見出し画像

最近写真を撮れない訳

写真というジャンルの趣味に本格的に目覚めたのは大学に入って、写真部に入部してからだ。

授業でも使うからと、キヤノンのデジタル一眼レフを買った。実家にあった古いフィルムの一眼レフでも一本撮影してみたがもうガタが来ていたので、新しいフィルムカメラも中古カメラ屋で購入した。1,000円で買えた、OLYMPUS PEN-f ハーフカメラ。
2016年の夏頃である。
写真は単純なようで難しかった。フィルムでは失敗は取り消せない。何度か、露光が足りず何枚も真っ黒だったとか、フィルムを取り出す時に巻き戻せておらず感光させてしまったとか、巻き戻し中にフィルムが千切れたとか、涙を飲むような失敗をしている。いまでも思い出すと悲しい。。その失敗のせいで写真にならなかった映像があり、それはわたしの記憶の中にのみ存在しているが、もちろん、全てを思い出せるわけもない。
それでいうとわたしはシャッターチャンスに恵まれていない。いつも一足遅い。カメラマンには向いてない。ひとを撮るのはまだいいが、現象(風による旗の動きとかそういう偶然の力の作用するシャッターチャンス)とか動物とか自然の左右するところは全く苦手なのだ。
うわ、いまのあのシーンめちゃくちゃいいなー写真に撮ったらいいだろうなあと思っているうちにそのベストチャンスが通り過ぎている。脳みその回転がノロマなのだ、なので、プロにはなれないのだ。。

という話は置いておいて。。
写真に熱を上げていた当時から数年が経ち、社会人も数年が経ち結婚し生活の落ち着いた今、カメラを持っていっても以前より撮らなくなった。

なんでかなあーと考えて、辿り着いた答えは
写真は、出会いと別れの季節に撮るものではないか?ということだ。多分。

大学の頃は出会いと別れが毎日のように繰り返されたようなものだ。
また、大学時代には母方の祖父、父方の祖父母が立て続けに寿命で亡くなった。
そして今結婚した夫と出会ったのも大学の時だった。
アルバイト先では接客業をしており、そこでも日々出会うお客さんが移り変わったし、パートの方との出会いと別れもあった。

そういった日々の移り変わりの激しさが、わたしに写真を撮らせたのだろうと仮説を立てる。

そして対照として今は職場も変わらず、正社員の事務職なので人間関係の変化も少なく、日常生活は安定している。
もちろん出会いと別れは日々あるが、写真にのめり込んでいた当時より起伏が穏やかなのは確かである。

というわけで今は写真を撮れなくても、とりあえず気にしないことにした。
また撮りたくなる時が来る、その時に写真の感覚を思い出せるように。
その時は、シャッターチャンスの運が味方してくれますように。。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?