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遊びと学びは同じモノだって誰かも言ってたなあ

こんにちは。
株式会社プロタゴワークスあかねです。

休みの日は、できる限り家の中でじっとしていたいと思うんですが、今日は天気が良かったのもあってか久しぶりに子どもの誘いにのってバドミントンをしてみました。

バドミントンとは言っても、ウチの子どもはラケットにシャトルを当てるのさえ覚束ないレベルなので、僕が手でシャトルを投げて、それをラケットに当てる練習を延々繰り返すというような、バドミントンの道具を使った遊びです。

そんな感じの遊びなので、それ程長く続くわけもなく、途中途中で家の中にいっては「暑いから」と言って半袖になって戻ってきたり、何やら別の遊び道具を取ってきたり、終いには「鬼滅ごっこをしよう」と言って、刀身がスポンジでできたおもちゃの刀(我が家で言うところの『日輪刀』)を持ってきました。そうして始まる「鬼滅ごっこ」。
スポンジ製の日輪刀でやるチャンバラも、少しやって飽きたところで、「ちょっと待ってて」と一言だけ言い残して、また家の中に戻っていきました。

「ちょっと」って言う割にはまあまあ待たされている間に、ふと見ると、さっきまで使っていたバドミントンセットと日輪刀が置いてあります。
スポンジ製チャンバラだと、思いっきり振ると重量が軽すぎるし刀身が撓り過ぎるのと、相手が子どもというのもあって、全力で振る事はできません。そうすると、何となく思いっきり何かを振りたくなる感じがあるんです。
そんな時に、バドミントンのラケットって「もしかしたらちょうどいいのかも」なんて思って、軽く振ってみると重さとかが凄くちょうど良い感じがするんです。

考えてみれば当たり前なんですが、バドミントンというスポーツのルールや特性を考えたら、そのラケットが片手で振るのに「ちょど良い感じ」になっているのは当然に決まっているんです。と言うか、「片手で振るのにちょうど良い感じ」にする為に各メーカーが技術の粋を集めて鎬を削って作られているのが、今目の前にある道具なんだろうなと。

そんな、「片手で振るのにちょうど良い感じ」の物を、とりあえず見よう見まねでイメージしたバドミントンプレーヤーの様に振ってみます。
上から振ったり、下からすくい上げるように振ったり、横から払うように振ったり、斜めに振り下ろしたり振り上げたり。
それらのどの動きに対しても、何というか「ちょうど良い重み」のようなモノを感じながら振ることができて、肘とか肩とか手首に変な負荷がかかって痛めるような事は起きづらいのかもしれないなあと思ったんです。振れば振るほど、考えて作られているのを体感できる感じというんでしょうか。

そんな動きを何度かやりながら、「この動きの中で、ラケットの面の角度とシャトルの角度とかを見極めてというか計算してというか、そんな事を一瞬にも満たない中でイメージして、相手の取りづらい所に落とすって事をやってるのか」という事に、今更ながら気が付いて驚いたんです。

何しろ、僕はこの時、「ただラケットを振っていた」だけなんです。
特に、ラケットの面の角度を意識するわけでもなく、ホントにただ振っていただけ。ただし自分に出せる最大のスピードで。それでも、自分でもハッキリわかるほど、バドミントン選手の振りとはスピードが段違いに遅いわけです。
子どもが戻ってくるまでの間の単なる暇つぶしでラケットを振ってみただけだったんですけど、こうなってくると何というか、ちょっとムキになってきたりするのは僕だけなんでしょうか。

「どうにかしてもっとスムーズにスピーディーに且つ自由に繊細にラケットを振ることはできないもんだろうか?」

そんな事を考えてしまって、肩甲骨周りの動きとか、肘の使い方とか、手首のスナップを利かせたり利かせなかったり、できるだけ力まずに動かせるように握りを変えつつ、できる限り緩めつつだけどすっぽ抜けていかないように・・・などなど。

そんな事をやっている内に、段々と、他のスポーツ、と言うか、格闘技や武術の動きや体の使い方との共通点が見えてきたような気がしたりしたんです。
例えば、上から振り下ろす際の肩甲骨の使い方とか、振り始めで腕を折りたたんでいる状態での肘の向きとか、インパクトの際の手首の使い方とか、重心の移動とか、柄の握りの際に脱力をする指としっかり握る指とか、当然ながら距離=間合いの見極めも必要ですし。
この辺りの事が、他のスポーツ、とりわけ、格闘技とか特に武術的なモノとの相性がとても良いんじゃないのかなあと思ったんです。

それを特に感じたのは、僕が教わっている武術の先生がいつも言ってくれる事を思い出す瞬間がたくさんあったからなんです。

「自分の“重さ”が、実際よりもずっと先にあるのをイメージして(意訳)」とか、
「しっかり稽古してそれができるようになると、フォームに関係なく例えば手を軽く振るだけで、自分の“重さ”が全部手先に乗るので、当たれば倒れるようになる(意訳)」

というような事をいつも教えてくれるんです。
当然ながら、僕はそんなレベルには無いので、言われている言葉の意味は理解しているつもりですが、なかなかイメージが出来なくて、「まあ、そういうことならガンバろう」的な感じで、先生の教えなのでもちろん全力で信じているしそこに疑いの余地は皆無なんですが、何しろ自分は再現ができないので、“とりあえずやる”みたいない感じに、どうしてもなっていたんです。

だけど、今日のバドミントン遊びによって、その感覚が今までよりも何となくわかってきた感覚が得られたような気がするんです。

もちろん、この僕の“感覚”が正しいモノかどうかは、これから先の稽古によってわかってくるので、客観的な状況を比べてみると「何一つ変わった事は無い」というのが、いわゆる「事実」なんだとは思います。

でも、今日のバドミントン遊びや鬼滅ごっこをしていなかったら、僕が「得られたような気がする感覚」を感じる事も無かったわけですし、物体としては何一つ存在していないんですが、僕の中に今日発生して感じた「感覚」は、僕の中には間違い無く存在しています。
これを、「在る」というのか「無い」というのかは、僕にはわかりません。
と言うか、僕の主観的な意見であれば「在る」としか言えないんですが、その「在る」モノを客観的に証明して見せろと言われると、今のところ客観的に証明する事はできないので、「無い」という事になるのかもしれません。
ただ、そもそも「客観的な証明は本当に必要なのか?」という「問い」が出てくるので、「在る」のか「無い」のかを考える必要があるのかどうかも「問い」として持っておく必要はあるのかもしれませんけど。いずれにしても、僕の中で「感覚的に」ではあるけれども、以前と比べたら「わかった」と思えたのは、僕にとって良い事だし、これから考えるための材料が増えたのは間違いないし、稽古を進めるうえでのきっかけにもなるし、稽古を続けるためのモチベーションにもなったわけだし、一つの「学び」としては確実に前進したと断言できる事が起きたので、本当に素晴らしい事だなあと、自分の事ながら、今は思っているわけです。ここで、「慢心」が起きなければ、「慢心」が起きてしまったらそれに気付くことができて修正ができれば、それは更に良い事だなあとも思うわけです。これぞプレイフルラーニング、って言っても良いのではないでしょうか。

この辺りについては、先日ウチの会社主催でやった、オンライン哲学対話の「“わかる”と“わからない”」でもたくさん話をしたところだなあと、今書いてみて繋がってきました。

休日の遊びの中で、こんな事を考えてみたんですが、そこから更に僕の妄想は加速して、今は「今後、格闘技界に“バックボーン:バドミントン”と謳う選手が出てくるかもしれないなあ」なんて事を考えています。
例えば、オリンピックを目指すようなアスリートレベルでバドミントンをやってきて、そこから急にMMAに転向して、バドミントンの動きを活用した戦い方で活躍をして注目を浴びる選手。もしかしたら、そんな妄想も夢では無くなる日がくるかもしれないなあと妄想は膨らみます。

そんな事をやりつつ考えつつ、結局、「ちょっと待ってて」と言い残された僕は、ちょっとではなくそのままずっと待ちぼうけ。待ちくたびれて家に入ると、子どもはNintendo Switchを楽しそうにやっていました。

そうだね。ゲームは楽しいよね。いや、いいんだよ。僕も妄想が広がって楽しかったから。これが平和な休日の過ごし方だと思うよ。これでいいんだ。


あかね

株式会社プロタゴワークス

https://www.protagoworks.com/


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