傷の舐め合い
傷の舐め合いとは、辞書によると、
と書いてある。
傷の舐め合いには、2つのタイプがあると思う。
ひとつめが、言葉の意味通り、本当に傷のある者同士が慰めあうこと。
ふたつめは、片方あるいは両者に傷はなくて、傷があるふりをしていること。
本当に傷がある場合
ひとつめの、言葉の意味通り、本当に傷のある者同士が慰めあうこと、について考えてみる。斜に構えて考えなければ、通常は文字通りこのままである。どんな場合にこのシーンが登場するかといえば、
この上記記事に書いたType Bの人同士の会話が、傷の舐め合いに相当する。Type Bとは上記記事にはこう書いてある。
一言で言うと、”自分に甘い人” ってことだ。辞書の定義の「ただ互いを甘やかし合うこと」 に合致する。
傷があるフリをしている場合
ふたつめは、片方あるいは両者に傷はなくて、傷があるフリをしていること、について考えてみる。すると、傷って本当にあるのかな? という素朴な疑問がふと浮かんだ。
片方にしか傷がない場合:
そもそも、自分には傷はないんだけど、傷がある人と接触をするときに、自分にも傷かあるかのように振る舞い、会話をするシーンが見受けられる。
なんとなくの印象なのだが、女性同士で、
「そうよね、わかる〜、わたしも〜〜」
と同じ境遇であるかのように共感しているフリをしてるんじゃないかと思うことがある。
この心理には、
・上から目線になることを避けるための会話術なのか?
・同じ境遇であるほうが、真に分かち合えるとでも思っているからなのか?
・実はマウントをとっていることがバレないためのテクニックなのか?
両方とも傷がない場合:
両方とも傷がないのに、両方が傷があるフリをして、会話をするという変わったシチュエーションにも度々遭遇する。
これも、会話を円滑にするために、自分の地位を相手より高くなりすぎないためのテクニックなんだろう。
目立ち過ぎず、出る杭は叩かれないように、謙遜のさらに下をいく、自分卑下までして波風を立てまいとする涙ぐましい人間関係構築スキルなのでしょう。
◇
傷を舐め合う人たちは、ビジネスにおいては、なんの躊躇もなく、無能の烙印が押される。そりゃ、前述のType Bですからね。つまり、結果を軽んじで成果を出さなくても、頑張りさえすれば良いと考えている人は、ビジネスマンには必要ないから。
◇
一方、人生においてはどうでしょう?
人生はビジネスではないですからね。
人生においての成果は自分で決めるのですから、プロセスを重視したり、努力したことを重視してOKなわけです。だから、傷を舐め合うテクニックは、もしかすると自己肯定感向上には、大きな役割を果たしているかもしれません。
傷の舐め合いを全面肯定するわけではありませんが、こんな風に考えるのも面白いかなって書きながら思いました。
◇
私はいままでビジネススキル向上で歩んできました。セカンドライフを開始していいるので、現在は、自分の人生を主体的に責任を持って歩むステージです。
会社員だった時は、大きなビジョンが示されているので、自主性を持って活動すればなんとかなりました。責任の取れる範囲が限られていましたから。
しかし、自分の人生は、自分の責任です。主体性の比率をもっと高めるステージに入っていると感じています。
自分の傷は人から舐められなくていいから、自分で舐めて直していこうっと。