削り出してみないことにはわかりません
こんにちは。
株式会社プロタゴワークスあかねです。
「まずは、自分の内側にあるモノを洗いざらい書き出してみて、それから、本質的なモノ以外はどんどん削っていきましょう」
これは僕と仲間が何かを創り出す時によくする話ですし、仕事で“他社・他者のサポート”をさせてももらっている時にもよくする話でもあります。
これがしっかり行われると、最後に削り出されて浮かび上がってくるモノに対してとても「しっくりきた」とか「腑に落ちた」という実感を持つということが、その本人の様子からとっても伝わってきます。
「(本人が)腑に落ちた」という実感に立ち会えると、いつも「ああ、よかった」という安心感というか嬉しい感覚というか何とも言えないポジティブな感覚が湧いてきます。
そんな時にいつもこんなことを思います。
「誤魔化しのきかない嘘偽りの無い本当の瞬間ってこういう感じなのかもしれないなぁ」と。
とは言え、冒頭のようなことをやってみたとしても「必ず“腑に落ちる感覚”が得られます」というわけではありません。
というよりも、実際にそれをやってみたとしても「全然しっくりこない」とか「う~~ん…こんな感じかなぁ…」なんて具合に、「全く腑に落ちない」という状態になるのがスタンダードと言っていいのかもしれません。
こんな“本質的なモノに辿り着くための取り組み”をやり始めた頃は、僕も仲間も全然「腑に落ちた」にはなりませんでした。
あーでもない、こーでもない、を途方もないくらいさ迷って、時には「もうダメだなこれは」と投げ出したりして、それでもどうしても「やらないと先に進めない」と考え直してまた取り組んで。
そうしてようやく「この感じか!」を得られることができた記憶があります。
それからも、もう数えきれないくらい“本質的なモノに辿り着くための取り組み”にトライしては上手くいかなくて、何度も諦めて、またやってみてを繰り返しながら、たくさんの「腑に落ちた」を体感してきました。
今でも時々は“書き出す”をすることもありますが、それよりも仲間と“対話”をすることで「腑に落ちる」に辿り着くことがほとんどになってきています。
そんな「腑に落ちた」を味わってみると、「腑に落ちた」と「腑に落ちてない」の違いのようなモノが段々とわかってくるようになりました。
そして、恐らくではありますが1度でも「腑に落ちた」を体感したことがあるのであれば、「腑に落ちた」のか「腑に落ちていない」のかの違いは見間違えることのないくらいハッキリと明確にわかるんじゃないかと考えています。
これまでにたくさんの人の「腑に落ちた」の瞬間に立ち会ってきましたし、「腑に落ちていない」には更に何倍も見聞きしてきましたが、最も明確な違いが見えるのは“その瞬間”もそうですが、それ以上に“その後の言動”です。
「腑に落ちた」その瞬間であれば、「腑に落ちたかどうか」を語る際の言葉が明確な“言い切り”になります。
これが「まあ~」とか「多分~」とか「~かもしれない」とか「~ような気がする」などの表現があればそれは間違いなく「腑に落ちていない」の状態ですし、また、それを語る際の表情や態度にも明確に「腑に落ちたかどうか」が表れてきます。
そして、「腑に落ちた」になると“その後の言動”がそれより以前とは明らかに変わります。
「どう変わるのか」については“取り組んだコトガラ”によってもその人によってもそれ以外の様々な要素によっても違うわけですが、本当に「腑に落ちた」のであればハッキリと明確に“変化”が起きます。
ここが一番の違いとして見えてきます。
そして何よりも、
「まずは、自分の内側にあるモノを洗いざらい書き出してみて、それから、本質的なモノ以外はどんどん削っていきましょう」
というコトが実践されていくようになります。
顕著なのは、「自分の内側に在るモノをなんでも盛り込んで伝えよう」という言動が多かったところから「本質的なモノ以外は削る」というという“削る作業”への抵抗感が減っていくところです。
これを体感するまでは、「どれもこれもが大事だから、どれも一つも削れないし捨てられない」というような状態だったのかもしれません。
でも、「削って磨いていった先に“本質”が在る」ということを体感を持って理解したからこその変化なのかもしれません。
そして、「削って磨く」をする前には「洗いざらい全部吐き出すということがとっても重要だ」というのも体感を持って理解するんだろうとも。
だからまずは、思いっきっり全部を吐き出す。
そうして自分の中身が空っぽになるまで外化することができたら、“それ”についての全てが一望できる状態になるからこそ余計なモノをガリゴリと削り落すことで、その“核”になっているモノを露わにしてダイレクトに触れることができる。
そうやって、“自分の中身”を外化して余計なモノを削り落して“核”を露出させることで、まさに「自分の“腑”を内側から引きずり出して、その“腑”に自分で直に触れる」からこそまるで電撃が走るかのような感覚と共に「腑に落ちた」を得られるのかもしれません。
そうやって考えてみると、「腑に落ちた」を得るためにはやっぱりなかなか大変な取り組みなんだな、とあらためて実感しますし、こんな「自分の腑を自ら全部引きずり出して、掻き分けて、一番重要な腑を掴み出す」という途轍もなく負荷の高いことに取り組む人には、今まで以上に敬意を払う必要があるなぁ、と実感しました。
すっげー大変だし苦しいからこそ、誰かのサポートが必要だとも思います。「でも、やりたい」とか「だから、やらねば」と思っているのであれば、是非とも一緒にやりましょう。
あかね
株式会社プロタゴワークス
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