いつか手にする勝利のために記す
文芸であれマンガであれ音楽であれ、ひとが創作したり、または創作に関わる発言や行動に身をゆだねるとき、その目的はひとつしかなく、それは「現実」という、もっとも強固なフィクションを破壊することにあるのです。いや俺バカだからよくわかんねぇけどとか、金やちやほやされるためだーッとか、この素晴らしい世界に祝福をだとか、そういう回答もあるとは思いますが、もちろん錯覚です。そのようなひとたちも心の奥底でははっきりと自分の叫びを聞いているに違いないのであって、それはつまり、大きな顔をしてのさばっているたったひとつの「現実」という奴がどうにも気に食わない、ということなのです。
ですから私は、創作したり、創作について何かをしたり言ったりするあらゆるひとを、同じ戦いに身を投じた見知らぬ戦友であるとか、偶然一緒に授業をさぼることになった級友であるとか、そのように思っています。ドストエフスキーも、アルタミラの洞窟にトナカイを描いた画家も、このあいだ初めてニコニコ動画に「ミクオリジナル曲」タグの動画を投稿した知人も、みな「現実」にレジストする同志です。これは比喩ではありません。
先日私は、文芸作品に対する感想について〈良いこと〉ばかり書いて〈悪いこと〉を避ける風潮はいかがなものか、といった主張の文章を拝読しました。その言葉を書いた方は、とあるインディー文芸イベントの〝落選〟作品としてネットに公開された80を超える作品たちのすべての感想を書くという凄まじい行為を実践されているのですが、私は去年自作を「わかんない」的コメントで一蹴された苦い記憶もあり、かつ私がまさにその〈良いこと〉ばかりしか書かない輩だという自覚があるため、「なんだァ? てめェ……」と憤る空手家のように、心がぞわりと逆立つような感覚がありました。
私は文芸に限らず、マンガやアニメなどの創作物について琴線に触れたことは片端からツイートするのですが、この方と真逆で、〈良いこと〉しか書きません。かつては〈悪いこと〉も呟いていたのですがやめました。なぜかというと、この戦いにおいてそれは不純物だと考えるからです。
ここで念のため確認しておきますが、創作物の〈悪いこと〉とは何でしょうか。印象に残らないこと。不快感を覚えること。理解できないこと。もちろん、そうではない。それらはみな創作の本質とは程遠い、ごく些末なことに過ぎません。創作物の〈悪いこと〉とはただひとつ、「現実を壊す力がない」ということです。そこにあるのは減点法の世界ではなく、強固にして最大の敵に抗することができるのかというたったひとつの基準にもとづいた加点法の世界です。言い換えれば、〈悪いこと〉とは単に〈良いこと〉の不在に過ぎないのです。
私たちはかの強大な敵との戦いのなかにその身を投じているのであり、この戦場においては、「現実」を破壊すること以外の要素はすべて不純物なのです。もちろん「現実」とは何かを定義できない以上、私がいま極論めいて話している内容はある種のトートロジーであるとか、ぼやっとした感覚を大げさに言っているだけだとか、そのような批判はあり得るでしょう。私たちは、純粋に創作に戯れる存在というだけでなく、社会という共通の現実を営む存在でもあるため、「現実」の捉え方は単純に整理できませんし、また、その単純に割り切れない部分こそが創作物が立ち上がる苗床なのだ、という解釈も可能でしょう。しかしそれでも、私にとって、創作において「現実」を破壊すること以外に純粋な衝動があるとは思えない、という事実は変わりません。
言わずもがなですが、「現実」を破壊する手段は無数にあり、言葉という方法に限っても、それはなにもSFやファンタジーを指すだけではありません。日記やエッセイ、140文字の呟きとかが「現実」を破壊することはいくらでもあるでしょう。たとえば、
「気付いた。あのキチガイってあだ名のクラスメイト、教室で暴れる時って私が虐められそうな空気になった時ばっかだ。」
これは2018年に「54字の物語」という企画があったとき、マンガ家の平野耕太がTwitterに投稿した言葉ですが、これを目にしたときの衝撃は今も生々しく憶えています。ああ、これさえあればいい、私が言葉に求めるものはこれだけだ。たった54字が「現実」を破壊してくれる瞬間です。
大切なことはそれだけなのです。ですから私はこのツイ廃人生において〈良いこと〉しか呟きません。ある創作物に触れ、もしそこに、「現実」を壊すに足る充分な力を感じることができたとき、そのことを呟く。たとえうまく理解できないところがあったり、読んでいてなんだかモヤることがあったり、瑕疵のように映るものがあったとしても、立ち止まってその理由を考えることはあれ、私が最終的に信じるのはこの「現実破壊力」の多寡だけです(私は一定の社会性を有するため、「現実破壊力」を認めたものすべてを無条件でツイートするわけではもちろんありませんが)。その一方で、そこまでの力が感じられなかった創作物については、言葉を費やそうとは思いません。not for meという呟きは、戦場において無意味だからです。
***ちなみに私はツイート生活において〈良いこと〉を呟くとき「最高」という言葉を自覚的に用いているのですが、これはつまり私にとっての「現実」という天井を突き抜けた=天元突破したという意味であり、「素晴らしい」「この表現のこういうところが好き」などという質的な言葉とは違って、定められたある基準を超えているという量的な事実を示しています。***
翻るに、〈良いこと〉だけでなく〈悪いこと〉も書くべきだという主張は、とても優しい。私が、ある一点を突破するものたちだけについて言及するのとは違い、目にするあらゆる創作物について言葉を費やすことが可能になるからです。実際、同じ文芸イベントに参加されている別の方のツイートで、自作について誰にも触れられないことに比べれば、ネガティブな感想であっても表してくれたほうが嬉しい、といった趣旨を見かけました。触れない=〈良いこと〉ではない=〈悪いこと〉である、という言外の意味すらこもることがあるというのであれば、たしかにそれを避けるにはすべてに言及するしか方法はないのでしょう。
結局のところ、確認しておくべきは、私たちはなぜ創作物についての感想を、わざわざSNSなりブログなどで叫ぶのか、ということです。それが公募の選考のような明確な目的のあるジャッジであるならば、だれもが「なぜ」を自問自答しながら行うことでしょう(それがいかに危険で恐ろしく難しいことか、そしてとてつもない価値をもつことなのか、ということは置いておきます)。そうではなく、誰に頼まれたわけでもなく個人の感想をネットに放流するとき、その理由はなんなのでしょう。自己表現。承認欲求。暇つぶし。そのような回答もあるでしょう。ですが、いずれも本質ではありません。そこには、あなたもはっきり自覚しているとおり、明確な目的があります。すなわち、現実を破壊する勢力を拡大することです。創作物についての感想を呟くものは、その行為を通じて、間接的にあの強大なる敵との戦いに身を投じているのであり、いつか得られる勝利に向けて、この前線を一歩前に進めようとしているのです。
私が〈良いこと〉を一心に呟くのは、いまここに、絶望的とも思える戦いに勝機をもたらすひとつの希望があることを、できるだけ多くの同志に伝えたいからであり、なにより作者が次なる創作に着手することで「現実」に抗することを少しでも後押しできるのではないかという祈りに近い衝動があるからです。そしてもし、〈良いこと〉だけでなく〈悪いこと〉もと言うのならば、それはもちろん、そのことによって作者が次に創り出すものがより強力なものとなり、より効果的に「現実」を破壊することができるように、という願いが込められているに違いないのです。
たとえば、その方が書き連ねる文芸作品の「感想」を拝読しますと、「そうなんだよ! そこがほんとうに最高なんだよ」とか、「!? なるほど……たしかに言われてみればそのとおりだ……」とか、「は? あんた全然わかってねえよ」とか、そのような脳内会話が繰り広げられ、さらには〈悪いこと〉を書かれた作者さんがそれを受け止めているツイートなぞを目にして、「そんな……あなたあれほど強く戦っているじゃないですか」とひとりもごもご声に出すなどしてしまうのですが、それらすべては、「現実」との戦いの作法を私に考えさせ、次にかの敵と戦うときの糧となるのです。ここにこうして書き連ねている長文も、「なんだァ? てめェ……」があってこそですし、おかげで私は今後、より戦えるでしょう。あと、去年の私の作品はたしかに分からないと言われて当たり前のものでありましたし、実のところその方の感想で「ああ、もっと読み手が分かる書き方をしなければ(現実に)抗するなんて夢のまた夢だな……」と強く思ったことは、今年の作品に確実に反映されております。まあそれが読み手に伝わるかどうかは別の問題ですが、少なくとも今年いただいた感想をみるに、どうやら狙ったとおりに分かっていただけたようで、まあまだまだ戦場で戦うにはレベルが低いことは骨身に沁みているうえですが、それでも嬉しいですどうもありがとうございました。
昨夜私は、連日の深夜残業のあとに、ふとその方がすべての〝落選〟作品の感想を書き上げたあとの記念碑となる掌編をアップしているのに気づきました。そこで、ふーんどの程度のものかみてやりましょうかと、読んでみたのです。うん、最高でした。私たちはそれぞれの戦場に身を置く戦友であり、顔を見知った程度の級友なのであって、その目的はひとつ。そしていつか、勝利する。