告白

※この記事は、事実をもとにしたフィクションです。

過去との邂逅

 今年のことだ。ある旧友とばったり再会した。久しぶりに他愛のない話をして、連絡先を交換して、別れた。
 まあこれといって連絡を取り合うこともあるまい、と思っていたが、一通のメールが届いた。

お前、大学で勉強について行けなくなったって書いてたよな。どうにも俺にはそれが信じられないんだよ。お前中学校の頃から頭良かったじゃん。そんなお前が勉強についていけなくなるなんてな。

旧友からのメールより

 しまった。noteまで教えるんじゃなかった。だがもう後の祭りだ。彼は私ほど成績は良くなかったが、鋭いところのある人間だった。現在何の職業についているかは言えないが、職業柄観察眼の鋭さには磨きがかかっているらしい。

 彼の観察眼は、私のnoteの記述にある不自然さを見逃さなかったということなのだろう。
 ついにこの時が来てしまったか。
 ある旧友との邂逅が、私に過去との邂逅をもたらした。今まで逃げてきた過去と対峙する日が、来たのだ。

4年間のアドバンテージ

 私には、4年間のアドバンテージがあった。

 4年間とは、そう、4歳年上の兄を指す。私には4歳年上の兄がいて、典型的な秀才タイプの人間だ。関東圏の国立大学に進み、それから地元に戻ってきて役人をしている。兄は何の抵抗もなく努力ができるタイプの人で、受験勉強などは誰に言われるでもなくただひたすら何時間も自室にこもってできる人だった。

 そういう人間形成ができたのは父の影響だった。父は、家庭学習の習慣をつけさせるため、夕食後の一定の時間、茶の間で勉強をさせた。父は兄に勉強を教えられるほど学のある人ではなかったが、大好きな野球中継を見るのも我慢してテレビを消し、茶の間で兄が勉強するのを見ているのだった。

 私はといえば、一緒に勉強させられるのだが、隣で兄が4年も先の勉強をしているのに好奇心をひどく刺激されて、ちょっかいばかりかけていた。兄が文字の式の勉強を始めれば、「英語の勉強してるみたいだー」と騒ぎ、三角関数の勉強を始めれば「数学なのに数字が出てこねー」と騒ぎ、たまに叱られ、漢文の勉強を始めれば「読まない文字があるなんて変なのー」「『将』は2回も読むのか! すげー」と騒ぎ、たまに叱られ、古文の勉強では自分の勉強には(その時点では)何の役にも立たないのに「くーからくーかりしーきーかるけれかれ」などと活用表を覚える練習を一緒にしたものだ。

 またその当時、母はガソリンスタンドに勤めており、危険物乙種四類の勉強をしていて、そっちにもちょっかいをかけていた。おかげで、絶対零度が約マイナス273℃であること、0℃・1気圧のもとでは1度温度が下がるたびに273分の1ずつ気体の体積が減ることなどを覚えるなどしていた。

 とにかく、私は兄が高校に入るころまでは4年先の勉強をしていたも同然だったので、当然学校の成績も良かった。10代前半で4年のアドバンテージはあまりにも大きすぎる。それは高校に入ってからもしばらくは続いた。

 高校3年のある日のこと。教室には推薦入学のリストが貼りだされていて、物理の先生が、「おい、S大学、行く人誰もいないの?」とクラスのみんなに聞いていた。S大学の物理学科と言えば、理工系では当時最高峰の偏差値を誇っていた。私は物理が好きで、主要5科目だったか、その辺の記憶は定かでないが、評点の平均が4.2以上という基準もクリアしていたこともあって、思わず手を挙げてしまった。これが全ての誤りの始まりではあった。

 そう、私には4年間のアドバンテージがあった。したがって、高校初期の成績には、そのアドバンテージの分、下駄を履かされていたわけだ。当然、高校も3年になれば、そんな貯金はとうに使い果たして、並の成績になっていたわけだが、その貯金のおかげで●●●●●●●評点の平均4.2という基準をクリアしてしまっていた●●●●●●●●のだ。その当時の学力というものを考慮することもなく、S大学の推薦入試を受け、合格した。実力でS大学に入学したつもりになっていたが、現実は大変に厳しいものだった。

遊びを知らなかった子供

 私の家には、ファミコンというものがなかった。爆発的なブームにも、「勉強に身が入らなくなる」という理由で、ファミコンだけは買ってもらえなかった。

 テレビゲームという、とても刺激的な遊びを知らないまま大きな子供になった私は、大学に入学してすぐ、念願だったプレイステーションを購入した。また、大学に入学する際には、マッキントッシュも買ってもらった。これは当然レポートを書いたりするために必要だと主張して買ってもらったものだが、いつしか高価なゲーム機に変貌してしまうのは言うまでもない。

 大学生にもかかわらず、競馬場に通い出したのも致命的だった(当時は違法)。東京23区内からであれば、東京競馬場や中山競馬場に通うことができた。地方競馬は大井競馬場に何度か行ったことはあったが、まだ当時の大井はちょっと怖いイメージの残る競馬場だった。

 もちろん、初めのころは一生懸命勉強をしていた。だが、あまりにも勉強が難しすぎた。それはそうだ。貯金を使い果たしていた私の学力は、S大学に入れるほどのものではなかった。数学の授業ではデデキントの切断あたりでさっそくつまずき、熱力学にはなんとか食らいついたが統計力学が全く理解できず、いくらやってもやってもまるで効果の上がらない勉強が苦痛になっていった。

 あるとき私は風邪をひき、数日大学を休んだ。それまではなんとかぎりぎり付いていっていた授業も、数日の空白で糸のように細くつながっていた理解が、ぷっつりと途切れてしまった。

 私は次第に遊びに現実逃避を求めるようになり、大学からは足が遠のいていった。この頃、失恋も経験しているのだが、それが後の人生にどう影響したのかはわからない。

引き返せなくなって

 そうした生活を続けていくうち、もう引き返せない地点にまで来てしまっていることは誰の目にも明らかだった。
 しかし当時の私には、誰かにSOSを出すという勇気がなかった。この時点で大学を辞め、人生をやり直していれば、まだ違った展開があったはずだが、自室にひきこもったきり、現実逃避の泥沼へとはまっていった。

 昼間でも雨戸を閉めきり、やがてテレビが壊れてしまって時間さえ確認できなくなった。たまに大学のクラスメートや先生が電話をよこしてくれるのだが、それすらも恐怖でしかなくなり、電話機の音をミュートにした(ナンバーディスプレイなどない時代の話である)。

 自殺することも考えたが、兄の結婚が間近に迫っており、それは断念した。兄嫁の実家は東北地方の旧家であり、一族から自殺者でも出ようものならその時点で婚約が破棄されるのは目に見えていたから、それだけは避けたかった。

 大学に在籍していた末期の頃は、連日の頭痛に悩まされており、完全に生活は崩壊していた。あまりの痛みに、寝るしか対処法がなかった。頭痛薬の飲み過ぎは良くないと聞いていたので、頭痛薬の服用は1日おきにしていた(それが正しいことだったのかはわからないが)。そのため、頭痛薬を飲まない日は激しい頭痛のため、動くこともままならず、ただベッドの上で輾転反側していた。

 やがて両親の説得で大学を辞め、地元へと連れ戻されることになるのだが、退学届を出したその日に、激しい頭痛はピタリと治まっていた。

 両親に説得されたとき、「もう精神病院にでもぶちこんでくれ!」と泣き喚いたのだが、それは叶わなかった。

そして現在

 何を言っても言い訳にしかならないから、一言で言う。
 懶惰だ。
 大学を辞めた原因はそれしかない。俺はお前が思っているほど、誠実な人間でも勤勉な人間でもない。

私が旧友に送ったメールより

 旧友の反応はそっけないものだったが、彼が私のことをどう思ったかはわからない。

 ただ、私のもとには、今までずっと直視することを避けてきたどす黒い過去の記憶だけが残った。

 過去を切り離すことはできない。過去をなかったことにすることはできない。過去があって現在があり、現在があって未来がある。私はこれからどうすればいいのか。

 ちっぽけな虚栄心のために身の丈に合わない大学へ入り、怠惰な性格のために生活を破綻させ、これまたつまらない自尊心のために「勉強について行けなかった」などという嘘をつきつづけてきた。このめちゃくちゃでクソのような人生をどうすればいいのか。「生きづらさ」などという言葉を使って、被害者でもあるかのように振る舞うに至っては、滑稽でしかない。

 過去と現在を切り離す方法がひとつだけある。現在と未来を切り離すことだ。そうすれば、どす黒い過去の記憶は、永遠に封じ込めることができる。


 私は長期の休暇を取ると、冬の日本海へと一人旅に出ることにした。いつかは訪れたいと思っていた場所だった。名も知らぬ駅のゴミ箱に、私はスマートフォンを投げ入れた。


お前さ、大学を辞めた原因を一言で言い表すのはいいけど、あれ何て読むんだよ! 読めねぇし意味もわからんって。わかる言葉で書けって!

未読のままになっていた旧友からのメールより



〜おしまい〜


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?