偽善 ④
【被害者の父、鈴木透】
同じ外観の建物が並ぶ一角、細い道路の片隅に小さな公園があって、ブランコと滑り台がある。小さな子どもが砂場にいて、それを見守る母親らしき人がいる。
その公園を横切り、ゴシック体のアラビア数字で二十五と書かれた棟の前で足を止めて中の階段を上がる。鈴木さん一家は四階の端に住んでいる。
すぐ下、三階の端に葉山の自宅がある。
呼び鈴を鳴らす。間を置いて鉄製の重いドアが開く。
出てきたのは目の下に隈を貼り付けた鈴木氏だ。
「早く入ってください。人目に付くと困るんで……」
声は小さく聞き取りにくい。深々と頭を下げてから中へと入る。
閑散とした室内に奥さんらしき人の姿は見当たらない。居間の片隅に仏壇があり、愛美ちゃんの写真が飾られていた。
白い花とうさぎのぬいぐるみ、それにピンクのランドセルが仏壇の隣に並んで置かれている。愛美ちゃんは、来年小学校に上がる予定だった。
「夏のボーナスでランドセルを買って隠してたんですよ。もう使い道もないので飾ってあります」
私の視線に気づき、鈴木氏が教えてくれる。
口調も、表情も、酷く無機質で淡白なものだ。私は返す言葉が見つからず「そうですか」とだけ相槌を打った。
写真の中の愛美ちゃんはニコニコ笑って手を振っている。余計にそれが痛々しい。
「百合子のヤツ、耐えられないって言って出て行きました。今は俺ひとりっきりですよ」
テーブルの上に湯気の立つ茶を置きながら鈴木氏が小声で喋り出した。
被害者遺族である彼が、どうして私のインタビューに応じたのか、理解できる気がした。要するに話し相手が欲しいのだろう。
愛美ちゃんの葬式以降、鈴木氏は会社も休みがちで引き籠もっていると聞く。
家に籠もって、事件の情報を集めているのだろう。その証拠に、散らかった部屋の隅には新聞と週刊誌が積まれていた。
被害者遺族は、事件の報道を無視することはできない。何度も見てきた光景だ。
報道が過熱すればするほど被害者の情報が流布される。団地には連日報道陣が詰めかけ人だかりができる。そんな生活に耐えられずに妻は家を去ったと言う。
「ごめんなさい、もう耐えられない」
止めることができなかったと、彼は言う。数日前の話だ。
鈴木氏の胸中を思うと、流石に無遠慮な質問は躊躇われた。
「犯人、葉山と鈴木さんは親しかったそうですね」
「ええ、お世話になりました。俺は愛美が生まれてすぐに奈良からこっちに引っ越してきて、慣れない土地だし知り合いもいないで、昔は結構荒れてて、百合にも苦労させましたから」
鈴木氏は、終始俯きがちだった。お悔やみの言葉を述べ、質問事項を確認していると、訊かなくとも勝手に喋り出す。
吐き出す相手が欲しいのだろうと思った。ならば、気が済むまで相手をするだけだ。
「テレビが言うようなことが理由なら、愛美は……そう思うと夜も寝られない。そんな男を信用して娘を任せていたのかと思うと、自分が許せません」
テレビで言うようなことは、いたずら目的とか変質者とかそういう類いの邪推だ。ただ警察はその可能性は低いと公式に発表している。
「性的な動機というのは可能性として非常に低い。動機として現時点ではっきりしているのはご近所トラブル、被害者の家と何らかのトラブルがあったのではないかと思われる」
最後に行った会見で警察はそう説明したが、性的な動機について、はっきりとは否定しなかった。
そのせいか葉山は変質者だったのではないかとの憶測が流れ続けている。
記者会見があったのは一週間ほど前、葉山が送検された時だが、この時点で動機が不明だったのではないかと思う。だから警察としてはそう言うしかなかったのだろう。
「負担だったんなら、そう言ってくれたらよかったのに、愛美を殺す必要はないでしょう」
鈴木氏が涙をにじませながら想いを吐露する。
「鈴木さん、今回のことは、私も残念でなりません。何故、愛美ちゃんが……。そう思うとやりきれません。葉山を憎く思うのは当然だと思います」
これは心からの言葉だ。かわいい盛りの子を亡くす。親であれば何よりの苦痛であろう。鈴木氏は項垂れたままぐすぐすと鼻を啜り始めた。
背広のポケットからティッシュを取り出し、そっと差し出す。鈴木氏は小声で「どうも」と言いながら目尻を拭った。
「やっとだったんですよ。愛美が生まれる前、俺は仕事も住む所もなくて百合とふたりで転々としてて……。昔、警察の世話になったから、そのせいで百合にも散々苦労かけて、漸く……。何で愛美を、葉山さん、何で……俺には信じられない」
涙ながら吐露する顔を、ただ見ているだけだった。
なぜ……。
その問いに答えられるのは葉山だけなのだ。
「鈴木さん、ひとつ、お伺いしてもよろしいでしょうか?」
泣くだけ泣いて、幾分落ち着きを取り戻した父親に質問する。鈴木氏は鼻を啜りながらも首を縦に振った。
「愛美ちゃんは夜、葉山の家に居ることが多かったと聞きます。どうして幼い子を赤の他人に、しかも独り身の男性に預けたのか、差し支えなければ理由をお聞かせ頂いてもよろしいでしょうか」
この質問は早すぎたようだ。
「愛美が死んだのは、俺のせいだと、俺達夫婦のせいだって、あんたもそう言うのか?」
鈴木氏が顔を上げて、ドスの利いた声で言った。
淀んだ目と表情からあまり素行の良くない人物なのではないかと、そんなことを推測してみる。
声も表情も人を脅し慣れた人間のように、私には見えた。
「いいえ。愛美ちゃんを手に掛けたのは葉山です。断じてご夫婦の責任ではない。鈴木さん、あんたもと言いましたが、そんな酷いことを他の誰が言ったのですか?」
「団地の連中、それに工場の人達、みんな言ってますよ。あんたも近所の人からもう聞いて知っているでしょう?」
否定はできない。確かに聞いている。
私が「それはその」と返事を濁していると、鈴木氏は喋り出した。
「こっちに来て五年、百合はこの土地に慣れてなくて、周りから浮いていた。こんな田舎じゃロクな気晴らしもできないし仕事もない。そのせいか、アイツは愛美が三歳くらいになると、近くのスナックで働きだしたんですよ」
「止めなかったんですか?」
「止めても聞くようならこんなことにはなってない。他の仕事にしてくれ、夜は家に居てくれ、何度言ってもアイツは聞かなかった。愛美が死んだのは俺のせいじゃない」
百合子夫人が家を出て行った理由を私はなんとなくだが、察することができた。
連日この調子では堪ったものではない。
子はかすがいとはよく言ったものだ。かすがいを無くした夫婦は脆い、簡単に関係が崩壊する。百合子夫人がここに戻ることはもうないだろうと、そんな感想をこの時抱いていた。
鈴木氏はこれまでの想いを吐き出すように葉山を詰り、如何に自分が不遇であるかを訴える。
「悪いのは葉山さんだ。負担だったんならそう言ってくれたら良かったんだ。いい人だと思ったのに、裏切られた。愛美が可哀想だ」
一言一句、正確に聞き取るのは仕事上仕方ないとはいえ、正直耳を塞ぎたくなる内容だった。
「なんでこんなことに、どうして……。この手で殺してやりたい」
鈴木氏の言い分は自己弁護だが、彼を責めるのは筋違いだ。
彼は被害者だ。愛する家族を奪われ、生活を奪われた被害者。
――なんで自分がこんな目に……。
その理由を突き止めても救われはしない。それでも求めるのが人のサガだ。
「鈴木さん、ひとつ、お伺いしてもよろしいでしょうか?」
鈴木氏は鼻を啜りながらも首を縦に振った。
「警察沙汰って、何をやったんですか? 差し支えなければ教えていただけませんか?」
私の質問に一瞬顔を上げたが、すぐにそっぽを向き、苛立った様子で答えた。
「そんなの関係ないでしょう。俺は被害者なんだ。なのに、周りはよく知りもしないで俺や百合を悪者にしようとする。五歳の子を夜ひとりにするのは虐待だとか、葉山が小児性愛者で愛美は日常的に悪戯されていたとか、今度は俺の過去まで、もう帰ってくれ。あんたは話の通じる人かと思ったが結局一緒だ」
彼は捲し立てながら私を追い出した。
頭を下げつつ、逃げるように鈴木家をあとにする。
溜め息を吐きつつ舗装された歩道を歩く。
団地を出て、近くのコンビニに入り、冷たい水と煙草を一箱購入した。
店の外にある備え付けの灰皿の前で、煙草をくわえて火を付ける。
「あー、失敗した」
呟き、頭をかいて煙を吐く。
「佐藤さんとこに、もっかい行くかなあ。あんま、これに掛かりきりになると、まぁた編集長にどやされるかなぁ」
独り言を言いながら会社に戻る。
鈴木透、我が子を亡くしたばかりの父親に配慮を欠いていたと自分でも思う。
「禁煙失敗か、あーくそ」
独り言を言いながら歩き続ける。
スマホを取り出し、電話をかけた。
「あ、佐藤さん」
「まぁたですかぁ。田所さん、頑張るねぇ」
スマホの向こうから、間延びした声が返ってきた。
随分と嫌そうな顔をしているのだろうと思うと吹き出しそうになった。
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