偽善 ⑪

 ここで言葉を切り、下を向いた。続きを待ちきれず私から訊ねる。
「何が違ったんですか?」
 葉山は笑みを浮かべた。
「ああ、そうか。私はあの子を、愛美ちゃんを愛していたんでしょうな」
 遠くを見詰めながら言う顔は、とても和やかだった。
「愛していたと……そう言いながら、なぜその愛する子を手にかけたんですか?」
 口の中が乾いている。咳払いしそうになるのを堪えて私が質問すると、葉山が目線を合わせて、それから少し考え込むような素振りをしてから応えた。
「あの日、事件のあったあの日ね。愛美ちゃん、顔を腫らしてうちに来たんですよ」
 言いながら葉山が自分の右頬を摩った。
「どうしたのって聞くと、愛美ちゃんは言ったんです。お父さんに叩かれたって、お父さんとお母さんがケンカしたから止めようとして叩かれたって」
「それが理由ですか?」
「まあそうですね」
 あっけらかんと答えた。
「どういう意味か、もっとわかるように説明してもらえますか?」
 ペンを持つ手に思わず力がこもる。
 自分でも驚くほど冷静だった。何の感情もない。憤りもなければ共感もない。ただ葉山の心理を引き出す。そのことだけを考えていたように思う。
「荻野はとうとう娘に手を上げたんです。そんな父親から母親は庇ってもくれない。出ていってって愛美ちゃんは母親から言われたそうです。それで泣きながら家を出て私のところにやってきました」
「だから殺したと、そう言うのですか」
「ええ、そうです。あんな家であんな両親に育てられるくらいなら、いっそ楽にしてあげるほうが……。ああ、そうか、そういうことだったんですね」
 葉山は一人得心した様子でにこにこ笑っている。
「それを決めるのは、葉山さん、あなたではないでしょう」
 私が言うと葉山は笑顔のまま頷いた。
「普通ならそうですね。でもね田所さん、私が荻野を手に掛けたら、私は愛美ちゃんから父親を奪った男として生涯憎まれることになる。誰かを憎み続けて生きるのは、とても辛いことなんですよ」
「だから愛美ちゃんを……」
 納得しそうになる自分の心理が気色悪かった。
 私はこめかみを手で押さえて表情を取り繕ってから問い直した。
「だから荻野ではなく、愛美ちゃんを手に掛けたと、そう言うのですね」
「ええ、ええ。その通りです。死ぬより辛い苦しみ……。ああ、私が味わったものをそのまま返してやればいいのかと、そう思いました」
 寒気がした。
 私がじっと顔を見ていると、葉山は微笑んだまま続けて言い放つ。
「ただ命を奪うより強烈でしょう。そうは思いませんか? 大事な家族を奪われる痛み、生きがいも何もかも奪われるあの痛みを私は彼と、荻野と共有したかった。そして決めたんです」
 葉山は淡々と語る。無表情に理路整然と説明している。その様を見て私は背中に悪寒が走るのを自覚していた。
 据わりの悪い、むず痒い感覚が腰元に纏わりつく。
「身勝手だとは思わなかったのですか?」
「身勝手ね……。ねえ田所さん、荻野徹が、あの三人が私の聖子と真奈美を殺したのは身勝手じゃなかったんですか?」
「彼らは罪を犯し、そして裁かれています。葉山さん、あなたが愛美ちゃんを殺して良い理由にはならない」
「理由とか、そんなのはどうでもいい。当事者じゃない人には私の気持ちはわからんでしょう。私の時間はね、十五年前のあのときから止まったままだ。もう動くことはないんです。でもアイツは、荻野は十五年間活きていたんですよ。人として、そして親となった。だから、アイツの時間を止めてやりたくなった」
「愛美ちゃんはあなたを慕っていた。良心は痛まなかったのですか?」
 聞いても詮無いことを敢えて聞いてみる。葉山は顔を上げてにっと笑ってから、ゆっくりと喋り出した。
「そりゃ、痛みますよ。だからできるだけ苦しくない方法を考えました。でもね、あの男の子どもとして生きるのと、私の手で楽に終わらせてやるのとどちらがマシでしょうね。愛美ちゃんを手に掛けなくても、私はいずれあの男を殺したでしょうし」
「それは詭弁でしょう。何の罪もない幼い子どもを手に掛けていい理由にはならない」
「他の人にはならないでしょうが、私にはなった。愛美がいるから、家族がいるからと言いながら、あの男は奥さんのことも愛美ちゃんのことも大事にしているようには見えなかった。どこまで行っても自分本位な男でしたね」
 ――それはあなたも同じでしょう。
 そう言いかけて、私は口を噤む。
 葉山と目が合った。私は口元に右手を添え喘ぐように息を吐き出した。
 そんな私を見て、葉山はまたクスッと笑う。
「かわいいお子さんですね。こんなかわいい子を亡くしたなんて気の毒だ。俺には愛美がいる。この子が居るから俺は真人間になれた。俺のせいで死んだ子の名前も確かマナミでした。愛美を育てることが罪滅ぼしだと思います。……顔も覚えていないくせに、しゃあしゃあと私に向かって言ったんですよ」
 葉山は私の表情を確認してから押し殺した笑いを漏らし、更に言葉を続けた。
「これであの男は一生私を忘れない。私と同じように生きてる限りずっと、私を、聖子を、真奈美を忘れることはないでしょう」
 そこまで言って、葉山は深々と頭を下げた。
 私は口元を手で拭い呼吸を整えてから、ある疑問を葉山にぶつける。
「犯行後、すぐに自首せず愛美ちゃんの葬儀が終わってから出頭したのはなぜですか? あなたは愛美ちゃんのご両親に代わって、葬儀の一切を取り仕切ったと聞きます。葬儀の際に我々マスコミに対し遺族にカメラを向けるなと、そう言って頭を下げましたね。あれはパフォーマンスだったんですか?」
 葉山は顔を上げ、きょとんと不思議そうな顔で私を見詰めている。
 暫くの間、考え込むように口元をうーっと歪めてから、ゆっくりと喋り始めた。
「私自身、混乱していたんでしょう。愛娘を奪われ泣き崩れる百合子さんを哀れに思えました。マスコミは変わりません。私の時も葬儀に詰めかけて訊きました。今のお気持ちはってね。答えられるわけないでしょう。あれと同じ光景を目の当たりにして腹が立ちました」
 虚ろな目が、私を見た。
 あるいは私ではなく、どこかへと視線をさまよわせていたのかもしれない。
「葬式の日、ずっと荻野のそばにいました。あの日、あのときの自分の姿が重なって、とても愉快でした。あの男の泣く姿、犯人を許さないと言い募るあの男の身勝手さ。あれは私だったんですよ」
 葉山の言葉にうすら寒い物を感じ、私は身震いした。
「十五年前に私が体験した苦しみを、今度は荻野自身が体験している。その姿を見ていると、涙がでるほど嬉しくてねぇ。あの姿、あの顔、ああ、聖子、やっとだ。やっと……。そう思いながら荻野のそばにいました」
 笑っているようにも泣いているように見える男の姿が、酷く歪んだものにも思える。
 私は深呼吸してから頭を下げ、会話を終えた。
「葉山さん、お話を聞かせていただき、感謝しております」
 記者としてこれは本心だ。それは間違いない。
「こちらこそありがとうございます。田所さん、あなたが書く記事を楽しみにしております」
そう言い残して葉山が房に戻っていく。立ち去る後ろ姿をぼうっと見送った。
 ここにはいたくない。とにかく、葉山の近くにいたくない。
 その一心で、刑務所の門を潜り外へ出る。出るなり大きく深呼吸をして頭を振る。
 舗装された道を歩きながら、目に付いた公園に入って誰も座っていないベンチに腰掛けた。
 これまでの経緯、葉山との会話、それらが走馬灯のように頭の中を駆け回っている。
 葉山良一、あの男は――。
「壊れている。壊されたと言うべきか」
 また独り言が出た。
 本来の葉山はどこにでもいる、ごく普通の人間なのだろう。彼が壊れたのは十五年間の事件が原因だ。それは間違いない。
 壊れた末に復讐を望み、そして完成させつつある。
 問題はその復讐の対象だ。そして、その復讐に手を貸せと、私を唆している。
 葉山から聞いた話を元にして二つの事件の関連性を書けば、「良い記事」が完成する。葉山本人から話を聞けたのは、おそらく私だけだろうから、それくらいの自信はある。
 特ダネだ。記者なら喜ぶべきなのかもしれない。だが、書けばどうなるか。
 それを考えるとできなかった。
 事の顛末を知れば、世間は彼を悲劇の復讐者に仕立て上げ、祭り上げる。
 犯人を擁護し、被害者遺族である荻野透を犯罪者として叩く。そうなれば、情状酌量を理由に減刑される事態にもなりかねない。
  言葉を尽くして公平性を維持したつもりでも、世間の大多数にはきっと伝わらない。
 私の書いた記事を、読んだ誰かが言うであろう台詞を想像すると、無性に腹が立ってきた。
「理由があったんだ」
「犯人の気持ちも分かる」
 自分のせいで被害者の命が「代償」として位置づけられる。想像しただけでも耐え難かった。
 書けば、記者としての私を編集部は高く評価するだろう。ひょっとして世間も評価するかもしれない。だが、一個人としての私の良心は死ぬことになる。
 書くか、書かないか。
 私の中ではもう答えは出ていた。
 ただ、葉山は公判で動機を洗いざらいぶちまけている。私が書かなくとも誰かがこの事実を記事にする。憶測を交えて、面白可笑しく誇張して、そして世間の、大衆の社会正義を刺激するのだ。
「同じか」
 葉山の復讐は達成された。
 荻野透から家族を奪うことで復讐を果たし、二つの事件を繋ぐ事実を明かすことで報道における「社会正義」の役割を穢す。そして、その報道を享受し、自分に同情する世間の声を嘲笑う。
 私が書こうが書くまいが、結果は変わらない。書かないという決断も所詮は自己満足、偽善でしかない。
 やるせなかった。記者としての使命と役割、そして私個人の想い。その二つの間で、確実にすり減り無くなったものがある。
「潮時か」
 手帳をポケットに仕舞い、代わりにスマホを取り出し、古い友人に電話をかける。
 数回のコール音の後、軽快な友の声を確認してから私は言った。
「長谷、この前の話だが、あれはまだ有効か?」
 ほどなくして、私は出版社を去った。
 十五年前の事件と「鈴木愛美ちゃん殺人事件」、この二つを繋ぐ記事は公判後、それこそ山のように出回ったが、その中に私が書いたものはない。
 葉山の告白、そして取材で得た資料やメモは部屋のどこかに封印されたまま、もう世に出ることはないだろう。
 葉山良一、懲役十五年、現在も服役中である。
 荻野透は事件後、暫くして仕事を辞めて団地も引き払い、いずこかへ消えた。
 元妻鈴木百合子のその後についても不明だ。どちらも調べるつもりなどない。
「荻野徹は一生かけて償うと言いながら、たったの十五年で綺麗さっぱり忘れていた。挙げ句がやり直す、そればっかりだ。私の妻と娘の命を奪い、私の人生を奪っておいてのうのうと暮らしている。それを目の前に突きつけられて我慢ができなかった。関係のない幼い子の人生を奪った罪は償えるものではありません。愛美ちゃんには心からすまないとそう思っております」
 これは葉山が判決文を読み上げられたときに、裁判で語った内容だ。
 一連の事件はこうして幕を閉じた。
 葉山の言葉、被害者は忘れない。ずっと覚えている。
 それだけが、耳に残って離れなかった。

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