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努力アレルギー?

 古い話ですが、3月26日の白饅頭日誌を読んで、びっくりしてしまいました。X(旧ツイッター)を離れて相当経つけれど(アカウントは残してありますが)、こんなことになっていたの?と驚くばかりです。

 私はどちらかというと、ありがたいことに、努力が報われるタイプの人間であり、心を揺り動かされるモノに対しては努力ができるタイプの人間です(何に対してでもいくらでも努力ができるわけではない)。だから、というのが正確なのかはわかりませんが、白饅頭日誌で紹介されていた「ビリギャル」こと小林さやか氏の「努力できない人ではなく努力したくない人なんじゃないかしら」という意見には、同意できる部分が大きいです。正直なところ。

 しかし、白饅頭氏はこう説明しています。

 多くの人がビリギャル氏のポストに対して指摘しているように、「努力すること」というのはどちらかといえば単なる行為というより才能に類するものです。なぜなら「努力する才能」を構成する基本的要素として挙げられる集中力や根気強さや情報処理能力は先天的(遺伝的)要因が大きいことも知られているからです。

 よって、努力が苦もなく継続できることは、「やる人かやらない人か」の問題というより「やれる人かやれない人か」という問題を内包しています。

 なおかつ「努力する才能」に恵まれていたとしても、その投下した努力の時間やリソースに相応の成果を得るためには、当人の環境的要因もかかわってくることは明らかです。たとえば、かりにまったく同じくらい「努力する才能」を持っている人がふたりいたとして、ある人は恵まれた家庭環境で生まれ、もう一方は貧しい家庭環境で生まれたとすると、それぞれが同じ努力を行ったとしても、それによるリターンは同じにはなりません。前者の方が得られる成果は大きくなってしまいがちです。

 したがって、努力によってそれなりの成果を得られるかどうかは「才能がある人かそうでない人か」だけではなく「恵まれた人かそうでない人か」という側面も無視できないわけです。

白饅頭日誌:3月26日「SNSに蔓延する努力アレルギーがヤバい」|https://note.com/terrakei07/n/n2d549ea8729c

 この主張はもっともだ、と思います。私自身は「努力が苦もなく継続できる」人ではありません。苦しいし、できることなら努力なんてしたくありません。「何のためにこんな大変な思いをしているんだ?」と思うことはしょっちゅうです。
 でも、私の兄は、傍目はためには「努力が苦もなく継続できる」人でした。同じ血を受け継いでいる私も、その「才能」の片鱗くらいは持っているのかもしれません。

 私の家が恵まれた家庭環境であったか、というとこれもまたなかなか難しいところではあります。恵まれていたと言えるかはわからないが、恵まれていなかったとは言えない、というのが率直な感想です。
 大層裕福な家庭に育ったという覚えはありませんが、両親は不自由をしないように育ててくれましたし、割賦販売がブームだったころ、『ブリタニカ国際大百科事典』や、『スクール図解百科事典』といったものを買いそろえてくれていました。
 恵まれていたとは思いますが、じゃあ都会に住んでいてお金もたくさんあって、小さなころから塾や習い事に通わせてもらって……といったような恵まれ方まではしていません。まして、40歳を過ぎた私にとって、もはや家庭環境などそれほど大きなファクターではありません。

 努力は才能、努力は環境、努力の成功は生存バイアス――これらは努力に密接不可分な性質となっており原則として否定しえないので、努力を肯定的なニュアンスで語る意見すべてを実質的に「論破」してしまえます。そうして実際にSNSでは「論破」が繰り返し行われては喝采が寄せられています。
(中略)
 SNS世論でますます加熱する「努力を論破する」という営みは、いったいなんのために、どういうゴールをもってやっているのか、私には正直わからなくなってきています。最近は「努力を雑な二元論で語る人」よりも「努力を少しでも肯定する向きがあればことごとく『論破』する人」の方が有害性が大きいのではないかと考えるようにもなってきました。

 努力のなかにある矛盾や欺瞞を暴きこれを論破すること自体が目的化しているように見える近ごろのSNSの先鋭的な論調は、一見するとやさしさや正義感をまといながら、しかしパフォーマティブにはいくらか努力すれば伸びしろやチャンスがあったかもしれない人をすら「なにもできない人」に変えてしまっているのではないかとさえ思います。

白饅頭日誌:3月26日「SNSに蔓延する努力アレルギーがヤバい」|https://note.com/terrakei07/n/n2d549ea8729c

 いや、まったくそのとおりだと思います。

 よほど発達障害などを抱えていて「努力ができない人」でもない限り、努力はできるし努力した経験のある人がほとんどだと思うのです。

 例えば「遊び」です。テレビゲームや、ネットゲームにはまり、長い時間を遊びに費やした人はかなり多いと思います。最近はどうだか知りませんが、昔は攻略本を買ったり攻略サイトを見てゲームに挑んだり、RPGではひたすらレベル上げをしたりしたものです。現在のネットゲームでは、初期のガチャでいいカードを引くために「リセマラ」(リセット・マラソン)という、インストールとアンインストールを繰り返す行為が行われるのだと聞きます。

 私は、こうした行為は、ある意味での「努力」だと思います。ひとつのことに集中力と根気強さを発揮するのは、努力そのものだとは言えないでしょうか? 私は別に努力というものは勉学とか、仕事とか、芸事に対してのみいうものとは思っていません。遊びにかける一生懸命さ、必死さも努力の一つの形態だと思っています。その集中力や根気強さ、一生懸命さをどこに振り向けるかの違いでしかないのではないか、と。

 勉強や仕事となるとどうにも心が動かないが、遊びとなると一生懸命に取り組むことができる、こうしたことを私は否定しようとは思いません。ただ、勉強や仕事ができないことを「自分は努力のできない人だから」と逃げるのは、もったいないことだと思います。自分の能力を否定することになるからです。白饅頭氏のいう、「いくらか努力すれば伸びしろやチャンスがあったかもしれない人をすら『なにもできない人』に変えてしまっているのではないか」とはこのことです。

 努力の否定は、今さかんに言われている「コスパ」「タイパ」の絡みであろうとも思っています。
 努力して何かを成そうとすれば、それなりのコストはかかります。そして同様にそれなりの時間がかかります。そしてその先に成功が待ち受けているとは限りません。コストと時間を回収できない(回収できるかどうかわからない)ものに対して努力を投入したくないというのが、大方の本音なのではないかと思います。そしてそれを、「努力ができない人もいる」という主張でもって正当化している。

 しかし、最初の一歩を踏み出す努力を惜しめば、その先には何も起こらず、何も得られないことだけははっきりしています。最初の一歩を踏み出す努力をすれば、何かが起こるかもしれないし、何かが得られるかもしれない。
 とすれば、「自分は努力のできる人だ」と信じて、小さいかもしれないけれども可能性を追った方が、私はマシだと思っています。

 ちなみに、体験談でいうと、私が気象予報士になるのにかかった時間が長かったのは否定しませんが(2年余り。ただ、タイムパフォーマンスが悪かったとは思っていません)、コスト面では教科書を数冊買っただけですので、受験料や宿泊費、交通費のほうがはるかに高くついています。「コスパが悪い」「タイパが悪い」と決めつけて目標から目を背けるよりも、とりあえず最初の一歩を踏み出してみて、そのうえでさらに前に進むのか、退くのかを決めても、悪くはないと思うのです。


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