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ワンルームの楽園

古いアパートを選んだ自分を、少しだけ恨んだ。

鍵を開ける事さえ、とてつもなく慎重になる。

ギギギ…

と扉の開く音。

大丈夫、この時間ならきっと“彼女”は起きていない。

ワンルームの部屋の中は真っ暗だった。

ホッと胸を撫で下ろす。

しかし、そんな安堵も束の間だった。

突如、部屋がぱぁっと明るくなった。

突然の事に目を細めるが、誰がそれをやったのかは分かりきっていた。

焦りと不安が一気に加速する。

『おかえり』

「た、ただいま」

『帰ってくるの、随分遅かったね。もう日昇ってきてるよ?』

「ごめん、友達と盛り上がっちゃって…先に寝てていいって連絡したのに」

『うん。でもどうしても寝れなくて』

「どうして?体調悪いとか?」

『うーん…そういうんじゃなくて』

美羽はおもむろに立ち上がると、玄関に立ち尽くす僕の元へゆっくりと向かってくる。

「な、何?」

平静を装う僕。

美羽はとてつもなく鋭い。
一挙手一投足に気を配らなければ、簡単に嘘がバレてしまう。

『何って、おかえりのぎゅーでしょ?』

彼女は当たり前に笑ってから、僕に抱きついた。

これが僕達の日常なのに、それすらも僕は忘れてしまっていた。

柑橘系の香りが、いつもより強く感じる。

汗が滲む。

僕は美羽の身体を抱きしめることが出来なかった。

少しだけ、僕を抱きしめる力が強くなった気がした。

耳元で彼女が囁く。

『楽しかった?』

まるで全てを見透かしているかのような一言に一瞬だけ、僕は返事に詰まってしまった。

「うん、楽しかったよ」

『そっか』

美羽は僕からそっと離れた。

そしてそっと手を差し出した。

意図が分からずにいると、またしても美羽は笑う。

『荷物預かるよ?重いでしょ』

「あ、あぁ…ありがとう」

美羽にショルダーバッグを手渡す。

すると美羽は、すぐにショルダーバッグの中を探り始めた。

突然の事に一瞬戸惑ってしまったけど、大丈夫。

何も証拠は無い。大丈夫、絶対に大丈夫。

「何してるの?」

誤魔化すように笑うと、美羽も同じようにこちらへ笑みを向けた。

そして、ショルダーバッグの中から何かを取りだした。

『じゃーん』

「…それ、何?」

美羽が見せてきたのは、手のひらで覆えるほどの黒くて四角い“何か”だった。

そんな物少し考えれば分かるだろうに、分かりたくなかった僕はあろう事か美羽に尋ねてしまった。

『小型のGPSだよ』

美羽は依然、笑っていた。

頭の中が真っ白になっていくのが分かった。

穢れた言葉がドロドロと溶けていく。

取り繕う言葉も、表情も、何も出来やしなかった。

そのまま逃げ出してしまいたかった。
けれど美羽の意味深な笑みがそれをさせてはくれなかった。

「どうして…そんな物」

『〇〇が一番分かってるんじゃないの?』

美羽の声色が一変した。

僕にはもう、何も言えなかった。

『ずーっと怪しいとは思ってたんだよね。最近エッチの回数減ったし、妙に飲みの回数は増えたし』

『そんなわけないって思ってたから、浮気してないって確信したいから、これ仕掛けたのに。位置情報がラブホテルになってた時は思わず笑っちゃったよねぇ』

笑っているのに、言葉からは悲痛な叫びが伝わってくる。

でもそれ以上に、僕は恐怖していた。

浮気をされたはずの彼女が笑っている事に、何をされるか分からない未来に。

『ねぇ、〇〇…私の事、好き?』

「そ、それはもちろん」

刹那、美羽の両手が僕の首を捉えた。

その細い腕からは想像も出来ない程に強烈な力だった。

「あ、がっ…!」

『何で?じゃあ何で浮気なんかしたの?』

「美羽ッ…」

『おい、答えろよ!!!』

必死にもがいても、美羽の腕を叩いても、まるで力が弱まる気配がない。

少しずつ、意識が遠のいていくのが分かった。

このまま死ぬのかな、僕。

こんな事になるなら、浮気なんてしなければ良かった、何て当たり前の事を思う。

『許してほしい?』

その言葉を聞いて、僕の目からツーっと涙が流れた。

すると驚く事に、美羽が僕の首から両手を離した。

「っ…はぁ…はぁ…」

僕はそのまま玄関の床に崩れ落ちた。

服が汚れることなんて厭わず、必死に酸素を取り込む。

しかし美羽はそんな僕の顔をまたしても両手で掴んだ。

目と目が合う。

美しい瞳だ、と素直に思った。

美羽って、こんなに綺麗だったっけ…

そんな事を考えていたら、美羽の顔が目の前まで迫ってきていた。

そしてそのまま、唇が合わさった。

「ん…!?」

ただの口付けじゃないことはすぐに分かった。

美羽の舌が、僕の口をこじ開けてきたから。

舌同士が絡み合う。

そんな場合じゃないのに、僕は快楽を覚えてしまっていた。

まともに息もできない中で、頭の中が少しずつ美羽一色に染まっていく。

『ん…んちゅ…』

押し退けなきゃ、なんて思っても身体は上手く動かせないし、美羽の両手が僕の後頭部を押さえつけている。

この快楽に従うしかないことを、本能は悟っていた。

僕は美羽の背中に両手を回した。

すると美羽は口付けを突如やめてしまった。

「美羽…美羽っ…」

涙ぐんだ目で美羽を見つめる。

美羽はそんな僕を見て、恍惚の笑みを浮かべていた。

『あぁ…本当に可愛いね、〇〇。
浮気さえしなければ完璧だったのにねぇ』

「ごめんなさい、ごめんなさい…!」

『うんうん、謝れて偉いね。もうしないって約束できる?』

「…もうしない…」

『それなら許してあげる。私は“寛大”だからさ』

「ありがとう…ございます…」

『これからは全部私の言う事に従ってもらうよ?』

「うん…」

『じゃあ、〇〇は私の物って証を付けないとね』

今度は僕の首元を、美羽の唇が捉えた。

「いっ…!」

僅かな痛み。
悪くない、と思った。

『…ぷはっ。あはは、めっちゃ赤いね』

どうやら、キスマークを付けられたらしい。

それを震える指先でなぞる。
これがある限り、僕は彼女の物でいられる。

どんなに幸せな事だろうか。

『じゃあ…続き、シよっか』

「うん…」

彼女は僕の手を取って立たせた後、部屋へと手を引かれる。

僅かワンルームの空間が、僕には楽園のように見えたんだ。

Fin.

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