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ヴィクトル・セガレンの説く多様性
1.はじめに
世紀をまたぐ頃から、それまでにも存在し進展してきていた経済のグローバル化が加速度を増し、経済の世界だけに留まらず文化全般にいたるまで、世界大でものを考えなくてはならない時代になっている。しかしながら随所で矛盾も噴出している。早くから安価な労働力としてマグレブ諸国や西アフリカから移民を受け入れてきたフランスにおいては、イスラム過激派によるテロ行為に悩まされ続けてきている。フランス在住ムスリム・ムスリマたちは、イスラム過激派は自分たちとは異なる宗教概念を持ち、過激な行動に出ているものであって、自分たちとは異質の存在であり同一視しないで欲しい、とことある毎に訴えている。フランスにおいては、イスラーム系住民の総人口に占める割合が、年々増加している。これに直面し、その際によく用いられているのが、多文化共生という単語である。更に枠を広げていくと「多様性」の尊重という概念が重要性を持ってくる。
ダイバーシティー(英:Divercity 仏:Divercité)という単語の登場である。
この「多様性」という概念をいち早く哲学として取り上げていた者が、ヴィクトル・セガレン(Victor Segalen, 1879-1919)である。ヴィクトル・セガレンを簡単に紹介しよう。彼は、多方面で活躍していた。フランス海軍軍医にして、詩人であり、小説家であり、エグゾティスムの理論家である。フランスにおいて、誰よりも密度の濃い<エグゾティスム>論を残したといえるだろう。そして、旅人・探検家であり、ポリネシア・中国を活動範囲とする文化人類学者にして、中国学者・中国考古学者でもある。また音楽の分野でも、自ら数多くの楽器を演奏し、オペラ作品を書いたり、作曲をしたりもしている。そして音楽評論や美術評論も残している。
そのヴィクトル・セガレンを読み解くうえでのキーワードは、エグゾティスム(Exotisme)と多様なるもの(Le divers, Divercité)である。
2. エグゾティスムの系譜
エグゾティスム(Exotisme)という単語は、Le Grand Robert によれば1845年に仏語に取り入れられたものである。民族主義的国民国家形成過程における特殊なタームである。しかしながら、今日においては、Exotismeという単語は、「異国趣味」を意味する一般的な用語として使われている。ここでは、まず第一に、大航海時代から啓蒙主義時代にみられる「異国趣味」としてのこの単語が担わされた過程を検討しておきたい。他方、19世紀後半から20世紀前半にかけての「エグゾティスム」(セガレンが忌み嫌うところの「異国情緒」的舞台装置)はヨーロッパの自民族中心主義(エトノサントリスム Ethnocentrisme)で、非ヨーロッパ地方への差別意識をともなう概念である。第三共和政の成立からその終焉に至るまで、それは、ナショナリズムの発露としての帝国主義・植民地主義と結びつくことになるだろう。
歴史的概念としてのエグゾティスムを表す装置として、大航海時代から啓蒙主義時代に至る「エグゾティスム」をあえて日本語で「異国趣味」と表現する。
(1)異国趣味
異国趣味とナショナリズムの発露としてのエグゾティスムは、ともに相対主義をとり、どちらの場合においても、価値あるものは一定の内容ではなく、観察者との関係によってのみ規定されたある国、ある文化である。他者の方がわれわれよりも優れている乃至はわれわれの方が他者より優れているといった価値判断が最終段階において介入してくる。
大航海時代から、十八世紀末の啓蒙主義時代までの西ヨーロッパに属する著述家たちは、自分たちを他のいかなる文化より複雑で発展した文化を保持するものとみなしている。彼らが他者に価値付与を積極的に行う場合ですら、それは自分たちの文化の反対の極を具現するものとしてでしかありえない。言い換えれば、異国趣味はつねに原始主義(語の文化的意味においてである)につきまとわれていたのである。
異国趣味の原始主義的解釈は歴史それ自体と同じほど古い。だがこの解釈に大きな推進力が与えられるのは十六世紀の数々の偉大な発見の旅の時期からである。実際、この発見に引き続いて、ただちに、アメリカで観察される「未開人たち」の習俗とヨーロッパ人自身の先祖の習俗の同一視がおこなわれるようになる。異国趣味はしたがって原始時代をよしとする意味での原始主義とも溶けあう。ヨーロッパ文化は、自分自身の過去に価値付与をおこなおうと望んだように思われる。現在はつねに転落として生きられている。ルソーの「人間は本来善良であるが、堕落を正当化する社会制度によって邪悪となっている」という直感を見よ。
未開人の理想化はすでに最初期の旅行記述によって始められた。クリストファー・コロンブスとアメリゴ・ヴェスプッチというふたりの有名な旅行記の著者は、原始主義のふたつの異なった、そしていわば相補的な形態を示している。
多くの点で中世的な人物であるコロンブスは、とくに未開人に価値付与をおこなうわけではない。彼はむしろ、南アメリカ大陸のどこかに、自分は地上の楽園そのものを発見するだろうと考えている。それに比べ、よりルネサンスの人物であるアメリゴ・ヴェスプッチは、そのような迷信に信をおかない。だが同時に彼は、同じ南アメリカ大陸におけるインディオたちの生活を、楽園で展開するはずの生活により近いものとして描き出すのである。
「善良な未開人(bon sauvage)」2のイメージは十六世紀から十八世紀にかけて重要な役割を果たしはするが、遠方の諸民族についての唯一のイメージでもなければ、支配的なイメージでもない。このイメージはとくに旅行記に顕著に見いだされるものであるが、これは当時非常に流行していた文学ジャンルであった。旅行が高くつき、しかも危険であるような時代には、旅行者は自然と自分たちが見たものをほめそやす傾向を持つものではないか、と問うてみることはできる。当時の旅行者の未開人に対する、この「自然」な好意は、おそらく旅行に先立ち、旅行を準備する彼自身の世界に対する批判精神と対になったものである。
フランス人にとって、あらゆる「未開人」は互いに似通っているという事実をあげることができる。問題の未開人がアメリカに住んでいるか、アジアに住んでいるか、また彼らがインド洋からやってきたか、太平洋からやってきたか、ということはどうでもいいのだ。実際重要なのは、彼らがフランスとは対照的であるということなのだ。
もし、ある社会を理想化してみようとするなら、それをあまり近くから描き出してはならない。逆に多少とも細かい描写は、理想化とは、なじみにくい。
フランスが、大洋に乗り出してスペイン・オランダ・イギリスと競合するようになった啓蒙の世紀、人々は、大航海の旅行記と、『ロビンソン・クルーソー』(1719)と、そしてトマス・モアの『ユートピア』(1515~16)を愛読していたのである。それはどこか遠くにあるものなのだ。
「善良な未開人」の肖像は、その完全さには、多少のちがいはあるものの、十八世紀の啓蒙時代を通じてみられるものである。この肖像のもっとも文学的に成功した表現の例は、おそらくディドロが、その『ブーガンヴィル航海記補遺』において与えたものであろう。
タヒティでは、私有財産は厳密に必要最小限に抑えられている。これに対しヨーロッパでは「女性すらもが男性の私有財産となる」。この対立はそれ自体、生活に必要なもので満足する社会と消費社会、あるいは贅沢をする社会との間の対立へと延長される。後者においては余計なものが生産され、消費のための消費が行われる。もちろんディドロにあっては、上に述べたことから、たとえ未開人たちのためになるという口実のもとであっても、未開人を占領するなどという企ては打ち捨てられることになる。ディドロは奴隷制度に反対であるばかりでなく、ヨーロッパ人にありがちな、文明を普及させることを使命とする考え自体に、無縁であった。未開人たちのほうが、ヨーロッパ人より優れている以上、彼らはいったい何をヨーロッパ人から学ぶ必要があるというのであろう、というのである。また、この本の中で、彼は、ポリネシア文明は外国人によって堕落する、と予言している。そして、現実はまさしくそのように進行していくであろう。
ただ、ディドロを始めとする18世紀の原始主義者たちは、結局のところ、タヒティ人や「善良な未開人」自体にはほとんど関心がなく、ヨーロッパ、フランスにのみ関わる論争における論拠として、それを必要としていた点には注意を払っておきたい。ディドロは、ブーガンヴィルの『世界周航記』を元に、その著作を執筆したのであるが、あたかもタヒティ人を見て来たかのように書いているに過ぎないのである。
(2)植民地主義としてのエグゾティスム
伝統的な意味での異国趣味は、他者に対して比較的寛容で概ね友好的でありながら、かつ無関心に近い態度であったのに対し、19世紀中盤以降のエグゾティスムは、偏狭で、自分たちについては寛容であるものの、他者に対しては攻撃的である。ちょうど興隆しはじめた新聞や雑誌、あるいは19世紀半ばにはじまった万博によって、さまざまに流布された遠隔地のイメージが、エグゾティスムやオリエンタリズムとなって現れる。そして、1931年には、植民地博覧会まで開かれている。
『オリエンタリズム』の著者エドワード・サイードは、歴史を通して、西ヨーロッパが、自らの内部としてもたない「異質な」本質とみなしたものを「オリエント」(「東洋」)に押し付けてきたとし、「東洋」を不気味なもの、異質なものとして規定する西洋の姿勢をオリエンタリズムと呼び、批判した。また、サイードは単に西ヨーロッパとそれ以外の地域だけの対比ではなく、同様の権力構造・価値観を内包しているエトノサントリスムのような他文化や他国に対する思想・価値体系もオリエンタリズムとして同様に批判している。「オリエント」(「東洋」、「東洋的」、「東洋性」)とは、西ヨーロッパによって作られたイメージであり、文学、歴史学、人類学など、広範な文化活動の中に見られる。サイードによれば、それはしばしば優越感や傲慢さや偏見と結びつくばかりではなく、イギリス、フランス、アメリカの帝国主義の基盤ともなったとされる。
第三共和制が成立する1870年代には、一定の歴史的経緯を経た「ヨーロッパ文明」の自己定義がほぼ完成していたのではないか。そして「自由・平等・友愛」を謳うフランス共和国が、きわめてナショナリスティックな国家として、自ずと植民地帝国建設を志向することになるのは、必然であろう。
3. ヴィクトル・セガレン『<エグゾティスム>に関する試論』の読解
まず初めに指摘しておかなければならないことは、セガレンの存命中に、『<エグゾティスム>に関する試論』という書物があった訳ではないことだ。これは1904年10月にセガレンが、タヒティからの帰路、ジャワ島沖の船上で書くことを着想し、実質的には、1908年6月より死の前年1918年10月までの10年間にわたり断続的に書き続けた未完のエグゾティスム論のためのノートを中心に、後世が編集したものである。最初に編纂されたのが、1955年のことであり、詩人のピエール・ジャン・ジューヴの手で『メルキュール・ド・フランス』誌に発表された。その後1978年にセガレンの娘アニー・ジョリー・セガレンが関連する手紙の抜粋などを補ってより完全な形にし、孫娘の校訂者ドミニク・ルロンが各時代のセガレンの略伝と注を付した形で、ファタ・モルガナ書店から出版された。彼のエグゾティスムの捉え方は、彼の作品の全体と同じように、彼を二十世紀と二十一世紀初頭のいくつかの関心事項の先駆者にしていると言えよう。
(1)自分の見たいもの、聞きたいもの (エトノサントリスム)
(以下の引用文は、木下誠訳による)
セガレンは、1908年6月9日の「転写(Contre-estampes)―逆証(Contre-épreuves)」という文章の中で、「ロチでもサン=ポル=ルーでもクローデルでもない、別のもの!これらとは別のものでなければならぬ!だが、真の発見は単純であるに違いない.....だから何よりもまず、ただ単に、実際、私が自らに禁じているこれらの者の逆(Contre-pied)を行けばよいのではないか。なぜ逆証を試みないのか。彼らは自分が見たもの、自らその衝撃を求めに出かけて行って遭遇した予期せぬ事物や人々を眼の前にして自分が感じたものについて語った。だが、それらの事物や人々が、それ自体の内で考えていたことを彼らは明らかにしただろうか。なぜならおそらく、もう一つの別の衝撃が旅人から光景へと逆に生じ、旅人の見るものを震撼させることになるからである」と記している。
「私が自らに禁じているこれらの者」とは、直接にはロチ、サン=ポル=ルー、クローデルという人物を指しているが、実際には、それらの者が持つ西洋中心主義的なものの見方の事を指しているのであろう。自分の生まれ育った西洋の環境の中から紡ぎだした「見たいもの」、「聞きたいもの」のみを、自らの様式に従って収集する。それは、啓蒙主義時代に関心を持たれていた「善良なる未開人」の生活そのままなのかもしれない。それを享受できるはずのところに「衝撃」を求めに出かけて行くのである。それが、たまたま任務に従って派遣された場所であったとしても、である。またあるいは「予期せぬ事物や人々を眼の前に」することもあったであろうが、それでも、自分の見たいもの、聞きたいものしか収録しないであろう。それを彼らは「印象的」に記述するのである。
セガレンの言葉通り、彼らは「それらの事物や人々が、それ自体の内で考えていたことを彼らは明らかにした」のだろうか。そしてセガレンのこの日の考察の冒頭にあるように、「事物の底の底から、事物が語るようにした」のだろうか。「もう一つの別の衝撃が旅人から光景へと逆に生じ、旅人の見るものを震撼させることになるからである」という、そういった観点は、彼らには欠けていたといってよい。
セガレンが称揚するのは、主体(観光者)が対象(光景:自分の見たいもの、または幅広く他者といってもよい)を前に、自分の中にある「印象」だけを語り、対象を単なる興味本位の事物にしてしまうような主観的態度ではなく、対象が主体(旅人)とは異なる論理でもって立ち現われるようにすること、そのために、主体(旅人)が対象に積極的に働きかけ、対象を「生きた環境」として把握すること、そのようにして、主体のエトノサントリスムを崩すことである。
セガレンは、「自分の見たもの(ヴィジョン)をまったくその通り述べるのではなく、自分の存在の反響を、瞬時の、恒常的な転移(transfert)によって語ることは、技巧の程度に従って変化する芸術の階梯の中では、一段上のものではなかろうか」と述べている。
カエサルの言葉に「人間ならば誰にでも、現実のすべてが見えるわけではない。 多くの人は、見たいと欲する現実しか見ていない」というものがある。これが、人間の本性であるなら、セガレンもここから逃れることはできないだろう。しかしセガレンが、「見たいと欲する現実」のみではなく、「対象が主体とは異なる論理で現われる場面=見なくてはいけない現実」も積極的に見れたのは、いかなる理由によってであろうか。それは、ゴーギャンからの影響が大きい。セガレンは、ゴーギャンの亡くなった後3か月にして、彼の終焉の地を任務で訪れている。その際に、『ノア・ノア』、『以前と以後』や、その他遺稿(セガレンは、ゴーギャンの遺稿を読んだ最初の人物といってよい)を読み耽りつつ、セガレン自身は、それまでポリネシアについても、そこに住むマオリ人たちについても、何も見ていなかったと、感じ取ったのである。そして、彼は暫く後のことになるが、「私はタヒティの人々を、ゴーギャンが描くために見たやり方に適ったやり方で、すなわち彼ら自身において、しかも内側と外側の両方から、『書くこと』を試みました。一民族全体のあの天啓が、彼のタヒティの作品の中に充満していることが、私が彼をこの上なく称賛する点なのです」、と1906年4月12日付のジョルジュ=ダニエル・ド・モンフレー宛の手紙に書いている。その試みとして、彼は、1904年に「記憶なき民」(原題“Les Immémoriaux”)を書き始めたのである(出版は、1907年9月)。
(2)「エグゾティスム」の地ならし
セガレンのエグゾティスムとは、当時も今も一般に理解されている「エグゾティスム」とは全く異なる、彼独自のものである。『<エグゾティスム>に関する試論』の訳者の木下誠氏は、このようなセガレンの本質的エグゾティスムを、他の概念から区別するために<>をつけて、<エグゾティスム>としたものと思われる。
『<エグゾティスム>に関する試論』の1908年8月17日の記述には、「<エグゾティスム>の感覚から始めよう。それは堅固であるとともに移ろいやすい領域だ。そこに含まれている凡庸なもの、ココ椰子や駱駝といったものを素早く退けること」、また1908年12月11日の記述では「何よりもまず、地ならしをすること。エグゾティスムというこの語に含まれる濫用され色褪せたすべてのものを船上から投げ捨てること。そこからその着古されたけばけばしい外衣―椰子と駱駝、植民地の軍帽、黒い肌と黄色い太陽を剥ぎ取ること」と書かれている。これは、以前に自らも1904年の段階で抱いていた「エグゾティスムはえてして熱帯的である。ココ椰子と灼熱の空」という概念からの脱却であり、いわゆる植民地文学の象徴である事物を退けることである。そして、これからセガレン自身が打ち立てていくところの<エグゾティスム>(いわゆるこれまでの「エグゾティスム」を逆から捉える、「本質的エグゾティスム」)の第一歩の宣言である。
セガレンの「本質的エグゾティスム」とは、主体の印象やそれまでの世界観に還元されるような異国趣味とは異なり、主体の「生きた環境」に対する積極的な関わりをその出発点とするのである。
そして同じく1908年8月17日の記述に「接頭辞Exo[=外へ]を可能な限り大きな一般性の中で定義すること。われわれの現在の、日常の意識事象の総体の「外に」あるものすべて、われわれの習慣的「<精神調性>」ではないものすべてのもの」と記されている。セガレンから見れば、観察する主体の外部にあるものは、全て「エグゾティック」である。ところが、この時代においては、この概念は、著しく矮小化して用いられていたのである。いわゆる植民地主義の作家たちによってエトノサントリスムに捕われた姿になって現出していたのである。
<異なることを把握する>能力については、次項目で検討する<多様性なるもの>を知覚する能力につながるものである。
(3)多様なるもの(Le Divers )について
1908年12月11日の記述では、<エグゾティスム>の定義をあらゆる分野で行っていく。まずは、その確信が記されている。「そして、直ちに<エグゾティスム>の感覚を定義し、定位するまでにいたること。<エグゾティスム>の感覚とは、異なるものの観念以外の何ものでもない。<多様なるもの>の知覚、何者かが自分自身ではないということの認識以外の何ものでもない。そしてエグゾティスムの力とは、異なることを把握する力にほかならない」というのである。
1908年12月11日の記述には、「<多様なるもの>についての一<美学>としてのエグゾティスムについて。導入部―エグゾティスムの概念<多様なるもの>」 “De l’exotisme comme une Esthétique du Divers. Introduction : La notion d’exotisme. Le Divers.”というタイトルがつけられており、セガレンの本質的エグゾティスムの世界観が現れている。この後、1911年10月18日、1913年5月6日、最後の記述となる1918年10月2日の記述にも「<多様なるもの>の一<美学>としてのエグゾティスム」という同じタイトルがつけられている。
<多様なるもの>とは、セガレンが最も大事にする概念である。<多様なるもの>の認識こそ、この世界にあって、「生きた環境」を、それ自体として受け入れる素地である。また、それは新たに遭遇する世界観そのものであるといっても良いかもしれない。<多様なるもの>とは、それまでの西欧中心主義的な主体が、「見たい、聞きたい」としていた事柄が、一方通行のものではないということをも表している。彼は、ポジティブなかたちとしてのLe Diversをしばしば口にする。それは自己にとって既知なるものに還元されることを拒む何かである。1913年5月6日の記述には、「そして、美学という語で言わんとするのは、この同じ感覚の行使(<多様なるもの>についてセガレンが持つ感覚のこと)ものであり、その感覚の追求とその働き、その最大限の自由であり、その最大の鋭さであり、結局のところその最も鮮明で奥深い美なのである」と記されている。
12月11日の記述は更に続き、細分項目に入っていく。その筆頭に位置する項目が「個人主義」である。この項目では「<差異>を感じることができるのは、ただ強烈な<個性>の持ち主だけである。思考する主体はすべて客体を想定しているという法則に従って、われわれも<差異>の概念には、既にその出発点としての個人が含まれていることを認めなければならない。自分とは何であり何でないのかを感じるものだけが、素晴らしい感覚を十分に味わうことが出来るだろう」と冒頭に書かれている。ここで<差異>となっているのは、<エグゾティスム>とは「異なるものの観念」であるとした場合の、主体と客体の差異のことである。そしてそれは<多様なるもの>である。
トドロフは、「差異は価値あるものとされなければならない。差異のみが感覚の強度を保証することができるからだ。ところで感じることこそ生きることである。あるいは少なくともそれが生の主要な部分である。」(p510)と述べているが、そうであるなら<エグゾティスム>=<異なるものの観念>=<多様なるもの>は、価値あるものとされなけれならないものである。価値あるものを感じることができるのは、強烈な個性を持ったものであるということになる。それは、感覚の強度が保障されていて、生そのものである。
「エグゾティスムは、それゆえ、観光者や無能な見物人のあの万華鏡のような状態なのではなく、強烈な個性を備えたものが客体性を備えたものと衝突し、自分とそれとの距離を知覚し賞味する時に生じる生き生きとした、それでいて奇妙な反応である(<エグゾティスム>の感覚と<個人主義>の感覚とは相互補完的である)」と、セガレンは更に続ける。
セガレンは、自分の居場所から移動する人を、旅人、観光者、見物人と三段階に分けている。旅人とは「生きた環境」を表側からと裏側からから捉えることができる人のことである(セガレンはこれらの人々をエグゾットと名付けている)。観光者とは、それを表側からしか捉えることができない人(西洋人であれば、西洋中心主義者。またその逆も真である)、見物人とは、クック旅行社等に引率されるツーリストのことである。因みにセガレンはピエール・ロチのことを観光者と呼び、<多様なるもの>の
<感覚>の<売春斡旋人>とまでこき下ろしている。
強烈な個性をもったものは、客体を単に受け入れ、眺めるだけではなく、客体との間に緊張感をもって、相手に敬意をもって接し、相手との相違を感じ取り、それを楽しむことができる人である。それ故<エグゾティスム>と個人主義は共通点があり、相互補完的なのである。
「<エグゾティスム>とはそれ故、順応することではない。つまり、人が自分の裡に抱きしめていたものが自分自身の外にあるということを完璧に理解することなのではなく、永久に理解不可能なものがあるということを鋭く直接に知覚することなのである」と、客体に永遠に理解できない部分があるのだという割り切りの必要性を説き、「要するに、ノスタルジーも、別の物への欲望もそれほど必要ではなく、一つの時代を他の時代との関連において生きる直接的で激しい快楽が必要なのである。個人主義の強化ことが必要だ。常に,中国を生き生きと感じ取るべきなのであって、私は中国人になりたいという欲望を覚えたことは一度もない」(P181)とつながっていく。
<エグゾティスム>とは、<生きた環境>、<多様なるもの>と同化することではない。それは、客体との相違を鋭く感じるとともに、相手のことを真に理解することはできないと悟ることである。セガレンが中国人と同化してしまえば、中国人というものを生き生きと捉えることができなくなってしまう、ということである。それは、傍からどう見えようとも、中国人への無関心ということではない。
4.おわりに
今日においては、排他的な言動や態度が幅をきかせることがある。自分中心主義、自民族中心主義、自国中心主義からきていることであろう。その要因は多々あると推測できるが、そのひとつには、他者に対する想像力の欠如があるのではないだろうか。また、例え他者に同調しうる想像力を持てたとしても、周りの空気に抗うことは難しいのかもしれない。
セガレンは、相手との差異を感じることができるのは、「強烈な個性をもったもの」であると表現している。西洋中心主義が当たり前の時代において、「多様なるもの」へ緊張感を持って接し、互いに敬意を持つこと自体、周りのものから見れば、強い個性の持ち主ということができたのであろう。全くの異文化の中で暮らす他者を、自分が相手を偏見を持って見ているように、相手も自分のことをある手法で見ているということに想像力を巡らせることが出来たのである。セガレンは、同時代人に、自分が生きている間に、これらのことを広く公にできる機会があった訳ではない。しかしながら、思考の中において、このような先進性を持った人がいたことは、記憶に残しておきたい。
参考文献:
・ヴィクトル・セガレン『<エグゾティスム>に関する試論 羈旅』、木下誠訳、現代企画室、1995
・ツヴェタン・トドロフ『われわれと他者 フランス思想における他者像』、小野潮・江口修訳、 法政大学出版局、2015(新装版)、2001(初版)
・ジル・マンスロン『ヴィクトル・セガレン伝』、木下誠訳、水声社、2015
・ヴィクトル・セガレン『記憶なき民』、木下誠訳、水声社、2003