「10年後の未来」に想いを馳せて
こんにちは。
株式会社プロタゴワークスあかねです。
昨日、当社主催のオンライン哲学対話“P4P”を開催しました。
「10年後の未来」というテーマでの開催だったんですが、未来の話はもちろんのこと、10年前の事や、過去の歴史の話、サッカー日本代表の話に及んだり、山で暮らす熊・里山で暮らす熊・町に降りてくる熊の話に及んだりと、参加者の皆さんの幅広さから生み出された「開始前には全く予想だに出来ない展開」が繰り広げられました。ホントに面白かった。
これの何が面白かったのかと言うと、サッカーの話も熊の話も、それぞれの人がそれぞれの体験に基づいてしてくれた単体の話として聞いているだけでも充分に面白かったんですが、その時されていた様々な話の根幹に近い部分が、違う人がする全く異なる話題なのにもかかわらず、『相通じている同じ核のようなモノ』について話がされていたという事に、後々気が付いて理解できるっていうところが、個人的にはとても面白く感じました。
哲学対話中にも当然考えてはいましたが、1日経ってあらためて今、「10年後の未来」について考えてみると、色んな事が頭の中を駆け巡って、自分自身でも何について考えるべきなのかよくわからなくなってくる感じがするし、その時々の気分によって「これ考えたい」という内容も変わってくる気がします。
例えば、本を読んでいる時には、その本の内容に関連するような事柄について考えますし、それが、趣味とか仕事とか家庭とか住んでいる町とか群馬県についてとかこの国についてとか世界についてとか宇宙についてとかetc。
そんな風に、その時々によって考えたいことや考えないといけないと思うことが本当にたくさんあるし、色んな事を考えるべきなんだろうなとは思うんです。
だけど、過去の自分から見た「10年後の未来」であるこれまでの時点には、今振り返ってみると、いつも「いつの間にか」到達してきてしまっていたなあと思えているんです。
そもそも、今回の哲学対話の時のようにホントの意味で「真剣に」考えた事があったんだろうか?と思い返してみると、「多分、真剣に考えたことは無かった」のがわかってしまいました(ちなみに、ここで言っている「過去の自分」は、会社を起ち上げるという事を考え始める前の自分の事だと、書いていて今わかりました)。
それがわかった今、「10年後の未来」に「いつの間にか」到達してきてしまっていたのは、当然だろうなと腑に落ちています。何しろ、「10年後の未来」について「真剣に考える」をしていなかったという事は、その時点の自分が「自分が影響を与えられる範囲」について吟味する事もなく、検証する事も無く、その範囲をかなり限定していたって事に違いないんですから。
とは言え、思い返してみると、それぞれの時点での自分にとしては、「それなりに真剣に考えていたはず」なんです。
こんなセルフフォローじみた事を言うのは、自分の弁明の為というよりも、現時点の自分が「過去の自分」よりも様々な体験を通して知識が増え成長をしているだろうなとは感じているので、現時点の自分が増えた体験や知識をベースにして、様々なモノを持ち合わせていなかった状態の「過去の自分」を自分で断罪するのって、我が事ながら、とても残酷だしフェアじゃないんじゃないかなと思うんです。仮に、他人に断罪されてしまうのであれば、それは「もしかしたら仕方ないのかな?」と思う部分もあるかもしれませんが、せめて自分くらいは自分の味方をしてあげたいなと。
それらを踏まえて、今の自分が「10年後の未来」について考えるとすると、「責任重大だなあ」とあらためて思うんです。
この「責任」には、もちろん、「未来を生きる今の若い人や子ども達といった未来を担う人達」に対する責任というのが大きくあると思っています。
でも、それと同じくらい、未来に生きているであろう「年を取って色々思い通りにならなくなってきているはずの自分自身」に対しての責任もあると思っています。
幸運な事に、もうすぐ45歳になるというのに、僕の体や脳みそは、今のところ、自分ではそれなりに自分の思い通りに操れていると感じられる程度には、日々を生きていられています(もちろん、若い頃と比べるとかなりの衰えを感じますが)。それもあってか、「過去の自分の見通しの甘さ」や「過去の自分の努力不足」や「過去の自分の至らなさ」など(これ書いていると永遠に続きそうなのでこれくらいにしておきます)といった、「過去の自分のしくじり」について「今の自分」がフォローする事については、「まあ仕方ないよね」と思えているんです。
だけど、それはきっと、今の僕が持つこの体だったり脳みそだったりを、なんとか思い通りに駆使する事ができるて、なんとか過去の自分の尻拭いをする事ができていて、尚且つ、過去の自分を超えてきている実感を持てているから、「まあ仕方ないよね」と思えているんじゃないかなと。
これが、もし、「昔の自分に比べて全然思い通りにならない今の自分」だったとしたら、「まあ仕方ないよね」なんて思えずに、ただただ過去の自分を後悔して過去の自分を恨んでとんでもなく暗いエネルギーを自分自身に向けて生きていかないといけなくなるんじゃないかなと思うんです。自分が把握している自分の特性から考えると、恐らくそうなるだろうなと確信めいたものがあるわけです。
そうすると、よく言われるように「これから先の人生で、今より若い瞬間は無い」という言葉通り、「今の自分」が「これからの自分」に対してできる事っていうのを、常に考えておかないといけないんだろうなと思うんです。
そりゃあそうなんですよね。
だって、あと10年経って55歳目前になっている「ザ・おっさんの自分」という未来について、(僕が求めるレベルで)親身に考えて心配して接してくれる、そんな親切で暖かい神様みたいな人間が、もし、この世界に存在するんだとしたら、きっとそれは、「今の自分」以外には存在しないんだと思うんです。だからこその「責任重大」だなと。
だからまずは、自分の為に。
それはきっと、自分の周りの誰かの為で、
そうすると、更にその周りの誰かの為でもあり、
それはもはや、その時の自分を包摂する地域の為であり、
そうなるともちろん、その地域を含んでいる国の為であり、
それは誰がどう考えても、この世界の為になるに違いないので。
「10年後の未来」を考えると、「テメーの始末をどうつけるか」って事から始めるしかないんじゃないのかなと考えている土曜の夜更けです。
途方に暮れそうなので、本でも読んでから寝ようと思います。
あかね
株式会社プロタゴワークス
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