偽善 ⑧
【十二月十六日 工業団地へ】
部屋の中に足を踏み入れた瞬間、澱んだ饐えた臭いが鼻をつく。
床には衣服が散乱し、台所には食べ散らかしたインスタント食品の空と缶ビールの空き缶が山積みにされていた。
公判以降、久し振りに見る荻野の顔は酷くやつれて病人のようだった。
「すいませんね。掃除もやる気がおきなくて散らかってますが、どうぞ」
ぬぼっとした顔のまま私を招き入れた。
部屋の奥に山積みにされた段ボールがある。じっと見ていると、荻野が釈明してきた。
「愛美の遺品です。おもちゃやら服やら、俺、工場を辞めるので、ここも出ないといけない。百合の家に送ろうかと思ってるんですが、百合のヤツ、受けとるのを嫌だとか言い出して困ってるんですよ。この位牌も、このままじゃ行き場がなくなってしまう」
仏壇に置かれた位牌を手に取り寂しそうに呟く。随分と疲れた様子で哀れに思わなくもない。
十五年前の事件について、直接訊ねてみようと思った。
私は佐山弁護士から借り受けた葉山のスクラップブックをテーブルの上に広げて置いた。
「この事件についてですが、お訊きしてもよろしいですか?」
切り出すと、荻野は泣き笑いのような表情をしてから私の向かいに腰を下ろした。
床は足の踏み場もない。小さな三人掛けのダイニングテーブルの上だけが比較的綺麗な場所だ。
「覚えてますよ。この人、聖子さんって言うのか……」
言いながら荻野が被害者の顔写真の載った記事に指を這わせた。
「先に声をかけてきたのは、この人からなんです」
荻野はモノクロの聖子さんの写真を眺めながら当時の様子を語ってくれた。
【聖子真奈美事件について、荻野透の証言より】
「こんな夜遅くにどうしたの?」
腕に真奈美ちゃんを抱いた聖子さんに声をかけられたそうだ。
当時の透の年齢は十四歳、中学生だった。
夜遅くに歩いている少年を見て、親切心から声を掛けたのだろうが、それがまずかった。
「やばいと思いました。安西達とバイク盗んだ帰りだったし、警察を呼ばれたまずい、逃げなきゃってそう思ったんです」
声を掛けられて怖くなり、思わず手を振り上げたら顎に当たって聖子さんが倒れた。
それを見て、安西利一、事件の主犯格とされる十七歳の少年が橋の下に連れてくるように荻野に命じた。
聖子さんを殴ったことについて、荻野は振り返ってこう言った。
「あの人は倒れながら赤ちゃんを庇って、それを見ていたら、なんか腹立ってきて、そしたら安西、ああ、当時つるんでいた俺の先輩です。そいつが言ったんです。連れてこいって言われて逆らえなかった」
真奈美ちゃんを聖子さんから奪い、橋の下につれて行き犯行に及んだと言う。
「殺すとは思ってなかった。抵抗するから安西がムキになって殴り始めた。安西ともうひとり、マサルが女の人を押し倒して……。俺は赤ちゃんを抱いて見張りをしてましたから、あの人がどうなったのかは最後まで見ていないんです」
安西ともうひとりが聖子さんを殴っている間に、荻野は真奈美ちゃんを藪の中に隠した。
「赤ちゃんにあんなの見せられないじゃないですか。安西は凶暴なヤツだし、殺されるかもしれない。そう思ってアイツから見えないところに隠したんです」
ただ見張っていた。何もしていない。
葉山の狂気に火を付けた原因は、このあたりだろう。そんなことを考えてみる。
「藪の中で赤ちゃんが泣いてましたが、だんだんと声が小さくなって聞こえなくなりました。死んだなんて思いませんよ、そんなの。死ぬなんて……。女の人が動かなくなって安西が言ったんです。行くぞって、それでその場を離れました」
荻野には殺したという認識がない。直接手を下していない。言われたからと、そればかりだ。
その数日後、安西達とバイク屋に盗みに入ったところを警察に捕まったそうだ。
当時、荻野は家には帰らず安西の家に転がり込んでいた。命じられるままに盗みに入り、盗んだ品を売りさばいて金を得て、その日暮らしを繰り返していたと言う。
彼が家庭裁判所に送られた時の履歴も、主文は「窃盗その他」だった。
S県で捕まり、母親が住む県の家裁に送られて、そのまま少年刑務所に入る。
葉山の事件と地域が違ったのは、直接手を下していなかったという点と、彼がまだ若く更生の余地があると判断されたためだった。
「鈴木さん、いえ荻野さん、あなたは何度も葉山さんの家に行ってる。葉山さんの家にある仏壇の中には亡くなった奥さんとお子さんの写真があったはずですが、あなたは彼が事件の被害者遺族だとは気づかなかったんですか?」
「相手の顔を俺はちゃんとは見ていない。だから言ってるでしょう。裁判では葉山さんが直接法廷に立つことはないし直接連絡を取ることもない。弁護士を通じて手紙を送って、それで終わりです。葉山さんの顔なんて知るはずがない。むしろ俺が聞きたい。なんで俺がこの事件の犯人だって知ったのか、どうやって気づいたのか、知った上で愛美に近づいたのか、そう思うと……。あの人を許せない。愛美は関係ないじゃないですか」
笑い、泣きながら荻野は捲し立てる。
なぜ葉山が、五年前に引っ越してきた鈴木透を、当時の犯人のひとりだと知り得たのか、これについては明確な答えは出ていない。
荻野徹、当時十四歳。犯行時は、中学二年生の未成年だった。
彼は母子家庭で経済的にも環境的にも決して恵まれた子どもではなかった。
小学校高学年になる頃には不登校になり、近所の札付き達とつるむようになる。あとはお決まりの転落コースだ。中学に上がる頃には、れっきとした非行少年の烙印も押されていた。
万引きカツアゲは勿論、乱闘騒ぎも何度も起こす。母親との関係も次第に悪化して家出を繰り返し、夜の街を彷徨っている時に安西利一に拾われたそうだ。
「反省してるかって? そりゃしてますよ。あの事件のせいで母親に家を追い出されたんですよ。百合子と出会って、子どもも生まれてやっとやり直せると思ったのに、それなのに……。何で愛美なんだ。なんで、あの子を……」
ダイニングテーブルに突っ伏し泣く。荻野透の言葉に寒々しいものを感じ、絶句してしまった。
「被害者の顔も名前も憶えていない。泣く赤ん坊がうるさくて、藪の中に投げ捨てただけで殺してはいない」
荻野の言葉を頭の中で反芻しつつ、小さな仏壇の中で笑っている愛美ちゃんの写真を見詰める。
被害に遭ったのはどちらも小さな子どもだ。共通点はどちらも何の罪もない幼い子どもとひとりの母親が命を落とした。残る事実はそれだけだ。
「愛美ちゃんのことは心からお悔やみ申し上げます」
荻野から顔を背け、仏壇の中の幼い子どもに向かって手を合わせて黙とうする。
葉山は犯人について調べていた。
探偵を雇い、犯人の顔写真を手に入れて――。
どの時点で荻野徹が鈴木透であると気づき、確証を得たのか?
どうして犯人である荻野ではなく愛美ちゃんを手に掛けようと思ったのか?
全ての疑問は解消されていない。
「鈴木百合子に、会いに行こう」
団地を出て誰に確認するわけでもなく私は呟く。鞄の中には佐山弁護士から借り受けたスクラップブック、それと、キャバクラのピンクの名刺がひとつ入っていた。
茶髪に茶色いカラコン、目元をマスカラで塗りたくり派手に着飾った女の写真を眺めつつ歩き出す。
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