったことを一緒に喜ぶことを期待しています。
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