思い出と心残りを繋ぐメメント・モリ
こんにちは。
株式会社プロタゴワークスあかねです。
とても久しぶりに、実に数年ぶりに、幼馴染からメールで連絡を貰いました。
連絡をくれたのは、小学生の時にいつも一緒に遊んでいた(当時はかわいかった)男の子でした。
彼とは、小学校に入学した時に同じクラスになった事が縁で友達になりました。
近所の子と同じ幼稚園出身の子を除いた「全然知らない子達」の中で、一番最初に友達になった子だったと記憶しています。
みんな、彼の苗字を少し変化させた名前で呼んでいました。
その子とは、本当によく一緒に遊んでいました。
僕が小学校に入学した当時は、まだファミコンが世に出てくるほんの少し前の時期だったはずであり、ファミコン発売後も当時の子ども達の家庭に普及するまでには結構時間がかかったような記憶があります。実際、我が家にファミコンが来たのも小学校に入学してしばらくしてからだったような気がしています。そんな時期だったので、屋外で一緒に遊んだ記憶がたくさんあります。
記憶の中の彼は、アイデアマンで行動力があって一緒にいるととても楽しくて、僕は彼が大好きでした。
小学校では長い間同じクラスだったはずなので、一緒に遊んだ時間が長かったんですが、中学校に行くと、部活は別々になり、クラスも一度も同じになる事が無く、一緒に行動する友達も別々で、同じ中学校に通っていながらも顔を合わせる機会はほとんど無くなり、それ以来、交流も途絶えました。
それから、数年後に僕は地元を離れ、連絡する機会も無いどころか、思い出す機会さえも無く、かなりいい歳になるまで再会する機会はありませんでした。
再会したのは、共通の友達を介して、何かの機会で行き会ったような気がするんですがこの辺りはかなり曖昧でほとんど覚えていません。
恐らくその時に、一緒に飲んだか何かで、携帯電話の番号とメールアドレスを交換して、それ以来、本当に時々ではありますが(多い時は1年に1~2回、少ないと数年に一回のペースで)メールが送られてくるようになりました。
そんな彼がくれるメールを見ると、その時にはじめて彼の事を思い出す事になるので、自分で自分に対して「何とも薄情な人間だなあ」といつも感じていたし、そんな自分に罪悪感のようなモノを感じていました。だからと言って、彼について思いを馳せるのもその時だけで、またメールを貰って思い出す事になると同じような感情が湧いてくるのを繰り返すだけでした。
だけど、今回は少し自分の中に変化を感じました。
何だかわからないけど、そわそわしたんです。
今までだったら、メールによって思い出して、酷い時は忙しさにかまけて返信するのを忘れてしまってタイミングを逸してそのままにしてしまう事もありました。
だけど、今回は、「どうしても返信したい」と思ったんです。
理由はよくわかりませんでした。
しかも、「返信したい」と思ったものの、何を返信したいのかは自分でも全くわかりません。
なので、「あーでもない、こーでもない」と自分が彼に何を返信したいと思っているのかを考えながら、ようやく打った内容は、本当に何てことは無い季節の挨拶と近況報告を書きました。
だけど、それだけじゃ何だか自分が感じている「返信したい」思いが全うされない感じがあって、それからまた考えました。
で、かなり考えた挙句に付け加えた一文によって、ようやく僕が思っていた「返信したい」内容が書けた気がしました。
付け加えたのは、こんな一文です。
「○○(彼の呼び名)と一緒に遊んでた小学生の頃が懐かしいよ」
という内容でした。
自分で書いておきながら、「とてもありふれた言葉だし、何だか定型文のように見えなくも無いし、何ならこれを受け取った人は扱いに困る類の内容なのかもしれないなあ」とも思わないでもないんです。だけど、この一文をメールに書いた時に、僕はとても満足しました。
この一文に書いたことを、彼に伝えたかったのに、今までずっとそれをせずにいた事をずっと後悔していたという事に、この一文を書いた後で気が付いたんです。
これに気が付いて、はじめて、何故これを彼に伝えたかったのかも、何となく分かってきたような気がしました。
小学校に入学してから正確に何年なのかハッキリはしませんが、恐らく38年位経つんでしょうか。“約”で言えば、そろそろ40年が過ぎようとしています(自分で書いてみて、約40年って、すごい長い時間が経っているんだなとあらためて思ってビックリしています)。
ここまで生きてくると、全然覚えていない事もたくさんあるし、何らかのきっかけが無いと全く思い出さない出来事もたくさんあります。恐らく、何かきっかけがあっても完全に消えてしまっている記憶も山ほどあるんだろうなと思うんです。
そんな中で、彼との思い出は、彼からのメールを貰うと毎回少しだけですが蘇ってきていたのは間違いありませんでした。
でも、僕がこの世界からいなくなるか、彼がいなくなるかすると、もうこの思い出はどこにも存在しなくなりますし、そもそもが“僕の思い出”なので、もしかしたら僕の中にだけあるモノなのかもしれません。今、僕が頭の中で回想している思い出が、事実として本当にあった出来事なのかを証明できるモノは、この世のどこかにカタチあるものとして記録されているはずは無いからです。人の記憶なんて、全然あてにはならないってのは、これまでの人生でたくさん見聞きして知っていますし、そういう体験もたくさんしていますので。
だけど、もし、思い出とか記憶を証明できる可能性があるとしたら、彼の中にも“彼の思い出”として、“僕の思い出”と同じ記憶が残っている場合だけなんじゃないかと思うんです。
だけど、お互いの思い出について話をした時にそれが食い違っていたりとか、そもそも、相手にはそんな思い出そのものが残っていなかったというのが明確になったりしたら、それは僕にとって、それはそれは悲しい出来事になるわけです。
だから、特に、お互いの記憶についてすり合わせとか確認とかをする必要は無いのかなとも思っています。何らかの歴史的重要事項とかっていうわけでも無い、自分だけの思い出の話ですから。
だけど、少なくとも“僕の思い出”は僕の中にしか無い物であって、僕にとっては「それが事実かどうか」よりも、その思い出を思い返す事で自分の中に発生する「なつかしさ」のような、何と言うか「自分にとっては良いモノ」であるのは間違いないので、それを久々に思い出したタイミングで、“僕の思い出”の中のメインキャラクターであった彼に、「自分はこんな風に思っているんだ」という事だけを知っておいて貰えたらいいなあと、かなり手前勝手に思ったんです。
だから、あんな一文を書いて送りました。
それによって、僕は満足しましたし、今まで感じていたのが「心残り」だったという事にも納得がいきましたし、今回の事によって、今後は今まで以上に「心残り」を残さないように行動をしていこうと思ったんです。
やっぱり、何と言っても、自分がいついなくなるのかは、自分自身にも誰にも全くわからないし、自分がいなくなる直前に「ああ、あれやっておけば良かったなあ」と思うかもしれない事柄は、自分の体や思考や意志が自分の思い通りになるうちに、出来る限りやっておきたいなあと思うんです。
有難い事に、今のところは生命の危機を感じるような体調不良はありませんが、かと言って、若い頃のように「無限に広がる自分の可能性」だけを見て、体や心の状態に全く無関心で走り続けていられるわけでも無くなってきたなという自覚もあります。
「明日も今日と変わらず生きていられる保証は無い」っていうのが、自分の中のスタンダードになっているのを、今は明確に感じているっていうのが正しい表現かもしれません。
だから、なるべく「心残り」が無いように、何か気になる事があれば「そもそも、何が気になっているのか?」を、自分自身でしっかり考えて考えたいなと思っているんです。
それが例え、傍から見てどれだけ些細な事だとしても。どれだけどうでもいいような事に映ったとしても。自分が気になるんなら、きっちり「心残り」が無くなるように、“出来る範囲で”やっていこうと、今は決めています。
だから、その後、彼から来たメールの返信が、“僕の思い出”をオールスルーしたような内容だったとしても、僕は特にノーダメージです。当初の「心残り」は無くなったんですから大丈夫。うん。ノーダメージ。な、はず。
あかね
株式会社プロタゴワークス
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