選んだモノと選ばなかったそれ以外
こんにちは。
株式会社プロタゴワークスあかねです。
「何かを選択するって決断するコトって実はとても難しいコトなのかもしれないですよね」
週の頭のミーティングで仲間とこんなことについて話をしました。
この話題は僕たちにとってはまあまあ重要なテーマだったりするので話題に上がる回数はかなり多いテーマのうちの一つだったりするんですが、この時に話してたことで今までよりも少しだけ解像度が上がったような感じがしたので忘れないように書いておこうかなと思っています。
とは言え、話題に上がっていたコトを全て事細かに書くことはできない内容だったりもするんですが、“選択&決断”をする際に必ずそこに不随してくる諸々についてが話の大枠です。
これまでは“選択&決断”をする時には「その結果として起きる諸々を引き受ける」ということが必ずセットで不随してくるけれども、この「引き受ける」というのは「=全ての責任を引き受ける主体になる」ということもであるのでこの覚悟を持つための心理的負荷に耐えられる人じゃないと“選択&決断”の際に様々なバグ(のような反応)が生じて、その後の“発言&行動”に整合性が見えなかったり論理が飛躍していたり、なんてことが起きるのではないだろうか?なんてことを考えていました。
でも、最近の様々な出来事から「他にもこういうことがあるから“難しさ”が大きいのかもしれない」というのが見えてきました。
それが、「他の可能性を“切り捨てる”ことへの抵抗感」なんじゃないかなということです。
“選択&決断”をする時に「引き受ける」が必要なのは言うまでもありませんが、それとほぼ同時になのか少し手前なのかはわかりませんが必要なこととして、「選択したモノ以外の可能性を“切り捨てる”という選択&決断をする」ということが必要になってきます。
これ自体は様々なところで言われているので情報や知識として特に真新しいモノではありませんが、「“切り捨てる”ということが自分たちの中で選択&決断を鈍らせている」という感覚があまり無かったということにここ最近で気が付きました。
このことに気が付いたのは、「対象以外のモノを“切り捨てる”ということを長い間ずっと意図的にやってきた人たち」と「“切り捨てる”ということに意識を向けずにやってきた人たち」とを交えて、ここ何か月かの間で何度も対話をする時間をたくさん持った経験からでした。
「“切り捨てる”を意図的にやってきた人たち」というのは、例えばこれまでの人生の中で“何か”を獲得するという目的や目標を掲げて、それに向かってキツイことやシンドイことに多くの時間や労力をかけて取り組み、それと同時にその時間と労力を“他のコトには向けない”と決めていわゆる努力と呼ばれるような取り組みを続けてきた経験を持っている人たちです。
一方で、「“切り捨てる”を意識してこなかった人たち」というのは、その逆です。
どちらであっても結果的には“選択&決断”をしていることにはなっているはずなのでそこに“違い”が出てくるなんておかしな話に聞こえるんですが、そこにどうやら大きな“違い”があるんじゃないだろうか?
そんな仮説を立てて様々なモノを観察して分析してみると新たなコトが見えてくるように感じられます。
「それ以外のモノは“切り捨てる”んだ」という覚悟を決めて“選択&決断”をし続けてきた経験を積み重ねてきた人たちにとっては、それ以降でも“選択&決断”と“切り捨てる”ということについて“覚悟”をもって“引き受ける”ということが必ずセットになっているのが見えてきます。
具体的にどういうところから“それ”が見えるのかと言えば、“選択&決断”をするにあたっての根拠が明確なところと、優柔不断さが無いように感じられるところと、“責任&覚悟”からくる“ブレなさ”が見えます。
一方で、「“切り捨てる”を意識してこなかった人たち」は、その逆の特徴がたくさん出ているように感じます。
“選択&決断”をする際の根拠が不明瞭だったり論理の飛躍があるので、その結果として“優柔不断”になったり逆に“意固地”になったりするけれども、“覚悟”を決めて“責任を引き受ける”という言動や姿勢が見られず、場合によっては「“選択&決断”や責任の所在を他者に担わせようとする」という言動がよく見られる。
なんてことが見えてきました。
とは言え、これはあくまでも今の段階の仮説なだけなのでこれから様々な部分で検証していこうと考えています。
ただ、色んな人が色んなところで色んな言葉で言っているように、
「何かを新しく背負うには、今背負っているモノをおろさないといけない」
というニュアンスの言葉があります。
だから、恐らくは多くの人達が“こんなこと”は百も承知なんだと思いますし、“結果的に”そうしてきているのは誰であっても間違いはないだろうと思います。
でも、これを明確に意識して意図的に「これを背負うために、こっちはおろすぞ」と常にやっているのか、それともただ自然の成り行きで「そうなっちゃっていたね」というだけなのか。
これが積み重ねられていけば“なんらかの差”が出てくるのは間違いないことについては「確実だ」と言えそうです。
そして、実際にこの仮説の通りなのであれば“選択&決断”とか“切り捨てる”とか“覚悟&責任”というモノは、それまでの人生であまり経験が無かったとしても“仕事”の中でその経験を培っていくことが可能なんじゃないか、という新たな可能性というか希望のようなモノが見えてきたような感じもしています。
ただ、いかに“選択&決断”と“切り捨てる”を意図的にやってきた人で、重要な事柄__仕事における“選択&決断”など__は論理的に考えて即断即決をしている人であっても、あんまり重要でないこと__例えば「レストランで何を頼むか?」など__の時には優柔不断さが大いに発揮されたりする実例を見ているので、途轍もなくハードな経験を積んできていたとしてもなんでもかんでも即断即決できるわけでもないんだなぁ、っていうのもわかってきたのは“この件”について考察している中での大きな収穫だったような気がしています。
あかね
株式会社プロタゴワークス
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