まるで別人のようですが
こんにちは。
株式会社プロタゴワークスあかねです。
「もうすっかり別人になっちゃいましたね」
こんな話を仲間とすることがあります。
“他社・他者のサポート”を仕事にしているウチの会社が関わらせてもらって様々なキッカケを提供することでバチッと“変容”していく人達に、これまでたくさん出会ってきました。
そんな“変容”が起きることを願って様々な仕掛けをしてキッカケをそこかしこに準備するのがウチの“仕事”なので、「人が“変容”したかどうか」というのは仕掛けている側の僕たちからするとかなりハッキリとわかります。
そして、この“変容”と呼んでいるモノが起きると必ず“行動”にも変容が起きるわけですが、逆に言えば“行動変容”が起きないのであれば、それは僕たちから見ても「“変容”した」という姿には映りません。
その状態に名前はつけていませんが、言うなれば「“変容”が起きるすこし手前の状態に変化した」という感じなのかもしれません。
それがどんなモノかと言えば、“行動変容”は起きていないけれども“新しいわかり方”をしたことでモノの見え方だけが変化したような状態というような感じでしょうか。
この状態は、恐らく“その本人”からすると「世界が変わって見えるぞ」という状態のはずなので自己認識としては 「自分は“変容”を遂げたぞ」という感じなんだろうとは思いますが、客観的に外側から観察した時には“行動変容”が起きていないけれども口にする言葉や視点が変わったような感じはあるかもしれないので「なんか変わったかも」くらいには感じるかもしれませんがそれらの発言内容の変化に行動が伴ってこないので「なんか口ばっかりだな」というような印象を持たれることがあるようです(これは幾つもの事例を見聞きしてきました)。
そんな「“変容”した」という状態と「“変容”が起きる少し手前の状態に変化した」という状態の違いは昆虫に例えるとわかりやすいのかもしれません。
「“変容”した」状態はイモムシからサナギを経て“成虫”になった状態なので自由自在に行動ができるようになっています。
一方で「“変容”が起きる少し手前の状態に変化した」状態は、イモムシ⇒“サナギ”に変化して自力では全く動けない状態なのかもしれません。
そんな“サナギ状態”は、もしかしたら「まだキッカケが足りない」のかもしれませんし、もしかしたら「何かが起きるのを待っている状態」なのかもしれませんが、それが何なのかは外側からはわかりません。
「行動したくない」とか「行動することが怖い」だけなのかもしれませんし「行動すると“結果”が出てジャッジされるように感じるから動けない」のかもしれません。
どんな理由があるにしても、「行動する」が伴わなければ幾らどれだけ変化しても“サナギ状態”である以上は“現実”は何も変わりません。
そもそも、自分自身が「“変化”する」とか「“変容”する」なんていうのは“目的”なんかではありません。
“目的”に向かうために必要だからこそ変化や変容をする必要があるわけです。
でもその必要がないのであれば、変化も変容もする必要なんてありませんし、それらの必要が無いのであれば傍から見たらイモムシに見えるかもしれませんが、実はそれが“成虫”の状態なのかもしれません。
イモムシも成虫も自力で動けるわけですが、唯一自力で動けない状態の“サナギ”のままでいることは、最もリスクがあることなのかもしれないなぁ、なんて思っています。
そんな変化や変容をしてサナギや成虫のように見える人たちの“行動”に焦点を当てて、それぞれに思いを馳せながら、冒頭のように「もうすっかり別人になっちゃいましたね」なんて話を、仲間と一緒に喜びを交えてすることもあれば寂しさを感じながらすることもあります。
まるで成虫になったかのように思い通りに行動している人もいれば、まるでサナギのようにじっと凝り固まったまま動いていない人もいる。
もしかしたら、傍から見てるだけじゃあサナギと成虫の違いは見分けがつかないかもしれませんし、その違いが全くわからないなてこがあるかもしれません。
でも、誰にでも唯一わかるのは “その人”の行動が“変容”したかどうかだけ。
そんな“行動”の変容に焦点をあててよく見てみるからこそ、「もうすっかり別人になっちゃいましたね」って話になるってことなんだうなきっと。
あかね
株式会社プロタゴワークス
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