死への第一歩
を、踏み出した。と言っても、首吊り用のロープを買ってきたとか、富士の樹海行きのチケットを買ったとかそういうことではない。終末期医療に関する事前指示書や、遺言書を書いたのだ。
総合検診と昔の職場の大先輩
きっかけは2年前の総合検診だった。異常値こそ出ていないが、かなりギリギリの値で、腎臓の機能低下があった。
町の保健師に相談すると、腎臓は悪くなることはあっても良くなることは基本的にはないと説明を受け、夜10時から2時までの間は眠ること、というアドバイスを頂いた。私が5時に起きて勉強する生活を始めたのは腎機能の低下がきっかけだ。試験を前にして目の色を変えたとかいうことでは決してない。
そして私が、腎臓の機能について敏感になるのは、昔の職場の大先輩が腎臓病だったからだ。
大先輩のNさんは、平日は週3回、仕事を早退し、透析に通っていた。食事や水分の制限はとても厳しいらしく、体重の調整がうまくいかなかったときの透析の翌日は辛そうにしていた(透析で体重を落とすのはかなり辛いらしい)。Nさんは血管が丈夫だったらしいが、針を刺す場所がなくなる仲間も多いというようなことも言っていた。そんなNさんも、針を刺す方の腕は血管がところどころこぶのように膨れ上がり、痛々しかった。
Nさんは急に腎臓病になったらしく、発病時の検査結果が出たときには死ぬ直前だったそうだ。
Nさんが腎臓病になったあと、政治の世界でも有名なあの宗教団体が勧誘に来たそうだ。部屋の中にスクリーンを張り、映画を見せられたそうだが、Nさんは「今ここで俺の病気を治してみろ! それができるんなら全財産寄付してやるから! やってみろよ!」と言って、あの宗教団体を撃退したという逸話を持っていた。
Nさんは職場にエスプレッソ用の小さなコーヒーカップを置いており、朝1杯だけコーヒーを飲むのだが、たまに、小銭を渡してきて「◯◯君、コーラ買ってきてくれないか」という。私が350mlのコーラを買ってくると、そのエスプレッソ用の小さなコーヒーカップに1杯だけコーラを注ぎ、残り(というかほぼ全部)は私にくれた。そのわずかなコーラを、実に美味しそうに飲み干していた。
話が長くなってしまったが、私はそういうNさんの姿を見て、「これは自分には無理だ」と思った。私はそんなに飲食を節制できるほど意思が強くない。「もうどうにでもなれー!」と言ってコーラを一缶飲み干すタイプの人間だ。
忍び寄る糖尿の影
そして昨年の総合検診がやってきた。
腎機能の数値は一昨年の値とほぼ同じで、何とか持ちこたえてくれた。その代わりと言っては何だが、糖尿の数値が悪化していた。空腹時血糖は全然正常の範囲内だが、HbA1Cの値は異常値に達しないギリギリの値まで迫っていた。
ついでに尿酸値の値もギリギリ正常値の範囲内という状態だった。
老化に伴うものなのか、日頃の不摂生が祟ったものなのかは知らないが、じりじりと生活習慣病が身近に迫ってきている。糖尿病から透析に至ることもあると聞く。
痛いの苦しいの、そして何より厳しい食事制限に耐えられそうにない私にとっては、この検診の結果はなかなか心に「来る」ものがあった。
まだ病気の段階ではない。そうではないが、そろそろ「覚悟」が必要な段階に入りつつあることを突き付けられた感じがした。
まだ大丈夫、まだ猶予がある、と言っているうちに手遅れになるのだけは避けたい。
そんなときに思い出したのが、病院の研修で見た臨床倫理の動画だ。その動画の中で扱っていたのが終末期医療に関する事前指示書だった。事前指示書は、自分がどんな最期を迎えたいか、それを家族や医療スタッフなどに伝えるための書面だ。
まだ早いのは百も承知ではあったが、いざ終末期を迎えてああでもないこうでもないと言い争いになるのを避けるために、私は一切の延命治療を望まないことを今のうちにはっきりさせておく必要がある。
「私の死生観はこうですよ」と家族に伝える意味合いもある。自分が望まない医療を家族が望むことがないように、元気なうちに意思表示をしておいて、「心の準備」をしておいてもらう。
心臓マッサージも、人工呼吸器も、胃ろう・鼻チューブによる栄養補給もすべて希望しないこととしたが、点滴による水分補給だけは決めかねたので今も空欄のままだ。急速に脱水が進んだときにどういう影響が出るのか、わからなかったからだ。
遺言書の起草
末代になることが決まっている私たち夫婦は、比較的早くから財産をどう処分するか、話し合ってはきていた。
最終的にはどちらかが相続人がいない状態で死を迎える。そのとき国庫に財産を没収されるのは癪なので、私が最後に残された場合は日本赤十字社か国連UNHCR協会に遺贈するよう遺言を書くつもりだ。
しかし、まだ法定相続人がいる状態だから、遺言を書くのは時期尚早な感じもする。
とはいえ、40代後半の男性の死因は、厚生労働省によると悪性新生物(がん)、自殺、心疾患、脳血管疾患、肝疾患の順なのだという(以前は5位に不慮の事故がランクインしていた)。
がんや肝疾患なら罹患してからでも意思を残せそうだが、心疾患、脳血管疾患、不慮の事故は一撃死のイメージがつきまとう。
平均で見れば死ぬまで30年以上の猶予があるが、同年代の一定数は心臓や脳の病気や、事故で急死しているのだ。
だからこそ、今のうちにできることはしておこうという気になった。今遺言を書けば、相続人が欠けていく可能性がある。現在の法定相続人は配偶者と両親だが、私が普通に生きていれば、まず両親が一人欠け、二人欠けるだろう。そうすれば今度は法定相続人が配偶者と兄に変わる。相続人が変化するたびに遺言書の書き換えを余儀なくされるが、それは致し方ないことだ。
将来的には認知症になったら、ということも考えなくてはならないだろう。遺言の執行者は妻にするつもりでいるが、これもいつまで遺言の執行ができるかわからない。そうなったときにどういう制度が使えるのか、少しずつ知識を身につけていかなくてはならないだろう。
近いうちに、町の無料法律相談を利用して、遺言書の草案が法的に有効性を具備しているか、聞いてくるつもりだ。
これからどんな人生が待っているのか、それは私にもわからない。明日車に撥ねられるかもしれないし、100歳まで達者に生きるかもしれない。
ただ、「初老」という言葉がもともと40歳の異称であったように、昔の感覚ではすでに私は老人の域に入っている年代なのだ。早め早めに手を打っておくに越したことはない、そんな年齢になったのだと思っている。
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