ぜんぶまるごとのみこんで
こんにちは。
株式会社プロタゴワークスあかねです。
「“頭にきたこと”とか“傷ついたこと”って、結局は、それを引き起こしている原因が自分の内側に在るから起きているのかもしれませんね」
先日、仲間と“対話”をしている時に自分の口からこんな言葉が出てきました。
その時の“対話”の中で、ここ何か月かの間で起きた“頭にきたこと”や“傷ついたこと”を思い出してみるタイミングがあったんですが、それらの出来事に直面した際には「誰が見ても怒っているなぁ」とか「誰が見ても傷ついているなぁ」というような様子だったであろうことは自覚がありますし、毎日一緒に仕事をしている仲間から見ても「その通りです」と言われるくらいの状態でした。
ただ、それらの出来事を題材にして仲間と“対話”をしていたら、「あれ?もしかしたら、それらの出来事の切っ掛けって全部自分が提供していたんじゃないのかな?」と気付いてしまいました。
例えば“頭にきたこと”で言えば、その“頭にくる出来事”が起きたその瞬間の出来ごとの“原因”が自分に在るとは今でも思っていませんし、それは明確に「相手に全ての非がある」と考えています。
でも、“そもそも”から考えてみると、その相手との関わりを持って「一緒に何かをやろう」とか「一緒に何かをやってみたい」と思ったのは、僕が“その気”になったから発生した関係性でした。
そのスタート時点の“その気”になった時には「よく考えで出した結論だ」と思っていたんですが、後になってから振り返ってみると、その瞬間の空気感とか自分の中に湧いてきた感情とかを優先させて「よしやろう」と決めてしまった感はぬぐえません。とは言え、て時間をかけてよくよく考えてみるということをしたところで“その気”になっていた僕がその判断を覆した可能性があるかどうかはわかりません。
だけど、結果的に“現状”になっているわけなので、もしかしたら何らかのシグナルを見落としていた可能性があったかもしれず、そんなこの“現状”のような可能性を考慮せずに判断してしまった“あの時の自分”に“原因”が在るのは間違いありません。
更に言えば、それから時間の経過とともに少しずつ表れ始めた“違和感”を悉くスルーしてきてしまった、というのも“原因”になっているのは、今から振り返って考えてみると「間違いない」と断言できるくらいの違和感でした。
そうやって、ちょっとずつ間違えてきた“結果”としての“現状”が存在しているということがハッキリわかったことで冒頭のような言葉になったんじゃないかと考えています。
「あー、頭にきたぞ!」とか「はぁ…傷ついたなぁ…」と感じて、そこで思考停止になってその感情に浸っているのがとっても心地よいのは、これまでに散々体験してきたのでよくわかっているつもりです。
でも、“怒り”とか“悲しみ”に浸っていても、それが“仕事”に関わるモノなのであれば基本的には、今この瞬間の“現状”で立ち止まり続けることになってしまいます。
だから、せっかく“頭にきた”とか“傷ついた”というような自分の感情が動いてしまうような体験ができているのであれば、その感情が生みだすことになったその体験を、“何か”の材料に活用できたらいいなと考えています。
自分の感情が湧きたつ体験を、こっから先の“自分自身”の役に立つモノに活用する。
そんなブリコラージュについて考えてみると、あんなに「頭にきた」とか「傷ついた」と感じていた気持ちに少しの変化が起きて、止めていた足をまた前に運び出してみようと思えるようになったのは、何とも言えず僕にとっては“役に立つこと”になりました。
動いた感情も味わいつつも、そこにとどまり続けて居着いてしまわないためにも、どのような感情であってもそれが湧きたった体験を有効活用できるように「なぜなのか?」という“問い”と“対話”を駆使していこうと思います。
あかね
株式会社プロタゴワークス