敗北から始まるジャッキーチェンの映画が好きなんです
こんにちは。
株式会社プロタゴワークスあかねです。
今朝、いつもとは比べものにならない位に早起きをしました。
基本的に休日は「起きるまで寝ている」というスタイルをとっているうえに、今日はどこにも出かける予定は無かったので、目覚ましをかけていた訳では無いし、起きたくて起きた訳でも無いんです。ただ、トイレに行って寝床に戻ってきたら、それから眠れなくなっただけなんです。
なので、そこからスマホで色んなサイトの記事を読んだりしていたんですが、それでも一向に眠気がやってきそうにないので、意を決して起床することにしてみました。普段の僕であれば絶対に起きたりしない、外はまだまだ暗い時間です。平日であれば違うのかもしれませんが、日曜日の今日は、近所中でも誰も起きている気配はありません。
ここから外が明るくなるまでにはまだ数時間はありますし、家族が起き出してくるのもその頃なはずなので、それまでは読書が捗るだろうと思い、できるだけ静かな中で集中して読みたい本を開きました。本の内容は、とある界隈で昔からメジャーな本を、素人でも読み進められるように解説している本です。
元になっているその「メジャーな本」は、買って読んではみたものの、開始数ページで「現状の自分では全く歯が立ちそうにない」という事がわかったので、そこで一旦保留にしていました(まあ、保留というよりも降参に近かったかもしれません)。
だけど、それで終わりにしてしまうと、「とてつもない悔しさ」と「せっかく買ったのに読まれなかった本」だけが残る事になるわけです。
しかも、その本は「その本が発行された時代にはとても多くの若者達に読まれた」と方々で言われているわけです。
そうなると、「その本が発行された時代の若者達の知性には、今の自分が総力を挙げて取り組んでもこれっぽっちも敵わない」という事になるのではないか?そう、思ってしまったんです。
もちろん、今の僕にはその時代の本当の姿はわかりません。本などで読んで知った事で想像するくらいしかできないので、「その時代に多くの若者達に読まれた」というのがどの程度の話なのかもよくわかってはいませんし、お本当に読んだ人達がみんな理解できていたのかどうかも怪しいなとも思います。だけど、その本が発行されているのは事実だし、様々な人が書いた様々な本の中で、その人とその本の内容が引用されているのをよく見かけるわけです。つまり、理解していたし、その内容に影響を受けていた人達によって世の中にも影響があったという事は、その総数や人口比の割合がどうだったとしても、間違いの無い事実であると言えるんだろうな、と。
そうなってくると、「これは読んでおく必要があるだろう」と思った。だから、その本を買った。だけど、読んでみたら全然わからなかった。そして一旦は保留という名目の実質的な降参。だけど諦めきれない思いがあったようで、僕が好きな学者が、その本の解説本を書いていたので、まずはそこから手をつけてみた。
ここまでが、今朝の読書に至ったいきさつです。
なぜ、自分がこんな事を書いているのかは、今この段階になってもよくわかってはいません。
だけど、今わかった事が一つあるとしたら、「悔しいから読みたい」というのが僕が本を読む理由の大きな原動力になっているという事でしょうか。
ここまで書いたのは、今朝の読書からの話でしたが、これが読書だけじゃなくて、様々な事柄についてあるような気がするんです。
そんな「悔しさ」が湧いてくる時には、だいたいこんなような事を思い知った時が多いのかなあと思っているんです。
自分には、できない事がある。
自分には、理解できない事がある。
自分では、考えつかない事がある。
自分では、辿り着けない事がある。
こういった類いの、“自分の足りなさ”について、「理由なんてどうだっていいからこの“足りなさ”をなんとかしたいんだよ」っていうような想いが、常に自分の中に在り続けているような気がするんです。
こういう、自分の不足を実感してから湧いてくる「切実さ」が、自分の中で認識できた時には、いつだって行動が自然に起きているような気がします。
逆に言うと、自分の中に本当の「切実さ」が湧いてこないと、どれだけ「やらなくちゃ」とか「やりたい」と思っていたとしても、行動に繋がる事はほとんどなかったような気がするんです。
もちろん、短期的に「やらなくちゃ」とか「やりたい」で行動を起こすことはありますが、それが自分の考えているような形に成ったかどうかでいうと、やっぱり「切実さ」が無いと本当の意味で、行動とか変化とかに繋がった実感は持てないのかもしれません。
そういった意味で、僕にとっては、「自虐」という意味ではなく事実ベースの「自分の足りなさ」をリアルに感じられる事が、これまでもこれからもずっと重要なんだろうなと思っているんです。
それがあれば、自分が例え何歳になろうとも、社会の中でどんな役割を担っていたとしても、本来の意味での「学び」が起動し続ける事は可能なんだろうなと想像できるんです。
とは言え、「何歳になっても、どんな役割を担っていたとしても」という部分が、今想定しているモノがどんどん上がっていくにつれ、その時に直面する「自分の足りなさ」を真っ正面から受け止める時のダメージたるや、想像するだけでも恐ろしいです。
何しろ、ただ歳を重ねてきてしまっただけの現状でも、「自分の足りなさ」に直面すると、まずは「現実をどうやって受け入れたらよいのか?」というところに即座にいけるケースはそれほど多くは無いような気がしているんです。やっぱりどうしたって、「え、これでもまだ足りないの・・・?」って、受け入れられないっていう気持ちが湧いてくる事の方が多いいなあと感じているんです。
だけど、そうは言っても、やっぱり、どうしたって、「自分の足りなさを真正面から受け止めて、しっかり受け入れる」というプロセスを経ないと、「学べない」という自分自身の停滞に直結してしまうわけなんです。
そして、自分自身が停滞してしまえば「どんな事が待ち受けているのか」を想像するだけで、それはそれは恐ろしい事が先々に待っているというのは、これまでの自分自身の経験だけでも痛いほど理解しているし、そういう事について勉強もかなりやってきたので、「絶対にヤバい」というのだけはわかっているわけです。
だから、「自分の足りなさ」を真正面から受け止めるし、受け入れるしかないという事を理解しているんだろうと思うんです。。
結論としては、「結局どっちにしたってツライ事しかないわけで、どうせツライなら、自分自身が前進していける学びがある方を選ぶしかないよね」と思うしかないんですよね。
だから、昨日も今日も明日もこれから先も、「自分の足りなさ」を認めながら、書いてある内容に「難しいなあ」と脳みそをフル回転させながら、それでも本を読み続けるんだろうなと思うんです。今日の自分より、ほんのちょっとでも、明日の自分は脳みそが巧く働きますようにという希望を持って。
これも、「切実さ」が起因している選択なんだろうな、きっと。
あかね
株式会社プロタゴワークス
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