備忘録#1
大学に入ってはじめて空っぽの時間ができたことで、将来についてめっちゃ悩み始めてしまいました。今は就活もしたくない、大学院にも行きたくなかったので、ひたすら社会人に話を伺ったら、本当に多くの人がアドバイスをくれました。
その中から少しだけ紹介したいと思います。
名前のある職業につこうとするな
多くの人に言われました。
自己実現をするための手段が仕事なのだから、仕事を目的にしてはいけない、と。
昔からずっと「幼稚園の先生になりたい」「国境なき医師団に入りたい」「薬剤師になりたい」「この大学に行きたい」「この会社に入りたい」となりたいものや入りたい組織しか頭になかった。
でも、もしその職業や組織がなくなったら?もしお金や社会的地位に何の価値もなくなったら、私は何のために働くんだろう?と考えるきっかけになったのが、この言葉でした。
職業の名前なんて、手段を勝手に切り取ったものに過ぎないのだから、それにこだわるのはやめなさい。
こう言ってくれる人がいなかったら、所属のラベルをひたすら求め続け、何がやりたいのかわからない空っぽのまま大学生活を過ごしていた私は、就職するときも懲りずに名前を追い求めていたと思います。
海外に行きたかったんじゃなくて、行かざるを得なかった
ユートピアはどこにもありません。結局自分が何を許せて、何を許せないかで、どこに住むかが決まります。
デンマークは幸福度が高いと言われていても、「デンマーク人にとって」という主語が隠れており、さらに「デンマーク人のために作られた国だから」という理由はあまり語られることはありません。
自由で寛容なオランダでも、トイレのあと手を洗わない人が多い、電車の中でみんな好き勝手電話したり叫んだりしている、と聞きました。子供の幸福度は世界一かもしれませんが、果たして周囲の幸福度も世界一なのでしょうか。そもそも、他人によって定められた幸福度は、私の基準と同じなのでしょうか。
シンガポールは確かに豊かでインフラも整っていますが、デモをすることが許されない、報道においてはアジアでも有数の、自由が制限されている国です。
非帰国子女が必死に努力をして現地語を覚えるだけではなく、その国の価値観を理解して、その国の風土を「仕方なく」受け入れて、ビザや居住のハードルを越えて、やっと市民として暮らせるまでにどれだけの苦労をしなければいけないのでしょうか。そして、待ち構えている「移民」として生き続けることの息苦しさは、日本にいる息苦しさよりマシなのでしょうか。そんな苦労をしてまで、海外に出る価値はあるのでしょうか。
自分の思っていることを何にも考えずに表現できないもどかしさは今痛感してます。スペイン語で話したくても、英語で話さざるを得ない。しかも英語もそんなに得意じゃない。自分の頭で考えていることが言葉にできない。
言語の壁が他の壁にもなることを知りました。だから、私は海外から来て日本で働いている海外の人を心から尊敬しています。日本で働くには、日本語が話せなければまず話になりませんから・・・
私が今までお会いした、日本を出て海外で暮らす人は、皆日本の治安やインフラ、行政の対応、外食の安さを評価しています。それでも、どうしても日本の同調圧力が嫌だから、これからの経済に明るい見通しがないから、言論の自由が守られていないから、日本の政治が変わらないから、そしてそれらはどうしても許せないことだったから、海外に行かざるを得なかった。
生まれ育った環境で、母国語が安心して使えて、自分が大切にしている価値観が守られ、そこそこの生活ができるのであれば、とても幸せなことです。
仕事とは誰かのためにするもの
その人の顔が思い浮かぶなら、仕事の意味を探し続ける必要はない。
仕事の経験を量的な積み重ねとしか見ていないのだとしたら、それは貧しい。
量的な変化は、量的な思考の枠組みの中で何かが強化されることを意味している。その枠組みが変わらないのであれば、精神的な成長は難しい。
量的な変化を好む人は、世間的な基準に幸福度を委ねている。
他人の価値観で決められたことにこだわるなってことでしょうか。
私がコーチングを受けた時、「もし無限の時間があり、無限のお金があり、権力があったらどうする?」と聞かれたとき、困りました。それらが手に入らないことでストレスや不満を持っていたのに、いざ手に入ると何をしていいのかわからなくなってしまう。時間やお金は私が求めているものではないようです。
私は好き嫌いがはっきりわかれているし、お金や権力はほしいと思っていたし、自分のなかで目的がないと納得して進めることができません。そんな私が、時間と金と権力がすべて手に入った自分を想像できなくなって困るなんて、思いもしませんでした。
好きなことやったらいいよ 「~したほうがいいかな」はやるな
好きなことってなんでしょうね。私の場合は、自分に問いかけて本当に好きかどうか、やるかやらないかを吟味する前に、「これはやらなきゃいけない」という使命感や「とりあえずやったらいいことありそう」みたいなうすっぺらい動機に駆られて何かを始めることが多かったので、好きなものを見失ってしまいました。
大学三年の夏休みに周りに流され自己分析なるものをやりました。のめりこむほどやった活動はないし、どの活動も心のどこかで「お金ももらっていないのに、どうして自分がやっているんだ」という思いでやっていたので、好きなことってなんだっけと絶望していた時期がありました。
そこで、社会人の人に話を聞きに行って、本を読み漁って、周りの人が何のために仕事をしているのかをひたすら質問していました(ここで初めて人文系の学問の奥深さと楽しさを知りました)。何かを知ること、疑問に思ったことをすぐ口にすること、あまりにもストレートな物言いをしてしまうことは、小さなころからの癖でした。
自分の持っている仕事のうち、どんな時に喜びを感じるのか、嬉しくなるのかいちいち言語化するようにしました。
半年くらいつづけているうちに、何かを知ること、疑問を持って質問すること自体が自分の好きだったこと、一個のタスクを集中的にすることが得意なことだったと、ようやく気付くことができました。
逆に、これまでできていたと思っていたマルチタスクは実はとても苦手だったり、自分を客観視したり言語化することに慣れていないこともわかりました。
これに気付いた後でも、不安になってプログラミングとか金融とかを勉強したほうがいいかな、と頭をよぎることがあります。実際、やればお金にはなるし、やる余裕はあります。
それでも、「~したほうがいいかな」と考えているときは、本当はやりたくもないのに必死に論理を頭の中で組み立てていて、納得させようとしている
時だ、と言われました。最後に勝つのは直観と感情です。
結局、なにするの?
今までのアドバイスももらって、居心地よい環境で、自分の好きなことや得意なことを生かして、人のために仕事をすればいいんだとの結論に至りました。あまりに当たり前すぎて、拍子抜けしました。
私は幸いにも多くの機会を享受できるような環境にいます。情報に溺れ、好きなことすら見失ってしまうような中で、一つの結論にある程度自信をもってたどり着けたことは奇跡的だったと思います。
これまでお話を聞いてくださった方々、本当にありがとうございます。みなさんの一つ一つのアドバイスに本当に考えされられましたし、大きな励みとなりました。これからもご指導のほど何卒よろしくお願いいたします。