こっから逃げたりしなければ
こんにちは。
株式会社プロタゴワークスあかねです。
「やっぱり、自己理解が正しくできるっていうのが一番大事なんですよね」
こんな話を仲間とすることがよくあります。
“自己理解”なんて言うと「就活でやった自己分析みたいなもの」という話になることがありますが、そうであるとも言えるでしょうし、そうではないとも言えるとも思っています。
ここで言う“自己理解”とは、文字通り「自分のことを自分自身で理解する」という意味なので、「自分自身について分析をする」という意味も当然含まれるとは思いますが、これまで長年キャリアに携わってきて多数の人のキャリアカウンセリングもやってきた身からすると、正直に言って「就活でやる自己分析はとても浅いしとても狭いから“自己理解”をするという意味では随分と手前のところなんじゃないかな」と考えています。
というのも、これまでにキャリアカウンセリングで話を聴かせてもらった多数の人たちや、ウチの会社の事業でもある“他社のサポート”という仕事の中で出会ってきた“働いている人”たちの中には、当然ながら学生時代に一生懸命就活をして働いていた人達も多数いました。
その人たちに様々な話をたくさんきかせてもらってきましたが、その中で「“自己理解”が正しくできているなぁ」と感じた人の数はそれほど多くはありませんでした。
多くは、“自己理解”が出来ていないために、他者とのコミュニケーションの中で様々な齟齬が起きていて大なり小なりの“人間関係トラブル”が発生していて、個人や組織の仕事のパフォーマンスに負の影響が出てしまっているケースがほとんどでした。
当然ながら、個人や組織の仕事のパフォーマンスに大きな負の影響が出てしまえばそれはダイレクトに“その組織での働きやすさ”や業績に大きく響いてきます。
こんな話をすると時々、
「“自己理解”ができていないことがなぜ他者とのコミュニケーションでの齟齬に繋がるのか?」
なんて質問を受けることがありますが、よく考えてみるとシンプルな理屈です。
“自己理解”ができていないまま誰かとコミュニケーションを取った場合には、そもそも“自分”が想定している言動を自分ができていないということに気が付くことが難しいという現実があるわけです。
そうすると“相手”から返ってくるだろうと想定していた反応が返ってこないばかりか、全く想定していなかった反応が返ってくることばかりになるわけです。
そこでまた“自分”が何らかの反応を返すことになりますが、その反応も“自分”が想定していたものとは違うモノになってしまっているわけですが、そのズレに“自分”が気付くことは難しく、そうなるとまた“相手”からの反応も想定していたモノとはズレていってしまいます。
そんなことが1~2往復あったとしたら、それだけでお互いに「なんだコイツ?」と思ってしまう、なんてことが起きているのをそこかしこで見聞きしてきました。
そのズレに気付くためには、“自分”に対して他者からのフィードバックが無ければ気付くことはできません。なぜなら、「自分で気付くことができる」のであればその時点までに既に気が付いていたはずですから。そのタイミングがそこまでに存在しなかったのであれば、それはもう“外部”からのフィードバック以外で気付く可能性はとっても低いだろうと考えられます。
とは言え、恐らく“そこ”に至るまでの間にも“他者からのフィードバック”をもらったことはあったんじゃないかと想像します。なぜなら、“そこ”の時点でも他者とコミュニケーションを取るという行動をとっているので「他者とコミュニケーションをとる」ことに対して拒否をしていないのであればこれまでも他者とのコミュニケーションを取ってきているはずなので、「いつかどこかで誰かから何かを言われた」ということがあると考えるのが自然です。
でも、“そこ”に至ってもまだ“自己理解”が正しくできていないのであれば、過去に他者から受けたフィードバックを「素直に受け取らなかった」という可能性が高そうです。
もちろん、「過去に受けた他者からのフィードバックを受け取らなかった」のには何かの理由があるのかもしれませんが、いずれにしても“そこ”の時点で“自己理解”ができていないのであれば「何らかの理由があると、どれだけ有用なフィードバックであっても素直に受け取らない」という可能性も見えてきます。
そんな風に紐解いていくと、“そこ”に至った“自分”が直面している問題や困難な状況というモノの起点になっているのが「“自己理解”の不足にあるのではないだろうか?」と思えてきます。
もちろん「それだけが原因」というわけではないのかもしれませんが、「自分のことを自分自身で理解する」ということが正しくできなければ、今目の前にある現実とか、今直面している問題や困難という「どうにかしたい」と考えているモノを「どうにかする」ことは出来ないんじゃないだろうか?と考えています。
何しろ、正しい“自己理解”ができなければ他者のことを正しく理解することもできませんし、何よりも自分自身や周囲の人や周囲の環境など全てを含んだ“現実”を正しく認識することはできません。
“自己理解”だけは出来てないけど、それ以外の“他者”や“周囲の環境”や“現実”を正しく認識できているなんてことができたとしたら、その時点で「出来ていない“自己理解”とのズレ」までが「見たくない」と思ったとしてもハッキリと浮かび上がって見えてしまうはずですから。
そんな重要な“自己理解”ではありますが、「やろう」と思えば別にそれほど複雑なことは必要ありません。
ただ、「自分の強み」と「自分の弱み」を一つずつ正しく見ていって自分自身でそれを受け入れればいいだけです。
良いところも悪いところもキレイなところも汚いところもカッコイイところもカッコワルイところも正々堂々としているところも卑怯なところも肝の太いところも意気地の無いところも“他者に認めて欲しいところ”も“他者に気付かれたくないところ”も、そして、自分でも自分のわからない部分があるってことも。
そんな風に、「なりたい自分」とか「見られたい自分」とは遠くかけ離れていてどうにも情けない姿をしていて他者に見せたくない部分がたくさんある、そんな、清濁併せ持つ自分自身をただただ客観的に観察して「自分てこういう存在だな」と誤魔化さず受け止める。
それが出来ると、そこから先の“世界の見え方”が随分と変わるような感覚があるので考えることや選択や決断や行動がハッキリと変わってくるんですが、これがなかなか「苦しいしツラいし大変だから難しくて避けて通りたい」というのもとってもよくわかる気はしています。
でも、そういう極めてシンプルなことをするだけで“自己理解”を正しくするなんてことはあらかた出来てしまうので、これからも出来る限り「やっていきましょう」とツラくて苦しくて難しいことを推奨して伴走していこうと思っています。
あかね
株式会社プロタゴワークス
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