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『普通』のn乗は普通じゃない

知恵袋とか発言小町とかを興味深く読んでいた時期がある。
そこには様々なお悩みが投稿されており、人気のものには数十件の回答が寄せられている。
お悩みに対する回答の基準となっているのは『一般的に考えれば』『普通なら』という概念だ。
そして数十人に回答されることで世論投票のような形となり、どういった考えが世間では一般的であるかがわかり、その一般論こそが正しいと判断され、ベストアンサーが決まるわけだ。

たくさんのお悩みと回答を読んでいるうちに、それぞれの媒体における回答者たちのクセが次第に脳にインプットされてきて、お悩みを読んだだけで、回答はこんな感じだろうとなんとなく想像できるようになる。
Yahoo!ニュースに対するコメントも同じようなもので、世間様はどんな風に評価しているか答え合わせをしてみたい感覚で、ニュースよりもコメントが気になってしまうくらいだ。

そんなことをしていると、自分の判断基準がすべてそういった媒体で身につけてしまった『普通』という概念に支配されてしまっていることに気がついた。
普通ならこう考える。
普通はこうだから、これはおかしい。
といった感じ。
例えばパートナーが何か気に入らないことをしたとしたら、発言小町に投稿したらこれは絶対パートナーが叩かれる、だからパートナーが悪いに決まってる、という風に考えてしまう自分。
でもこの普通って本当に普通なのかしら。
そもそも私と相手の問題を、全て一般論に委ねる必要ってあるのかしら。

自分の考えの根拠となるものが、どこかで身につけた世論的な感覚になってしまうと、自分の考えは全て一般化されてしまう。
それってとても恐ろしいことだ。
結果、自分の行動は全て『普通』の感覚によって常に世間からジャッジされているような感覚に陥り、日々はとても息苦しくなる。

広い意味では知恵袋や発言小町もSNSに含まれると思うが、SNSの利用が一般的になった今、一昔前よりも個人の意見が世間の声に触れやすくなった。
そして世間がどう思うかという基準で物事の良し悪しを判断する癖が脳に染みつき、結果的に、自分で判断すべきことまで無意識のうちに世間の判断に委ねるようになっている部分があるのではないか。

一昔前と比べて、多くの顔も知らない他人の声が個人に届きやすくなり、私たちは『普通と比べてどうか』と考えやすくなった。
『普通』という名のマジョリティに属さないと、世間から取り残されたような感覚になってしまう。
けれども、すべての物事においてマジョリティに属そうとしたら、それほど息苦しいことはないだろう。
『普通』に振り回されることに嫌気がさして、私は知恵袋や発言小町をもう読まないことにした。

ここでも普通に、そこでも普通に、普通に考えたら、普通なら…
普通×普通×普通×普通…
それはもはや普通ではないのだ。

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