見出し画像

キレてないですよキレてないです

こんにちは。

株式会社プロタゴワークスあかねです。

「“わかった?”って聞くと、“わかりました”って言うから、“わかった”もんだと思ってやらせてみるとトンチンカンなことやりはじめるんですよ」

そんな話を聞かせてくれたのは、ある企業で“新人教育”を任されているAさんです。

Aさんは、自他ともに認める“穏やかな人”で、少なくとも職場の中ではこれまで、他者や出来事について“怒る”ということが無かったそうです。だからこその“穏やかな人”という評価のようで、そんな穏やかさから“新人教育”を任されることになりました。

とは言え、この企業では久々の“新人”の入社であり、それより以前に入社した人たちは「指導を担当する先輩にすべてを委ねて付きっきりでひたすらOJT」というスタイルだったので“新人教育”をするための資料や準備などは一切存在していませんでしたし、Aさんが“新人教育”を担当するのは今回が初めての経験でした。

そんなAさんが冒頭のようなことを若干の“イラつき”を交えて話してくれました。

Aさんのように「自他ともに認める“穏やか=怒るということをしない”という評価をされている人」には、これまでも時折関わらせてもらったり話を聞かせてもらってきた経験がありましたが、実際に「他者に対して“怒る”ということをしない人」の中で“本当の意味”で“怒らない人”には会ったことがありません。

これまで僕が対面した「自他ともに“怒らない”という評価をされている人」は、実際には「他者に対して“怒る”という感情を抱く状況が発生しなかった」とか「他者に対して“怒る”という感情を抱いた認識が薄かった」のどちらか又は両方だったケースがほとんどでした。

僕が「“穏やか=怒らない”という人の話を聞かせてもらう場面」は、そのほとんどが「“仕事に纏わる話”を聞かせてもらう場面」であることがほとんどでしたが、そんな“穏やか=怒らない”という人たちが“怒り”の感情を表出させてしまう場面は、これまで僕が話を聞いてきた中では、そのほとんどが「部下・後輩の指導という仕事に携わることになった場面」でした。

それに加えて、「自分の“怒り”に無自覚な場合が多い」というのも共通するモノでした。

それまで、自他ともに認める“穏やか=怒らない”というイメージを自分自身に抱いていたのに、いざ「部下・後輩の指導という仕事に携わること」になって、頑張って“指導”をするわけですが、それまで携わることのなかった“他者への指導”という勝手の違う仕事に戸惑いながら、そして、「自分には簡単にわかるしできるのに、なぜかそんな“簡単な仕事”もわからないしできない他者の存在」に戸惑うことで、今まで感じたことのない“感情”が湧いてきているけれどもそれが感情なのかどうかもよくわからないという“自分の状態”にも戸惑っていて、強いストレスを感じている。

そんなことも“穏やか=怒らない”という人たちに共通していました。

「“わかった?”って聞くと、“わかりました”って言うから、“わかった”もんだと思ってやらせてみるとトンチンカンなことやりはじめるんですよ」

という話をしてくれた後に、Aさんから「どうしたらいいんですかね?」という質問が出たので、今現在どうしているのかを聞かせてもらった後に幾つかのアドバイスをさせてもらいました。

そのやり取りの中でAさんにこんな“問い”を投げかけました。

「相手が“わかった”かどうかって、Aさんはどうやって“わかる”んですか?」と。

これは、僕も経験してきましたし“仕事”の中で“育成・教育・指導など”に関わっている人たちが必ずと言っていいほど直面しているのを見聞きしてきた問題ですが、自分以外の他者が“わかった”というのを“わかる”ためにはどうしたらいいのか?

そして、そもそも自分は“わかる”と“わからない”を明確に区別できているのか?

もしも区別できているんだとしたら、“わかる”と“わからない”の線引きはどこに在るのか?

そんな、哲学的な問いについて“育成・教育・指導など”に初めて携わることになった時に考える必要について「自覚できているかどうかにかかわらず」直面することになるわけです。

そして、“わかる”と“わからない”の線引きについて考えるとともに、これと密接に関係しているけれども全く別のところに在る問題についても考える必要が出てきます。

その中の一つが、

目の前の相手は、「今の説明でわかった?」と聞かれて「わかりませんでした」と言えるのかどうか、についてです。

これらについて“考える”をすることで、Aさんが僕にしてくれた質問に対する回答にもつながります。

これらの“問い”について“考える”をしてみると、そこから導かれてくる「自分がとるべき行動」は想像よりも随分とシンプルなモノになってきます。

ただ、その“シンプルな行動”を自分自身がとれるかどうか。

それが、“育成・教育・指導など”をする側の人にとって、最大にして“本当の問題”になってくるんじゃないか。

“こういう問題”に直面した人の話を聞かせてもらうと、いつもそんなことを考えています。

困っている時に「どうしたらいいのか?」と考えると、本質的な解決策は大抵はシンプルなモノだったりします。

それを「やる」のか「やらない」のかは、結局、自分自身の問題として存在しています。

“相手”がいて、その“相手の言動”に困って悩んでいるはずなのに、本質的な“問題”は“相手の言動”よりも“自分自身の言動”に在る。

こんな風に考えるのはなかなか難しいのかもしれませんし、“過去の自分”もこうやって考えることができるようになるまで随分と時間がかかりました。

でも「問題は自分自身の言動に在る」という風に考えて、それを変えてみるまでは結局「“相手の言動”に困って悩む問題」は何一つ解決しませんでした。

これは自分自身の経験からも、他者の話の中からも、ハッキリしています。

Aさんも、この“新人育成”を通じて“自分自身の言動”を変化させることができると、本当の意味での“穏やか=怒り”を感じることの少ない状態になれるのかもしれません。

「結局、自分次第だったってことなんですよね」

かつて、部下に怒り心頭だったところから一転してそんな話を後日談として聞かせてくれた方のように、Aさんからもいつかそんな話が聞けるのかもしれません。


あかね

株式会社プロタゴワークス

https://www.protagoworks.com/

#ビジネス #仕事 #群馬 #高崎 #対話 #組織開発 #人材開発 #外部メンター #主役から主人公へ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?