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脈絡のない一連のあれこれ。
こんばんは。段々と肌寒くなっていく毎日ですが、お身体に変わりはないですか?季節の変わり目には体調崩しやすいのでお気をつけて。
ここ最近のnoteはとても落ち着いた心で、前向きな気持ちで書くことができていた。これは自分の中では大きな変化であって、これまで消化不良を起こした感情の埋立地であった文章が僕にとって表現の場として生まれ変わったのだ。もちろん今も昔も表現の場ではあるのだけれど、根底にある動機が全くもって異なっている。
さておいて、今日、みんなに聞いてほしいのは、僕のこと。
いつも“僕のこと”ではあるんだけど、今回は“僕の人生のこと”
今フリーターとしてギリギリの状態で生きている。貯金なんてできず生活防衛費もない。いま大怪我とか大病を患ったら僕は生きながらえても生きていけない。彼女がいて、家賃とか固定費を折半しているから薄給でもなんとかなっている。
ただ、お金がないと諦めないといけないものが増えてくるのも事実だ。ほしい物リストなんて一生解消されないし、友人との遊びを心苦しくも断る必要が出てくる。先ほども言った通り生活だってギリギリだ。
じゃあなんで今の状況に甘んじているのか。行動を起こさないのか。フリーターなんてものは社会的立場も信用も低いしハードモードじゃないか。
まったくもってその通り。心から同意します。歳を取るにつれて出ていくお金が増えていく一方で入ってくるお金は一向に増えない。そんな生活嫌に決まっている。
昔は大義名分があった。今はどうだろう。この生活を続けていくと腹を括った時と同じ熱量で夢を追いかけられているのか。そんなことはない。軸はブレにブレて所在地は既にわからなくなっている。周りと同じ熱量で人生に向き合えていないなと痛感して置いていかれた気持ちになる。
ここ最近で人生の満足度、充足度を上げるには信念が必要だということを悟った。それがなんだっていい。つまるところ生きる目標が定まっていればそれでいい。
改めて考えてみると僕の生きる目標は“死ぬこと“だ。
自分の納得のいく死に方をしたい。突然に襲ってくる死に対して納得もクソもないまま間髪入れずに幕が下ろされるのだと思うのだけど、度々今死んだらどうか、と自問している。そして答えは”悪くない”だ。
今死んだとして後悔はそれはそれは数えきれないほど残る。何も為せずまま朽ちていくなんて嫌だ。
かといって今の生活が苦しいかと言われるとそうでもない。むしろ楽しい。一緒に時間を過ごしてくれる人たちが居て、自己表現の手段もあって、したいことリストにだって終わりは見えない。充実している。本当にみんなありがとう。
死にたいわけではない。いつでも死ねる状態でありたいのだ。そしてそのために死んでもいいと思える激情を日々求めている。それを手に入れるには“好きを集める”しかない。欲張って欲張って欲張っていくしかない。
大変拗らせてしまった僕は、どこかで道を踏み外してしまった僕は、臆することなく前へ前へ進んでいこうと思う。それが社会からすれば失敗でも、僕の人生からすればただ唯一の正解なのだから。信じた道こそが自身の生きる道だ。野垂れ死ぬとしてもそれはそれで本望だ。この考え方自体が若いのかもしれない。いや、若いと思う。しのごの言えずになってから大きな後悔が襲ってくるかもしれない。その時はその時だ。弾け飛ぶような感情を文字に乗せて、僕が生きた証としてこの世界に刻んでやろう。なんだかんだ成功するかもしれない。そうしたらそうしたで、今度は“運が良かった”などと適当なことを言って、当てにならないロールモデルとして彷徨う若者の手本となろう。
いいかい、こんな大人にはなるなよ、と。
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