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愛についてもう一度考えてみる

いつも考えかたを参考にしている
阪本さんがこのような記事を出していた。

この記事にこのような記述があった。

大事なことや、大切な事が増えれば増えるほど
その人たちの痛みを自分も抱える。

僕はそこまで相手のことを
大切に思っていただろうか?

友達に、家族に、恋人に
大切だと僕が思い込んでた人に

正直僕はこの26年間は
ひたすらに自分が傷つき
ひたすらに自分の傷を癒していく。
そんな日々の連続だった。

結局自分のことしか考えてない。
俺も結局は自分が一番大切なんだ。

この言葉を見てそう思った。
俺にそのキャパはまだない。
おそらくないんだ。


でも今回の好きだった既婚者に対しては
「相手の痛みを抱える覚悟」は
どこかで感じたようにな気もする。
そこまで好きになっていた。
ここは言語化できないがなんとなくだ。

僕は愛とはどういう物かを知った。
それは相手の醜さや弱さを受け入れること。
これは母親から五感で感じ取った。

だからその愛の彼女に与えていいと
思っていたことは事実だ。
痛みを背負う覚悟はあった。

こんなかっこいい事言ってるが
心のどこかで期待もあった。
これが一番の理由だ。


しかし知ってしまった。一昨日に。
この人は逃げ続けてる人だ。
ズルくて、自分ばかり守ってる人だ。

そしてその自分の自己肯定感の無さを
俺で埋めようとしてただけだ。
寂しいから付き合う。
それと変わらないことに気が付いた。
俺は利用されてただけなんだと。

それでもいいって
気持ちもないわけではないが
これは俺のエゴでもあり
そのエゴは悪循環しか生まない。
俺が損をし続けるだけ。

その事実に気が付いた瞬間
「期待」という感情がなくなった。
それがお互いのためだ。

同時に突き放すことが
僕からできる愛なんだと。

俺はあなたからもらった傷を
背負っていきていく。


しかし同時にこの記事には
このような事も書かれていた。

相手の愛を確かめるために
所有し、独占することを
私たちは正当化してしまう。

だからいざパートナーが
自分以外の誰かを好きになってしまったり
相手がパートナーに手を出そうとするものなら
どんな手段でも叩きつぶしたくなるほど
嫉妬や嫌悪感を覚えると。

動物でさえ縄張り意識があったとしても
所有はしない。
ではなぜ?人は所有したがるのか?

それは人が作り出した概念だからなのだと。
だから戦争が起こる。人さえも殺せるんだと。


それだけ所有というのは
人の感情を動かし、人を駆り立てる。
それほど危険な概念なのだ。

しかし概念というのも
結局は誰かが作り出したものだ。
誰かが得をするから、都合がいいから
こうして世の中に浸透させて
みんな「所有はいいこと」という価値観を
刷り込まされてきた。

しかし
何かを得るためには何かを捨てる必要がある
所有はいつも「不保有」がセットでついてくる。
何かを選ぶということは
その他のことを犠牲にする。
その認識は持たないといけないと思う。


そもそも人も物も
前提「誰のものでもない」という事は
自覚しなければいけない。

物だって使えば消耗する。
売ってしまえば他人のものになる。

特に人は自分の意志で動く生き物だ。
自分の思い通りに動くなんてありえない。

僕は良く知っている。
僕は欲しいものが手に入らない
人生を送り続けてきた。

例え所有したとしても
いつかは失う。
そんな事も経験してきた。

だから俺は人よりも
「所有」という感覚が薄い。
必要以上に貯金をしないものそのためだ。

時には手放すこと。
それが自分のためであり
相手のためだったりすることだって
大いにあるのだ。
離れることが愛な事もあるんだ。

しかし思い入れが強いほど
所有し続けたくなる
手放すのが怖くなる。
その感情はすごく分かる。

それがなくなると
自分が自分じゃなくなる感じがして
怖い気持ちも分かる。

だから僕だってこの4か月間
喪失感の連続だった。
怖いよ。手放すのは。

でも今まで手放してきて
僕は一度も後悔したことはない。

むしろ新しい自分に出会えて
手放しても生きていけるって。
手放しても俺のままでいられるって
事実を知っているから。

だから俺は
今の会社に執着する気もないし
別に日本で居続けようとも思ってない。

いつだって能動的に
選んでいる感覚はあるんだ。

だからこそ
持つものが良くて
持たざるものが良くない
なんて一括りにすることなんてできない。

持つものはどんどん負荷がかかる。
どんどん身動きが取れなくなっていく。

だからこそ
その持ってるものが
自分で選んだ選択なのか?
誰かの尺度が入ってないか?

これは常に自問自答し続ける
必要はあるんだと思う。

しかし自分が選んだ選択だとしても
「相手の傷」や「相手の弱さ、醜さ」と言った
すごく心地悪く、重いものはセットになって
くっついてくるものだと思う。

自分の弱さや、寂しさを埋めるためだけの恋愛は
その相手の傷や、醜さを無視して
自分が欲しいものだけとっていく。
このようなイメージだろう。

まあそっちの方が楽だ。
重くなったら捨てればいい。
そしてまたどっかから持ってくればいい。

でも僕は人生で1人くらいは
相手の傷や痛みを抱えれる。
そんな人になっていきたい。

そんな何人も抱える事なんてできない。
1人でいいんだ。
もしかしたらそれさえも
僕が死ぬまでにできるのか?
そのレベルの話だと思う。

だから僕は向き合い続ける。
自分の弱さに目を背けない。


自分との向き合いは
いわば「心の筋トレ」だ。

負荷をある程度はかけないと
相手の傷を背負うまでの重量を
持つことはできない。

そもそも僕はこれまで
自分の傷でさえも抱えれてなかった。
もちあげきれてなかった。
もしかすると、まだなのかもしれない。

筋トレでは「kg」という
数字で定量化できるが
心は定量化できない。
だから分からない。


でも常に僕は
相手の傷を抱える覚悟は
もって生きていきたい。

殴ることのできる奴は
殴られる覚悟をもってる奴だけ。

ベンチプレスの重量を更新するやつは
潰れる覚悟があるやつだけ。

相手の傷を抱える奴は
自分の傷つく覚悟があるやつだけ。

その覚悟と勇気だけでも
俺は持って生きて生きたい。

できるかできないかじゃない。
やるかやらないかだ。


俺はそうやって生きていきたい。
いつか出会うあなたのために。

あなたを愛せるようになるために
まずは自分を愛して、
そしてあなたの傷を抱える度量を力をつけて
あなたの前に現れたい。


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