バタフライ・エフェクト2~奇蹟の軌跡
昨年の夏、高校で同級生だった女医、マガジン『ストックホルムの街角から』でお世話になっているY医師に再会したことは下記の記事で紹介した。
私はこの記事を、以下のように締めた。
人生を変える夏になると確信して、秋、冬が過ぎて春を迎えようとするこの3月、大きな動きがあったのでご報告したいと思う。
気象予報士試験
私のnoteの中で何度か触れてきた「国家資格試験」は、実は「気象予報士試験」だった。
気象予報士を目指すきっかけとなったのは、NHKの朝ドラ『おかえりモネ』だったことは白状しておく。ただ、ドラマを見て(清原果耶に憧れて)気象予報士になりたいと思ったのではなく、中学・高校のころから気象の世界への憧れは強く持っていた。中学生のころは毎晩気象通報を聴きながら天気図を描いたものだし、高校の初めのころは気象大学校を志望校に含めていたほどだった。
ここで気象予報士試験のシステムについて触れておくと、試験には学科試験(一般)、学科試験(専門)、実技試験の3部門があり、学科試験については一度合格すると向こう1年間の試験ではその部門が免除される特典が与えられる。これは『おかえりモネ』の中でも描かれており、菅波先生がまず学科試験をクリアし、学科試験が免除されているうちに実技試験だけに注力するという“菅波メソッド”を提案する。私もこれを見習うことにした。
気象予報士試験に取り組み始めたのは令和3年の12月だ。LPSA(日本女子プロ将棋協会)の渡部愛女流三段に、勉強の励ましにするための扇子に「愚公移山」と揮毫してもらった。
初めて試験を受けたのは昨年令和5年の1月の試験だった。マガジンを購読している“白饅頭先生”が、「やらない理由を探すより、まずやってみろ」と呼び掛けておられたので、学科試験の勉強がひととおり終わったタイミングで受験してみた。その結果は、学科試験2科目は合格、実技試験ができておらず全体で不合格、というものだった。ともあれ、これで令和6年の1月の試験までは学科試験が免除されることになった。“菅波メソッド”に上手く乗っかったわけだ。
実技試験は2問出題されるのだが、8月の試験はいずれも時間が足りず不首尾に終わり、いよいよ免除期間は次の1月の試験で終わってしまうことになった。
その1月末の試験に向けた状況はnoteでも何度か触れてきたが、決して順調とは言えないものだった。特に試験に向けた焦りから、精神のバランスを崩す場面が多くなった。精神科の主治医からは勉強の時間を制限することを強く勧められ、勉強時間が決定的に不足することから、妻やY医師には「今回の試験は諦める」旨の話をしてきた。
ただ、受験料の納入や試験の前日に泊まるホテルの手配はすでに終わっていたので、試験は受けるだけ受けてくることにしていた。
試験に向けてできるだけのことをすることはするが、無理はしないということを守った結果、当初考えていた勉強量をクリアすることはできないまま試験の日を迎えた。
実技試験第1問は慎重になりすぎたためか、やはり時間が足りず、8月の試験と全く同じ失敗を繰り返してしまった。仮に書いた答えが全問合っていたとしても、合格点には届かないという手応えだった。私はこの時点で妻に向けて「ダメだった」旨のメールを送っている。
実技試験の2問目は「ダメだった」という思いが肩の力を抜いてくれたためか、意外とスラスラと解け、最後にちょっと時間が余るほどだった。それだけに、1問目の失敗が悔しく、かなり気落ちしたのを覚えている。Y医師にも、試験がダメだったこと、また1から勉強をやりなおすことを報告した。
そして3月8日。試験結果は、正午頃に気象業務支援センターのサイトにアップされたはずなのだが、それを見ているほど仕事に余裕もなく、通常どおりに仕事と買い物などを済ませて帰宅した。妻に「ハガキ来てるよ」と言われていたが、正直ダメだということがわかりきっていたため、特に期待せずに圧着ハガキを剥がした。
まさかの文字が並んでいた。全く無理だと思っていたので、変な声が出た。妻が横で拍手してくれていた。
証明書を写真に撮ると、家族よりも先にY医師に送った。それからラッシュ刑事家のグループLINEに。
Y医師は、まるでわがことのように無邪気に喜んでくれた。
私にはそれが何より嬉しかったし、去年の夏に感じた「人生が変わる確信」が現実になったことが、「確信」を現実にできたことが、嬉しかった。
幸運の連鎖
今回の試験に関しては、幸運も私を後押ししてくれた。
難易度
通常、気象予報士試験では、合格率が5%と言われている。しかし、今回の試験の合格率は6.2%だった。全体の合格率が6.2%だったのは、平成22年8月の第34回以来のことだ。
そう、今回の試験はちょっと簡単だった可能性があるのだ。
そういえば日商簿記2級を取った時もそうだった。合格率が異常に高く、ネットでは「準2級」と揶揄されるほどだった。
妻と勤務先、勤務形態
そして、妻がフルタイムでの勤務を望まなかったこと。フルタイムで勤務していたら、働きながらの資格取得は困難だったろう。
「帰ってきたときご飯を作ってくれる人がいないと困る」と言ってはいるが、もしかしたら勉強をしている私への配慮だったのかもしれない。勉強を続けさせてくれた妻には感謝している。
職場がパートタイムでの勤務を認めてくれたのも大きかった。2年目に入るとき、上司に来年度の働き方はどうする?と聞かれた。主治医からは7時間働いても大丈夫というお墨付きは得ていたが、上司は「このまま6時間で働いてさ、必要があれば17時まで働いてくれる?」と提案してくれた。
15時半を過ぎて、仕事がなければ帰ってよい。その条件でなければ、やはり働きながら勉強するのは難しかったかもしれない。
おみくじ
今年の正月は私の実家で年越しをした。そのとき、妻が「ここの神社に行ってみたい」と言い出した。田舎の神社の初詣がどんなものか経験しておくのもよかろうと、年が明けてから、神社に繰り出した。その神社は、昨年までの数年間、宮司が不在で初詣はやっていなかったという。
そこでお参りをした後、おみくじを引いた。するとそこにはこう書かれていた。
これは今の自分にぴったりだと思い、持ち帰って財布に入れてある。信心深い方ではないが、このときばかりはここに書いてあることを信じ、運勢の後押しがあるのだと思うことで、心のつかえが軽くなったのかもしれない。
Yちゃんとの出会い
そして何より、Y医師──ここではあえてYちゃんと呼ぼう──Yちゃんの存在だ。友達として、私が苦しんでいるとき、辛い思いをしているとき、いつも優しく受け止め、励ましてくれた。Yちゃんは同僚のドクターにまで話を聞いてくれ、「スポンジは一度乾かないと水を吸収しない。休暇を取ることが大切だ」とアドバイスをもらってきてくれた。私はそれに従い、勉強をやめ、心の平安を取り戻すことを最優先した時期があった。
こちらの記事にも書いたように、Yちゃんは私の精神状態を常に気にかけ、決して私を追い込むことにならないように励ましてくれる。ちなみにこの記事には「試験の失敗」と書いてあるが、これこそ今回の試験であり、失敗は誤報だ。
私の母にもYちゃんの話をしてみると、「そんなにいい人と友達になれるなんて、本当に運が良かったね」と言っていた。
私がこの世に生まれてきたことも幸運なことだ。あと何か月か生まれるのが早かったり遅かったりすれば、Yちゃんと同級生にはなっていないし、友達にはなっていない。それは私を励まし、慰め、適切なアドバイスをくれる存在がないことを意味し、今回の試験で成功することはあり得なかった。
おわりに
私は、Yちゃんをはじめ、いろんな人のサポートを得、いろんな幸運の後押しがあって、試験に合格した。
もちろん、努力もした。仕事をしながら、独学で気象予報士試験に合格したのは、努力の結晶だ。だが、私一人の努力では決してこのような結果は生まれなかった。
「愚公移山」とは、家の前にある山を邪魔だと思った愚公が、毎日ちょっとずつ山を別の場所に移すのだが、それを見かねた神様が、山を移してくれたという故事だ。努力を重ねれば大事業を成すことができるという意味でもあり、他力本願の部分も含んでいる。
私は毎日小さな努力を重ねて、結果を手に入れたが、そこにはたくさんの人々の支えやいくつもの幸運があった。いや、努力を重ねたからこそ、たくさんの人々の支えが得られ、いくつもの幸運が舞い込んだと言ってもいいのかもしれない。
こんな私(愚公)でも、山を移すことができたのだから、みなさんもきっといろんな大きさの山を移せるはずだ。どうか自分の力を信じて、山を移してみてほしい。
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