40代半ばで始める終活はなかなかしんどい

 3月14日の白饅頭日誌は、「人はおひとり様で生きていけるのか」という問いに対する答えになっている。

 2000年ごろからもてはやされてきた「おひとり様主義」の風潮は、壮大な社会実験だったとし、

 すなわち、本当に人間は「おひとり様」で過ごしても心身も認知もバランスを崩さず問題なく生きていけるようになったのかについての社会実験だ。

 その実験がおよそ20年くらい続けられて、当時の若年層が中年に差し掛かり、いよいよその「検証結果」が出てきたという形なのだろう。

 
 そして明らかになったその最終結果というのが「やっぱりおひとり様はつらい(できる人もいるだろうけど、それは特殊な才能が必要で、けっして万人向けではない)」だったのだ。

白饅頭日誌:3月14日「結局そこかよ!」|https://note.com/terrakei07/n/n073ab2aec54a

という結論に至っている。そして、

 ――そう遠からず揺り戻しが来る。

 たしかにそんな予感がある。「結婚して子どもを持っていないと人間として半人前」といった昭和的な価値観が、だれが号令をとったわけでもないのに、装いを新たにしてじわりじわりと復活していくような兆しは、今月のマガジンでも書いたように、すでに見え始めている。

白饅頭日誌:3月14日「結局そこかよ!」|https://note.com/terrakei07/n/n073ab2aec54a

都市部ネオリベラリズムを支持する人びとがあれこれ並べ立ててきた「ファクター」や「リスク」のことなどあれこれ考えず「とりあえず産んだらええねん」「子どもできちゃったっスw」「こないだ二人目産まれたっスw」くらいのごく軽いテンションで子どもをつくり、家族親族みんなで支え合って逞しく生きる、昔懐かしい昭和ヤンキー的共同体秩序——それが「産んだス文明(産んだっス文明)」である。

マガジン限定記事「産んだス文明」|https://note.com/terrakei07/n/n967a50019dd3

と、「産んだス文明」なるものを紹介している。

 そして今、私は間違いなく「おひとり様主義」よりも「産んだス文明」に属しておいた方がよかった、としみじみ思っている。

 とはいえ、私は厳密には「おひとり様」ではない。妻がいるからだ。しかし、子供はなく、妻は既に(出産に関しては)高齢であり、少なくとも「産んだス文明」の住人ではない。子供がいない分働き、子供がいない分自分たちにお金をかけていられるライフスタイルは、どちらかといえば「おひとり様主義」に近いものがあるから、私は私を「準おひとり様主義」に属するものとしておく。

 もっとも、「主義」などというほどライフスタイルに対するこだわりがあったわけではない。一度は子供もできかけた(かなり早い時期に流産してしまった)から、子供はいらないと決めていたわけではなかった。それから何となくセックスレスになり、私の精神疾患が悪化する時期もあって、生活に対する(仕事ができなくなる)不安感から、何となく子供を持たずにおり、セックスレスとも特に向き合ってこなかった結果、時機を逃してしまった、という感じだ。

 ところで私は、兄と私の2人兄弟で、兄夫婦にも子供はなく(こちらは相当不妊治療を頑張ったようだ)、私の「家」の断絶が確定している

 家の断絶が確定し、アラフィフに足を踏み入れかけていると、もはや「老後」を飛び越えて「死後」のことを考えざるを得なくなってくる

 第一、親がいつ死んでもおかしくない年齢になってきた。両親は「介護が必要になったら施設にでも入れてくれ」と言っており、現時点ではあまり手がかからないように思えるが、どう心変わりするかわからない。いくら本人たちが「施設にでも」と言っていても、経済的に、あるいは制度的に、ふさわしい施設にはいれる保証はない。本人たちが望まなくても老老介護をしなければならない可能性はあるし、もしそうなれば面倒をみるのは私たち(兄夫婦は少し離れたところに住んでいるから)ということになりそうだ。

 妻の両親はというと、妻の弟が重度の障害者であり、こちらも「家」の断絶が確定しているが、経済的には私の両親よりもやや余裕があり、他界した場合にも土地や家屋の処分については妻と取り決めをしているらしい。この辺は妻に任せきりで(私が口を挟むような問題でもないと思われるし)、財産等の処分についてもあえて知らぬ存ぜぬを貫いている。

 私の両親が他界したとしたとき、家や土地をどうするのか、財産(と言える程のものは残らないと思うが)をどうするのか、といったことはまだはっきりと話し合いはしていない。兄夫婦には十分な資産があり、おそらくそういったものに対して執着はしないと思うが、家に住むのか、あるいは取り壊すのかで方向性はガラリと変わる。家屋は資産でもあるが、“負債”にもなりうる。

 もうひとつ負担になりうるのが、墓や仏壇といった代物だ。親戚は皆遠いところに散ってしまって、墓だけ地元に残しておくというのはあまり賢明な判断とも思われない。いずれ墓仕舞いをすることになるのだろうが、母は「墓のことは兄ちゃんが考えてくれてると思うよ」と言っている。こちらとしては兄が何か考えてくれていることを願うばかりだ。

 この辺のことをあまり踏み込まずにボンヤリと考えていられるのは兄弟仲が良好なせいだ。兄は頭の良いしっかりした人なので、とりあえず兄と喧嘩して自分の考えを通そうとは考えていない。兄の判断に任せておけばとりあえずは安心だろうと思えるのは一つの強みであるかもしれない。

 妻も私も、自分の財産を黙って国庫に持っていかれるようなことは考えておらず、寄付する先を探したり、そろそろきちんとした遺言を残しておこうという話をしてはいるが、まだ具体的な話にはなっていない。というのも、まだ自分たちの財産の範囲と死ぬ順番がはっきりしていないからだ。夫婦がそろって交通事故で死亡するといったことでもない限り、必ず誰かが最後に取り残される。どういう心身の状態で取り残され、どのくらいの時日を独りで生き、どのように死ぬのか。誰がどうやって“最後の一人”の後始末をしてくれるのか。そのためにどれくらいの資産を残して誰に託しておけばいいのか
 考えることが山積みなのだ。法律の勉強もしなければなるまい。弁護士のような専門家に相談をすることも必要になるだろう。それも、状況が変わるたびに。いよいよ老境にさしかかり、頭も体も十分に働かなくなってからの「死ぬ準備」は相当骨の折れるものになるはずだ
 少なくとも、死ぬ準備ができるまえに認知症で何もわからなくなる、という事態だけは避けたい。

 書いていて憂鬱になるが、「産んだス文明」に生きる人々は、次の世代の人にお任せしておけばいいのだ。借金さえ抱え込まず、良好な家族関係を保っておけば、資産の多寡はあろうが、少なくとも最低限の後始末は子や孫がやってくれるだろう。
 無論、「誰かがやってくれる」という他力本願なことを言っていないで、自分で何もかもケリをつけて逝くこともできる。それは自由だ。
 だが、その選択肢が得られるのも「産んだス文明」に生きているからこそだ。

 「おひとり様主義」の人間には、最終的には独り寂しく朽ち果てていく選択肢しか残されていない。そうなってから「寂しい」とうったえてみたところで、何かをどうにかしてくれる人はいないのだ。


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