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できるだけたくさん知りたいのだから

こんにちは。

株式会社プロタゴワークスあかねです。

「“相手の話を最後まで聴き切る”っていうのは難しいことなのかもしれないですね」

仲間と時折こんなことについて話します。

“他社・他者のサポート”を仕事にしている僕や仲間にとっては、“相手の話を最後まで聴き切る”ということは今となっては何も考えなくても自然にやっている行為なので普段はあまり意識することはありませんが、「“相手の話を最後まで聴き切る”のって実はとっても難しいことなのかもしれないなぁ」と感じるタイミングがあります。

1対1であっても複数人であっても、一緒に話をする場の中に“誰か”の話にカットインしたり遮ったりして“己の話”をし始めるような人が現れるタイミングです。

そういう人をよく観察してみると、大抵は誰と話をしていたとしても同じように“誰か”の話に途中からカットインしたり途中で遮ったりして“自分のしたい話”に持っていく様子が頻繁に見られます。

そういうことが積み重なると、自分の話を最後までできなかった人の中にはモヤモヤしたものが溜まりますし、段々と“その人”と話をするのが億劫になってくるようで、“その人”がいる場ではあまり発言をしなくなったり、“自分の意見”を話すことも減っていっている様子が見受けられます。

そんな“相手の話を最後まで聴かない人”というのは、その人が所属している“人の集まり”において“声の大きい人”と見なされていることが多いように感じます。

ここで言う“声の大きい人”というのは、“物理的な声の大きさ”を含んでいる場合が多くありますが、それよりも「その人がいる“場”において、その人の意見が通りやすいとか賛同を得られやすい」という意味合いでの“声の大きさ”です。

そんな“声の大きい人”が持つ特徴には、他にも幾つかの要素があるように感じていますが、この“相手の話を最後まで聴き切る”をしないということによって“自分の意見”を通すことが可能になる場合も多くなったりして、もしかしたら「他者とのコミュニケーションにおける成功体験を積んできた」からこそ確立されてきたコミュニケーションスタイルなのかもしれません。

何しろ一緒にいる人達の話を“最後まで聴き切る”を全員に対してやるとなるとそもそも時間がとってもかかります。

いわゆる「タイパが悪い」とも言えるかもしれませんし、そもそも“相手の話を最後まで聴き切る”というのは、それをやり慣れていないとすれば「とってもめんどくさい」と感じる行為なのかもしれません。

何しろ、みんながみんな“自分の頭の中に在るモノ”を明確にスラスラ言語化できるわけではありませんし、みんながみんな的確に要点だけをパパっと言葉にできるわけでもありません。

これは僕自身がそうだからよくわかるんですが、「“自分の頭の中に在るモノ”がそもそもどんなモノなのかよくわからない」からこそ“話をする”という行為が必要な人間もいるわけです。

話をすることで段々と“自分の頭の中に在るモノ”が整理されていって、時間をかけて話をし終えて、そこではじめて「ああ、自分はこういうことを考えていたんだ」と思い至る。

そんなことがこれまでに数えきれない程ありました。

そして、そんなことを可能にしてくれるのが“自分の話を聴いてくれる他者の存在”です。

自分の話を聞いてくれる人がいるから、自分が話をすることができる。

逆に言えば、“自分の話を聞いてくれる他者”の存在が無くては、そもそも“自分の頭の中に在るモノ”がどんなモノなのか自分でもよくわからないし、そうであれば当然ながら“他者”にもよくわからないわけです。

つまり、誰かに“自分の話”を聴いてもらわない事には、そもそも「自分が何を考えているのか?」ということがこの世界の誰にもわからないままになってしまう、なんてことにもなりかねません。

僕や仲間が“相手の話を最後まで聴き切る”をやっているのは、「仕事だから」もありますし「カウンセラーの技術が沁み付いているから」というのもありますが、一番は「相手のことをたくさん知りたい」があるのは間違いありません。

そう考えると、“相手の話を最後まで聴き切るをしない人”は、もしかしたら「もっともっと自分のことを知って欲しい」があるからこそ“己の話”ばかりをするのかもしれません。

だけど、“相手の話を最後まで聴き切るをしない”ということは「自分のことを知って欲しいが、相手のことは知りたくない」という暗黙のメッセージとして受け取られてしまうことになりかねません。

その“場”にいる誰もが、“相手の話を最後まで聴き切る”を実践したとしたら、その“場”にいる人達が相互に“相手のことをよく知る”ことができるようになるはずなので、対人コミュニケーションの“役に立つ技術”として誰もが実践するようになったらいいなぁ、なんて“そうなった時”を想像しています。

“話す”という行為自体を客観的に観察しながら能動的に行うと“相手の話を最後まで聴き切る”は案外と簡単にできますが、“話す”を主観だけで行っている様子を見ていると受動的な行為に映る場合もある気がしているので、能動的な行為としての“話す”ができると“聴く”も成立するのかもしれません。

“自分”と“他者”がいてはじめて“話す”ということが成り立つので、お互いに“自分の話”だけじゃなくて、“相手の話”にも思いを馳せてみると案外うまくいくのかもしれません。



あかね

株式会社プロタゴワークス

https://www.protagoworks.com/

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