僕は3月の終わり、桜が散るか散らないか日程を定めている季節に僕は建物から体を放り投げた。理由は単純だった。生きるのが辛いから。
原因はわからない。仕事かも知れないし、家庭だったのかも知れない。仕事の昼休み、食堂にて味のしないご飯を食べていると、次第にシャツを小さな水滴が濡らしていることに気がついた。それは涙だった。周囲の人も驚いていたが、自身が一番驚いた。なんで泣いているのかわからなかった。何が辛いのかもわからなかった。その場から逃げるように出て、トイレの個室にこもり、涙が収まるまで待った。涙は収まるどころか、勢いを増して溢れ出た。涙がやっと止まったかと思うと視界が急激に狭くなるのを感じた。脳内では“ああ、死のう”とこの時すでに誓っていた。
会社の屋上に行き、ズボンをの中で震える携帯を無視しながら柵の向こう側へと足をかける。その時の突風に体を揺さぶられそのまま下に咲く桜の木に向かって落ちていった。
その後、目を覚ました自分に驚いた。どれだけ経ったのかも、果たしてここが現実なのかもわからないが、確かに目を覚ました。実体はないが、確かに体が存在している感覚。風も感じる。それに揺られる桜のざわめく音も聞こえる。そしてその風景を目の当たりにしている。だいぶ戸惑った。なにせ死んだと思ったのに再び同じ景色に出くわしたから。ただ呆然とその場に立っていた。動けることがわかった頃には、日は既に傾いていた。
どこに行こうとも思えずトボトボと彷徨っていた。すれ違う人には気づかれないが、犬には出くわす度に吠えられた。まるでここにはお前の居場所はないと言っているかのように吠えられた。行くあてもなくただひたすら足元をみながら目の前に広がる道を歩いていく。疲れもしないし、空腹感も感じない。ただ、歩いている。それだけだった。
幾ばくかの時間が経った後、道は途絶えてそこには生前住んでいた家があった。あかりは付いておらず、ポストはガムテープで塞がれている。生活感がなかった。既に空き家だったと気づくのにあまり時間はかからなかった。この時、空っぽだった心に再び喜怒哀楽どれともつかない感情が満たされていった。自分が生きていた証が消えていることに、共に住んでいた家族がそこにいないことに、まざまざと蘇る思い出に胸が苦しくなった。思わず胸を押さえたが、それは感覚的にでしかなかった。
あの日から一年。自分の生きていた証を見つけるために所縁のある場所を訪ねまわった。家の前で胸が締め付けられた後、落ち着きを取り戻したら、最初に歩いてきた道を戻った。今度は、まっすぐと前を見据えながら。
自殺した日、いや、その前からずっと苦しかったことは覚えている。仕事業務の割り振りが極端に多かったこと、同僚との軋轢、そして自殺する三週間前の同期の昇進。自分の方が上から与えられた雑務をこなしつつメインのワークも疎かにはしておらず貢献度も高いはずだったのに、毎週金曜日の飲み会を生きがいにしているような奴に負けたことが悔しかった。仕事中も事あるごとにタバコ休憩といいながら席を立ち他の社員と話していた。そんな奴に負けたことが、負けた自分が情けなかった。自分なりに真剣に向き合ってきた仕事が評価されなかったことに激しい自己嫌悪を覚えた。その日、家に帰ると待ってくれていた妻にひどく当たってしまったことも覚えている。その日からあいだに少しの溝ができてしまっていた。その溝を修復できないまま、悶々としながら仕事に行き、自分の仕事のできなさむしゃくしゃし、また帰る。そんな日々が続いていた。最初は顔色を伺っていてくれた妻も次第に淡々と接するようになっていった。彼女に顔色を伺わせてしまったこと、そして、謝ることができなかった自分の情けなさに苛まされていた。彼女のことは、好きだった。出会った頃から変わらず好きだった。しかし、一緒に住んでからというもの、朝にはギリギリに起き、作ってくれた朝ごはんを礼も言わずに食べて家を出ていく。帰ってきても、そのまま溜めていてくれたお風呂に浸かり、テレビを見ながら用意してくれたご飯を食べる。いつからそんな風に接するようになったのだろう。本当は感謝もしているのに、言葉にするのが段々と億劫に感じていき、終いには“今更言っても”と気恥ずかしく感じるようになり言えなくなった。最後の日もそう、素っ気なく”いってきます“とこぼしてそのまま帰らなかった。妻はどのように思っているのだろう。夫の死を、そしてどう思っていたのだろう。夫のことを。
考えているうちに会社の入り口にまで戻ってきた。25階建のビルを下から仰ぐと、まだいくつかの照明が点いていた。その中に以前働いていた部署もあった。入り口を通過する。不思議な感覚ではあるけれど言葉の通り通過した。もちろん自動ドアは開いてない。ドアとぶつかる感覚はなかった。エレベーターに乗ってみたものの、ボタンが作動してくれないので、階段で部署へ向かった。以前働いていた部署へ。
部署の前に立つと馴染み深い感覚に包まれた。ドアを通り過ぎる。カタカタとキーボードを鳴らしている方を見た。そこには覚えのない人が残業していた。名札を見てもピンとこない。おそらく新しい社員だろうか。風貌は若々しいが、疲れがどっぷりと溜まっているように見える。彼は大丈夫か。とふと気になった。生前の自分を客観的に見たらこんな感じだったのかと思った。日中は雑務に追われ、定時まじかにやっとメインのタスクに取り掛かる。今思えばおかしかったし、なぜ断れなかったのかもわからなかった。これが昇進につながると思っていた。しかし、どれだけ仕事をしようと昇進には響かないということを知った。いや、おそらく頑張る方向を間違えていたのだと思う。同僚のあいつは効率的に仕事をこなしていただけだ。だから昇進できたのだ。と死んだ今になって、当時の状況を冷静に見つめ直せた。今になってだが。
新入社員から目をそらすと歪な机配置が目に付いた。違和感が働き始めてからしばらくして気がついた。自分の机があった場所だけがポツンと空いていた。生前の痕跡を探しにきたが、こんな形で残っているとは思っていなかった。新入社員の彼は何故あそこが空白なのか知る由も無いだろう。若しくはコソコソと語られているのだろうか。どちらにしろ、嬉しいものではなかった。
会社を複雑な気持ちで去る途中も、次に向かう場所を決めかねていた。既に辺りは暗く、改めて入り口からビルを見ると、まばらについていた明かりもほぼ消えていた。どこか向かうにしても、行くあてがなかった。妻と住んでいた家も今は空き家で彼女がどこに住んでいるのかもわからない。考えながらふらふらと夜の道へ消えて行った。
妻と結婚する前によく通っていた公園をふと見つけたので、懐かしくなりそこのベンチへ腰をかけた。日は再び昇り、沈みを繰り返していた、空腹感も眠気も体が痺れることもない。時間だけが淡々と過ぎていった。会社を去ってから、動かずじっと座っていた。再び妻が現れることを期待しながら。その期待は実るかどうかもわからないのに。
幾日が過ぎただろうか、見慣れた景色を思い出と重ねることもしなくなった。ただ、惰性というか、動かなかった。
何故、僕はこうして未だ現実に囚われているのだろうか。抜け出したくて、終わりにしたくて投げ打った身なのに未だこの世界に取り残されている。何故なんだ。実体を持たずして存在するということが起こりえるのか。ただの傍観者として、リタイヤ席から眺めているようだ。干渉することは許されない。ただ起こっている事象を眺めることしかできない。小さな子供が目の前でボールを拾う。自身の手の何倍も大きいボールを、手のひらと腕全体で嬉しそうに持ち上げる。キャッキャとはしゃぎながらたどたどしい走り方でお母さんの元へ駆け寄る。今にも転びそうな子供を支えようと両手を伸ばす母親を見た。桜。桜なのか。僕と暮らしていた頃と何も変わらない、あの時の妻だった。その横には…知らない男が立っていた。おそらく再婚したのだろう。あの女の子が三歳くらいだとして、僕が死んでから、一年ではなく、もっとたくさんの時間は過ぎていたようだ。それでも外見が変わらない桜に惚れ惚れとしてしまった。彼女からは既に僕が生きていた頃の痕跡は感じれなかった。
「星良!」
聞き覚えのある声で桜が女の子に声をかけた。無事にお母さんの両手に包まれた星良ちゃんは顔をくしゃくしゃにしながら笑っていた。旦那さんも目尻を下げて幸せそうに二人を見つめる。暖かい家庭がそこには出来上がっていた。自分と桜との間にあった関係は微塵も残っていなかった。そこに悲しみも覚えたが、なんだか安心できて自分自身も暖かくなっていくような気がしてきた。次第にその感覚がさらに増していき、空気と同化していくように思われた。さわやかな風がきたる夏に席を譲るように、僕を連れて去っていった。白い光に包まれながら体の感覚が徐々に途切れていく。これで遂に終わるのかと思いながら、綺麗な桜の花を見つめてた。桜…。幸せでよかった。よかった。
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