ゲルニカ

 大坂の街が赤く染った日。
 大坂城の炎が市中に燃え移り、街全体を埋め尽くした。
 市中に流れ込んだ豊臣方の敗残兵を追って、徳川方の侍が市井の人々を斬り殺していく。
 市民は逃げ惑い、川を目指す。幼子は母に手を引かれ、街の中を逃げ惑う。

 「足が痛い。母様、足が痛い」
 
 幼子は涙を滲ませ訴えてみるが、母は振り返らない。
 額に汗を浮かべ、髪を振り乱し、ひたすら走り続けている。
 母も子も素足で、足の裏は切り傷だらけだ。瓦礫が足に刺さり血が流れる。それでも構わず走り続けた。
 悲鳴がひっきりなしに聞こえる。幼子は耳を塞ぎたいと思ったが、左手は母に握られたままで、右手には人形を抱えている。耳を塞ぐ事は出来ない。

 「天満川を渡ろう。川向こうに行けば、きっと助かる」
 
 母は泣きながら、幼子を励ます。
 止まれば、斬り殺される。走るしかないのだ。
 鬼のような鎧武者が大坂の街を荒らす。血刀を振り回し、目に付く市民を斬り殺し、家を焼き払う。
 道の至る所には死体が転がっている。見知った顔もあれば、知らぬ顔もある。頭のない誰かも判らない死体もある。
 転がっている死体の中には、よく通ったお店の主人や手習いの先生、子守をした小さな赤子がいる。慣れ親しんだ人々の変わり果てた姿を見て、幼子はぎゅっと目を閉じた。
 皆、物言わぬ死体となり地面に転がっていた。
 侍達は道に転がる遺体から財布を抜き取り、着物を剥ぎ取る。幼子には足軽装束の鎧武者の姿が三途の川に群がる餓鬼に見えた。
 母とお寺にお参りした時、寺の境内の屏風に描かれた地獄絵図を見た。
 
 「悪さすると、地獄に落とされる」

 坊主は長々と説教していたが、幼子は屏風の地獄絵図が怖くて、話の内容はとんと、覚えていない。幼子の目には鎧武者達が地獄の鬼に見えたし、餓鬼にも見えた。
 慶長二十年、大坂夏の陣。
 大坂城は焼け落ち、城主豊臣秀頼、淀君は自害。
 徳川方の勝利で終わったこの戦いで、十万人とも言われる市民が犠牲になった。
 市中に流れ込んだ足軽達は老若男女問わず、大坂市民を虐殺した。
 母から子どもを取り上げ、金にする。
 目に付く若い娘をかどわかし、目に付く男を斬り殺して手柄首にする。
 雪崩れ込んだ足軽達に加え、大坂城の炎が街に燃え移り、市中を炎が包む。
 炎を避け、足軽達から逃げ、やっとの思いで天満川に辿り着いても、橋は焼け落ち、人々は小舟に乗って対岸を目指した。

「はよう、はよう乗って」

 やっとの思いで川べりに辿り着き、人の波を掻き分け小舟に乗り込む。ぎゅうぎゅう詰めで座る事も出来なかった。
 
「息苦しい、喉が渇いたよ、母様」

 幼子は泣きながら訴えるが、飲み水など母は持っていない。水を求めて、船の縁から川底を見れば、見知らぬ誰かと目が合った。
 川の中には人がいた。目を見開き、腕を伸ばし、苦悶の表情で固まった人の姿が無数に見えた。幼子は「ひっ」と、短い悲鳴を上げ、母にしがみ付いた。

 「向こうに渡れば、助かる。助かるから」

 母は泣きながら、幼子の背を撫でた。
 街を燃やす炎が天満川を赤く染める。水底に横たわる人の顔が恐ろしくて、幼子は震え、泣くだけだった。
 川べりには人が群がり、血刀を振り回す鬼達が暴れまわる。
 血を吹き、倒れる人達。
 男は生きたまま首を落され、女は裸に剥かれて食い殺される。
 地面に転がった生首に餓鬼が群がり奪い合う。

 天満川を無数の小舟が渡る。傷ついた人々を乗せ、船は対岸を目指すが、辿り着く前に半数以上が転覆する。
 川べりにいる鬼達が船に火矢を射て追いかけてくる。幼子が乗る船に無数の矢が突き刺さり、母が「きゃあ」と悲鳴を上げた。
 小舟が大きく揺れ、幼子は水の中に投げ出された。

 川底、人がいっぱい居る。人の顔が無数にある。
 
 「母様、母様」
 
 赤い水面を掻き分け、幼子は母を呼ぶ。見えるのは鬼と死んだ人の顔だけだ。
 人が人を殺す地獄がここにある。侍と言う名の鬼が大坂の街を壊した。

 「さえ、おさえ」
 
 母が幼子を呼ぶ。幼子は母を求め、水底へと手を伸ばす。

 「母様、母様」

 水底、川の中に母が居た。母の着物を裾を掴み、幼子は水底へと下る。

 慶長20年夏、大坂夏の陣の様子を描いた六曲一双の屏風絵「黒田屏風」。
 炎から逃れ、天満川と淀川に大坂市民が押し寄せ、野盗と足軽が市民を斬り殺す様が克明に描かれた一枚の屏風絵だ。
 筑前福岡藩主、黒田長政が大坂夏の陣の直後に描かせた「戦国のゲルニカ」。
 後世に語り継ぐ戦争の記録である。

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