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10分間中国近現代史 太平天国の乱

(たぶん?)日本一カンタンでわかりやすい中国近現代史
豊富な写真と平易な文章で流れがつかみやすい

これはAmazonのkindle本『2時間で読める中国近現代史: 豊富な写真と平易な文章でわかりやすく 流れがつかみやすい』(歴史ニンシキガー速報発行)に収録されている太平天国の乱編を抜粋したものです。

洪秀全に降りた神の啓示

ある日、病床にあった一人の青年が奇妙な夢を見た。いや夢というよりある種の幻覚だったというべきだろう。その幻覚は次のような内容だったーー。

青年の伏せる病室に大勢の人々が龍や虎とともに入ってきた。彼らに天上の宮殿へと案内された青年はそこでみるからに気高い老人と出会った。黄金の髪とひげを持ち、ビロードの黒衣をまとった老人は青年にこう告げた。

「全世界の人間はみな私の子である。なのに人々は私を顧みないどころか、逆に悪魔を崇拝している。 おまえはその悪魔を絶滅しなければならない」。

こういうと老人は青年に一個の金印とひとふりの剣を与えたーー。

一時は生命すら危ぶまれたほどの容態だったが、幻覚を見たあとは不思議なことに波が引くように快方へと向かった。やがてすっかり調子を取り戻したが、この時の奇妙な夢はその後も強烈な印象として青年の心の底に残った。

青年の名は洪秀全。のちに太平天国の指導者として清朝に反旗を翻す人物であるが、当時は科挙の地方試験に落第ばかりしている気の弱い一介の田舎書生であった。病床に臥せったのも3度目の試験に失敗したことからくる心労が原因だったという。

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洪秀全

その6年後のことである。洪秀全は広州で不思議な男に出会った。男はなにもいわず一冊の本を手渡すと、いつのまにか消え去っていた。その後、家に戻った洪秀全はなにげなく本をめくって仰天した。そこに書かれている内容が6年前に見たあの夢とそっくりだったからだ。実はその本は『勧世良言』というプロテスタントの伝道書だったのだが、それを読んだ洪秀全はそれまで心にひっかかっていた謎がすっかり氷解したように感じた。そしてこう結論づけた。

ーー「悪魔を絶滅せよ」といった金髪黒衣の老人はキリスト教の神エホバであり、エホバは自分に「エホバを唯一神とする地上天国をうちたてよ」と命じたのだーーと。

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当時の広州


使命感にかられた洪秀全は受験勉強をやめ、同郷の書生・馮雲山とともにエホバ、すなわち上帝を宇宙の創造主といただく新宗教・拝上帝会を創始した。さらに翌年、桂平県の紫荊山を根拠地として本格的な布教活動に乗り出した。

拝上帝教が説いたのは、儒教の『礼記』に典拠を持つ「大同世界」とキリスト教の理想社会をミックスしたいわばつぎはぎのような教えであった。だが、父なる神の下に人類は一家族であり、貴賤貧富の差はなく、すべての男女は平等であるというその教義は阿片戦争後の社会不安のなか、しだいに人々の心をひきつけていった。なかでも貧しい農民たちーとりわけ村の土地神の祭りからのけ者にされてきた客家のひとたち(洪秀全も客家出身であった)ーは次々に拝上帝教の信者になった。

その一方で拝上帝教はたんに来世の幸福を願う平和的な宗教団体ではなかった。それは道教や仏教などの神仏の像を「偶像」として破壊してまわる社会的にも危険な団体であったし、同時に清朝政府を神の支配を妨げる「妖魔」とみなす反体制的な革命集団でもあった。そして当然ながらこの過激な反体制集団と支配者側、すなわち地主や官憲との間にはやがて激しい対立関係が生じることとなった。

金田起義

1850年7月、洪秀全は信者1万人あまりを紫荊山ふもとの金田村に呼び集めると、これを男軍と女軍に分け、厳しい軍事訓練をほどこした。そして翌年1月11日、洪秀全は信者の前に立ち、新国家「太平天国」の樹立を宣言。自ら天王と称し、ただちに「妖魔」清朝を倒すべく立ち上がるよう命令した。


金田を出た太平天国軍は、まず広西中部の町、永安を占領した。天王洪秀全はここで馮雲山、楊秀成、粛朝貴、韋昌輝、石達開の5人を王に封じ、政治面・軍事面の指導体制を整えた。かれらはそれぞれ東王、西王、南王、北王、翼王と呼ばれ、天王洪秀全を補佐することとなった。また私財所有禁止の詔令を発するとともに暴行、略奪を禁止し、住民に対する布教活動に力を入れた。そのせいもあってか半年後、清軍に追われふたたび北上を開始したときには、農民のほとんどが家を焼きはらって太平軍につき従ったという。

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永安(蒙山県)にある太平天国記念碑


永安を脱出した太平軍は北上し、今度は湖南の道州を占領、さらに武漢へと攻め上った。途中、天地会系の秘密結社員数万を加えた太平軍は1953年1月、ついに武漢を占領することに成功した。だが、太平軍はここにも長くとどまろうとせず、二か月後には再び北上を開始した。めざすは南京である。すでに20万を超えていた太平軍は、長江に無数の船を浮かべ、一路東進した。途中、九江、安慶といった長江沿いの都市を次々とおとした太平軍はそのまま怒涛のような勢いで南京城の制圧に成功した。金田起義から数えて2年余りのことであった。

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南京に入城する太平軍


太平天国樹立ー南京建都と北伐・西征


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天王府

1853年3月、南京へ入城した天王洪秀全はさっそく理想とする太平天国の建設にとりかかった。洪秀全はまず南京を天京と改名、さらに『天朝田畝制度』という小冊子を頒布した。 この『天朝田畝制度』は、太平天国がめざす国家像を具体的に表わしたもので、それは、(一)、上帝を唯一神とする神政政治 (二)、財産をいったん聖庫に納め、 そこからあらためて支給する聖庫制 (三)、神の前における人類の平等および男女の平等 ( 四)、二五家を単位とする隣組制、という四本の柱からなっていた。

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天朝田畝制度

要するに「田があればともに耕し、飯があればともに食べ、銭があればともに使い、場所によって不均衡があったり、人によって暖衣飽食できないものがあったりしない」平等な社会を目指したものである。一見、理想的な社会のようだが、これはあくまで机上のプランであり、実際これらの政策がどこまで実現されたかとなると疑問が多い。しかも神の前の平等をうたっていながら「官」と「民」とであきらかな身分差があるなど、その制度ははなはだ矛盾に満ちたものであった。また軍隊内における徹底した男女の隔離政策は、太平天国の禁欲主義を象徴するものとして名高いが、そのいっぽうで天王以下、東王、北王らひとにぎりの首脳部は何人もの妾を囲っていたのも事実であった。

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