思いつきで書いた小説。
書きたいラストではなくて気力がなくなる前に書き終わらせようとしてなんとも中途半端。それでもやっぱり初めて成し遂げたもの。嬉しさはある。よければ読んでやってください。
九月二五日金曜日。四時間目。気づけば夏は過ぎ去って制服だけでは肌寒く感じる頃、私は興味のない植物の構造について耳を傾けるよりも外の色づき始めた木を観る方が楽しかった。
風が木々を揺らす。もうそろそろ秋がくる。
消しカスが飛んできた。最初は無視をしようと思い反応せずに窓の外を見ていた。するともう一発。消しカスが飛んできた。さすがに腹が立ち、消しカスが飛んできた方向に視線を向けると頬杖をつきながら不自然に顔をそらす優香がいた。
優香は私の小さい頃から一緒に遊んでいて、幼稚園、小学校、中学校そして高校と同じ学校に通っている。いわゆる幼馴染だ。しかし私と優香の性格は全くもって違っていた。
私は内向的で人との関わりには関心が薄い。それをよく、物静かで大人しい子と人に言われる。何故、タマネギの薄皮みたいに表面的にしか私のことを知らない人が、私がどんな人間であるのかわかるというのだろうか。
一度こういうことを優香に話したところ、
「いいんじゃない。表面的にしか知らなくても。人の中身を知るには時間もかかるし努力も必要だからね。そうでしょ?表面的になっちゃうんだよ。もちろん私は君のこと深くまで理解しているつもりだよ?」といって優香は私の顔を覗きながら笑った。私もつられて笑った。
「麻理から見て私はどう見えてるの?」
「優香は明るくて活動的で悩みなんてなさそう。」
「別に明るくなんてないよ〜。悩みもあるし。それこそ表面的なんじゃない?」
優香は口を尖らせながら空を見上げた。
私も視線を上に移すと綺麗に一筋の飛行機雲が伸びていた。
優香は外向的で、友達が多かった。色んなところで出会った人とすぐに仲良くなる。優香と仲がいいおかげで私にもそれなりに友達がいた。しかし優香を通じて知り合った友達とは、主役の優香が居なくなると舞台照明が切られたように場は静かになり、さっきは冗談まで言い合っていたはずなのに急にぎこちなく、よそよそしくなる。優香が居ない状況は私達を押しつぶそうとしてくる。みんながみんな頼れる柱をなくし、ただただ気まずい雰囲気が流れる。おもむろに携帯を取り出し、特に新着のメッセージが届いているわけでもないのに確認し、何があるわけでもないが携帯で撮った写真を見る。一人の世界に潜り込むのだ。優香が帰ってくると各々が携帯をしまって会話が自然と弾み始める。
そんな優香のそばにいると、なぜ優香は私と仲良くしてくれるのか不思議になる。他にもたくさん友達はいるのに。と
ある日、優香に話すと
「そんなことわからないよ。思ってるより複雑なんだから。だってさ、友達のことわざわざ値踏みしたりしないでしょ? あっ、この人はこういうことができるんだ。仲良くしよう。おっ、この人はこういうところがあるのか。友達になろう。なんてわざわざ考えないでしょ?仲良くしようとしてなったわけじゃなくて自然と仲良くなったんだよ。それに私は麻理が傍にいてくれると安心できるんだ。」
といって優香は私の顔を覗きながら笑った。
よくわからなかったが私もつられて笑った。
いつもこの笑顔に助けられていたのだ。
単調なチャイムの音が授業の終わりを告げて昼休みが来た。クラスのみんなはがやがやし始め男子が何人か必死な顔して食堂へと走っていく。その後ろ姿を見ていると視界の端に優香が入ってきた。
優香はいつも牛乳とどこにでも売っているような菓子パンをお昼ご飯に食べていた。今日はあんぱんだった。
「気になる男子でもできたのかい?麻理さんも隅に置けないなぁ〜。」
優香が茶化してくる。
「そんなんじゃないよ。けどあんなに毎日必死になって疲れないのかなって思って。」
「あれも青春の一つなんだって。本人たちは楽しいんだよ。たぶんね。それにここの食堂メニュー、値段の割になかなか美味しいらしいよ。」
「そうなんだ。優香は食べたことあるの?」
「ないけどね。友達が言うには昼休み始まって十分後にはほとんど売り切れ状態なんだって。まぁ、私にはこの牛乳とパンがあれば充分だよ。」
私は優香の栄養バランスが心配になった。
「大丈夫だよ?家ではしっかり食べてるし、好き嫌いもないし。」
驚いて顔を上げた。
「何も言ってないけど。」
「私のこと心配してくれてたんじゃないの?」
私をからかうように聞いてきた。
「なんでわかるの?」
私はすこしムッとしながらも優香に尋ねた
「内緒。」
優香は微笑みながらあんぱんを食べ始めた。
私もお弁当のウインナーを口に運んだ。
二人とも食事を終えた後は何を話すでもなく私は次のテストに向けて勉強を、優香はその横で携帯をいじる。
いつもと同じ日常。この雰囲気が私には心地よかった。
昼休みも終わり五時間目は源氏物語を、六時間目は中国史についての授業を受け今日の学校は終わった。帰りの準備をしていると優香が私の席までやってきて
「ごめん。今日は用事があるから先に帰っておいて!」
と告げて足早に去っていった。
私は鞄を背負い教室を後にして駐輪場に向かった。
学校から私の家までは自転車でおよそ十五分くらいかかる。いつもは優香と帰っているが、たまに一人で帰ることがある。
家に帰宅すると私は第一にシャワーを浴びて服を着替え、自分の部屋へと上がり布団の上で読みかけの小説を手に取り時間を忘れて読み耽る。こうして私はおよそ現実では起こりえない出来事を主人公を介して擬似体験する。ある時は余命宣告されて残り少ない命を懸命に生き、ある時は殺人事件に巻き込まれ些細なことから犯人を見つけだし、またある時には狂うほどに好きな人と愛し抱きしめ合う。
今回の旅も終わり現実へと意識を引きずり出されると、すっかり日は落ちて階下からは美味しそうなカレーの香りが漂ってきた。そして思い出す。今日は金曜日だと。
私の家では毎週金曜日に、決まってカレーを食べる。きっかけはテレビで日本の海上自衛隊は毎週金曜日にカレーを食べるというのを見た父が
「この家もこれからそうしよう。」
と面白半分に提案し母もそれに賛成した。それから毎週金曜日はカレーである。
ご飯を食べ終わり食器を片付けていると母に明日の予定を聞かれたので、私は図書館に行くと伝えた。部屋へと戻り、聞き流していた今日の授業を復習する。今では日課となったこの作業のおかげで苦手な教科もなく全教科それなりに良い点をとれている。
優香は学業に勤しむより体を動かすほうが好きなようで成績はよろしくはない。
こういう時にふと私達は本当に正反対なのだなと思う。磁石みたいだ。
復習もおわり電気を消して布団に入る。目を閉じると、今日見た景色。優香との会話。数年前の出来事。小説の内容。色々なことが頭の中を支配しようと躍起になって浮かび上がってくる。戦いに勝ち、頭の中を支配したのはさっき読んだ小説の話だった。
産まれたときから側にいた愛犬がやがて寿命によって命を引き取り、胸に大きな空虚が出来てしまった主人公の話。最後には立ち直りまた一歩ずつ人生を歩んで行くのだが、立ち直るまでの過程にある苦悩や哀しみがとても細かく表現されていて私も胸を締め付けられた。
私にとっての愛犬のような存在。誰に尋ねられるわけでもなく私は優香だろうと答えた。
優香を失うつらさを想像しようとしてみたが一切できない。二、三度行いそれでも無理だったので諦めて別のことを考えた。
気づけば寝ていたみたいで目を覚ましカーテンを開けると空は青く雲は白く、景色がくっきりとしていた。いい天気だ。
壁の時計を見て、今が午前七時だと知り、階段を降りて顔を洗って歯を磨き、リビングに入る。父はすでにスーツ姿に着替えていてネクタイを締めながらニュース番組を見ていた。母はキッチンで何か炒めている様子だ。私が挨拶をすると二人は目線をこちらへと向けて笑顔で返事をしてくれた。タイミング良く朝ごはんもできて、たわいない会話をしながら食べた。食べ終わると父は席を立ち玄関へ向かう。母もお弁当を渡して父を送り出すためについて行く。私は父に行ってらっしゃいと言い自分の支度のために部屋へと戻った。
違う世界に旅に出かけるにはそれなりに出費がかさむ。昔は読むのに時間がかかったので、そこまで本を新しく買う必要もなかったが今では一つの旅が一日で終わってしまう。そうなるといちいち買ってもいられない。なので週に二日、水曜日と土曜日に駅の近くの図書館へと異世界へのパスポートを借りに行くのが習慣になっている。
午前八時には家を出て十分ほど歩くと駅に着いた。ホームは高いところにあるので、電車を待つ間にいつも何気なく生活している町を見ていた。残念ながら自宅は住宅街に紛れて見ることができないが、学校の運動場は見ることができた。どうやらサッカー部が集団でジョギングをしているようだ。数分ほど運動場を眺めながら徒然と考え事をしていると駅のアナウンスが流れて目の前を急行電車が風を連れて通過していく。熱気を含んだ風が日に日にその熱を失い、今度は冷気を帯びていく。
秋が来た。
自宅の最寄り駅から四駅ほど離れた市内の中心地へ着き、改札をでて、駅構内直通の図書館へと向かった。ここ数年は余程のことがない限り通っているので、受付の人とも世間話を交わすほどに仲良くなっていた。今日の受付の女性とも雑談をする仲だった。短髪で顔がもとから整っているからか化粧も控えめで上品でかつ嫌みのない素敵な人だった。
表紙に惹かれたもの、タイトルに惹かれたもの、前から目星を付けていたものを一つずつ手にとっては戻し、手にとっては戻しを繰り返して時間をかけて借りる本を次第に決めていった。選び抜かれた四冊を手に取り受付に持って行って手続きを済ませる。受付の女性と軽く話をして図書館を出る。時刻は十時。
家に着いたのはお昼前で、母はすでにキッチンに立っていた。私は母に挨拶をした後に手を洗いお昼ご飯の準備を手伝った。お昼ご飯も食べ終わり自分の部屋へとあがり、携帯電話を見ると優香から着信があった。一時間前のものだった。私はもう遅いかと思いつつも電話をかける。三コール目で優香は電話に出た。
「もしもし、ごめん。全く気付かなかった。」
「麻理のことだから、あんまり期待はしてなかったよ。今日は土曜日だから図書館にでも行ってたんでしょ。」
自宅にいるのだろうか。後ろではテレビからの笑い声が聞こえる。
「正解。携帯を持ち歩くの忘れてた。」
「それってもう携帯の意味を為しえてないよ。ただの電話だよ。」
「以後気を付けます。それで要件は?もう遅いかな。」
「いや、今日の夜。暇なら花火でもしない?今年の残りを使い切りたいから。」
「たぶん大丈夫だと思う。」
「わかった。また夜に迎えに行くね。」
優香との電話が終わると部屋が驚くほど静かなことに気が付いた。昨日まで命をすり減らして鳴いていた蝉の声が今日はもう聞こえない。自然の中では着実に季節が移り変わっている。
私は借りてきた本の一冊を手に取り第二章まで読み進め、休憩がてらリビングに降りてオレンジジュースを飲むことにした。母は取り込んだ洗濯物を畳みながら情報番組を見ていた。実際のところ、ほぼテレビに釘付けで手は全く動いていない。
私はオレンジジュースを飲み終えてから母に、今夜優香と花火をしに行くと伝えて部屋に戻った。再び小説に手を伸したが、表紙に惹かれて選んだこの本は文体が硬く、なかなか手ごわい相手だった。慣れもあってか次第にページをめくる速さも上がり物語に引き込まれ始めた頃、下から名前を呼ばれた。時間はあっという間に過ぎていて、父も帰宅しているようだった。
リビングに入り、父におかえりと言って夕飯の支度を手伝う。それから食卓についてすき焼きを囲いながら今日あったことを話しあっていた。
ご飯も食べ終わり時計の針は午後八時を指したが、優香からの連絡がない。何か急用でもできたのだろうか。私は自分の部屋に戻り本を読みながら気長に待つことにした。
時間が過ぎていくばかりで、連絡も来ず、連絡を気にするあまりに小説の内容も全く頭に入ってこなかった。この時、自分がどれだけ今夜の約束を楽しみにしていたかが分かった。
結局、午後九時になっても携帯は一向に鳴らず、諦めて何があったのかを月曜日に聞こうと決めて布団にもぐった。
月曜日。優香に会うことはなかった。
朝、学校に着きクラスはやけにがやがやとしていて、私が入ると騒々しさも一瞬にして止み、全員がこちらを見た。よく見ると泣いているクラスメイトもいた。私は状況が掴めずぼうっと突っ立っていた。とりあえず自分の席に向かおうとすると異質なものが視界に飛び込んできた。淡い色をした白い花。優香の席に置いてあったのだ。それを見た瞬間、いろんなことが頭の中を駆け巡り、思考が全く追いつかずいきなり頭の中が真っ白になった。何度か名前を呼ばれてから我に返った。
呼ばれたほうに向くとさっき泣いていたクラスメイトとそれを宥める友達がいた。その子たちがぽつりぽつりと時に咽びながらも話してくれた。
優香は土曜日の夜、交差点で交通事故にあった。信号を待っていたところを、寝不足の運送屋のドライバーがハンドルを切り間違えて歩道に突っ込んだようだ。
なかなか大きい事故だったが、私は今日まで知ることがなかった。話しているクラスメイトの輪郭がぼやける。あっと気づいた時には既に熱を持った二つの線が私の頬をなぞっていく。一度涙がこぼれるともう止める術はなかった。周りがざわつき始めたが、どうしようもできない。既に私では私の体を制御することは不可能だった。
周りの景色が私と距離を置いて次第に離れていく。
気が付くと私は保健室のベッドで横になっていた。どうやら私は泣き始めてから数分後に過呼吸になり保健室に運ばれたらしい。若い女性の先生がずっと手を握っていてくれたらしく右手がとても温かった。目をさまし、先生の話を聞いているうちにまた抑えきれない感情が具現化してあふれ出てきた。涙が枯れるまで泣くというのはおおよそありえないようなことに感じた。決してこの涙は枯れることのないように思えたのだ。喉の奥、胸元あたりにもやもやとしたものが突っかかっていて言葉が何も出ない。
その日は私の心情を先生方も汲んでくれたのか、すんなりと早退させてくれた。家までどうやって帰ったのかは自分でもわからなかった。気づけば自分の部屋で布団の上に座り、ぼうっとしていた。たくさんの感情が濁流のように体外へと放出された後には、体の内には先ほどのもやもやと喪失感のみが残った。
母が部屋のドアをノックする。返事をするべきなのに声が出ない。少しの沈黙の後、母は言葉を選びながら優香の葬式の日程が決まったということを教えてくれた。葬式という言葉を何度も反芻してみたものの意味が理解できなかった。正確に言えば、理解したくなかったのかもしれない。優香と会うことも、話すこともできないということが受け入れられなかった。
私たち二人の間には、長年かけて築いてきた絆みたいなものがあったと思う。それのおかげで私たちは互いに安心し信頼し合っていた。毎日些細なことを連絡し合わなくとも揺るがないものがあった。しかし今となっては、絆という繋がりも過去形になってしまった。
なぜ私はあの日、優香に連絡を取ろうとしなかったのだろう。今更どうにもできないとは分かりつつも、あの時の自分に対して憤りを感じる。今度は自分に対しての苛立ちから涙があふれてきた。反射的に近くの枕に顔をうずめる。枕にじわじわと涙がしみていくのを感じる。そして改めて実感した。私は、大切な、親友である、優香を、優香を失ったのだ。涙は止まることを知らず体は体内の水分を涙に変えて外へと放出した。
私がずっと部屋にこもって同じ景色の中で過ごしていても世界は変わらず動いている。次の日、私は母に連れられて優香の葬式に出席した。
会場に入ると喪服を着た人たちに紛れ私と同じ制服姿の人たちもいた、優香の死について教えてくれた子も出席していた。会場の中央奥には沢山の花と優香の遺影が飾ってあり遺影の下には棺が置いてあった。
あの中に優香がいるとは到底信じられなかった。そのあとは親族への挨拶も済み席へ座って葬式が始まった。
葬儀が行われている時、私の頭の中では優香との思い出が回想されていた。
物心がついた時には隣にいて、これから二人は一緒にいるのだと根拠もなしに考えていた。しかしそれは間違いだった。テレビでも小説の題材でも身近な存在の死というのはたくさん目にするけれど、いつの間にかそれらの出来事が自分とはなんら関わりを持たないものだと、自分の知らない遠い国でのお話だと思っていた。しかし優香は現にこの世を去った。作り話ではなく私の、自分の世界で実際に身近な人が死んだ。
もし神様が私の前に現れて、優香と代わることを提案してくれるなら私は喜んで代わるだろう。優香を失った世界には、私を含め悲しむ人が多すぎる。しかしそのような神様は紙とインクでできた世界の中にしか存在しない。
葬式も終わり出棺されるのを見ると、実は優香が生きているんじゃないかという一縷の希望も消え去った。あの中にいる優香はこれから骨になるのだ。
目の前の壁に直面した。
もうこの先、絶対に優香と会うこともない。話し笑いあうこともできない。超えることは絶対できない壁が私たち二人の間を隔てている。喪失感がさらに大きくなり、再び涙がのせいで世界が滲む。母が私のことを抱き寄せてくれた。母の腕の中はこれまでに無いくらい暖かく安心できた。
葬式の後、家に帰ってから私は服も着替えずそのまま布団の上に横になった。母に夕飯をどうするか聞かれたが返事することはまだできなかった。このまま布団の上で何も食べずに死にゆくことが出来るのなら、それでもいいと思った。再び優香に会えるのならば、と。泣いてばかりいたので体も疲れていたのか、そのまま深く深く眠りについた。
目を覚ますと外が暗い。寝起きのせいか意識が混濁していてどれだけ寝ていたのかわからず、今が朝か夜なのかさえ分からない。やがてしっかりと目をさまし意識もはっきりとしてきたので部屋の時計を見る。午前五時。私は約半日寝ていたことになる。そして昨日の出来事と、優香がこの世にいないということを思い出す。再び心が沈んだ。
悲しみに明け暮れていても喪失感が胸を埋め尽くしていても、喉の渇きを感じるようになった。よくよく考えてみれば、ご飯はおろか水さえも摂っていなかった。久しぶりに部屋のドアを開け廊下に出ると、床がまるで氷のように冷たく感じた。リビングに降りて電気をつける。当たり前だが父も母もいない。このようなことは今まで何度もあったはずだが、今回はとても心細かった。冷蔵庫だけが静かな駆動音を立てる。その冷蔵庫の前に立ち扉を開けてお茶を取り出す。お茶が喉を通過していく。体中に水分がじんわりと吸収されていく。私の体は水分が満たされると今度は食べ物を欲した。後ろの扉が開く。振り向くと母が立っていた。
母は私のお腹の音を聞いていたのか、私を見て微笑んでから台所に立ち料理を始めた。目の前に出されたのは、ネギと竹輪の入った卵雑炊だった。
私は手を合わせて
「いただきます。」
と言った。しかし久しぶりに発せられた声は弱弱しく、踏まれた空き缶のようにぺしゃんこにつぶれていた。
スプーンで掬い口へ運ぶ。口に入れた途端、優しく温かいものが口の中に広がる。喉をすんなりと通りお腹の中から体中を温めてくれるのを感じた。スプーンはその後も私の口とお皿を行き来し五分ちょっとでお皿は空っぽになった。母は何も言わずその様子をずっと優しい表情で見ていた。ふと、母が姿勢を正してこちらを見つめる。
「お腹がすいたならいつでもご飯を作ってあげる。寂しいのならずっと側にいてあげる。私たちはいつでも味方よ。」
私の心を暖めてくれたのは母なのだと分かった。帰りの廊下は行きの時ほど冷えてはいなかった。部屋に戻り布団に入ると、私はすぐに眠りに落ちた。
カーテンの隙間を抜けて朝日が部屋の中を照らす。携帯のアラームが鳴る。午前七時。いつもの起床時間だ。アラームを止めてベッドの上でしばらく座っていた。頭の中にはまだ白い靄がかかっていた。下からは蛇口から水が流れる音、朝のニュース。そして母と父の会話が部屋のドア越しに朝の喧騒として聞こえてきた。いつもと変わらない。ただ、何かが足りない。何が足りないのか、それは明確にわかっていた。優香。優香だ。
私は空っぽの頭のままぼうっとベッドの上に座り、時間が過ぎていくのだけ感じていた。動く気にはなれなかった。無気力なまま壁をいたずらにみつめていた。下から私を呼ぶ声がする。いつもの優しく明るい母の声だ。返事をする。実際に声に出ていたのかはわからない。いつの間にか、母はドアのそばにまできていたらしい。ドアを挟んでもう一度、私の名前を呼んだ。
「麻理。朝ごはん食べる?下で待ってるから来れそうなら来てね。」
「はい。」
「あとね、学校には連絡しといたから今日は家でゆっくりしなさい。」
「ありがとう。」喉から振動が伝わる。ただ、向こう側に伝わったかどうかはわからなかった。母が階段を下りていく。その音を聞きながら私は横になった。白い天井を茫然と見つめていると、優香の顔が天井を背景に思い浮かびあがってくる。思い出されるのは全部笑っている時の顔だった。
優香はいつも笑顔だった。小さいころからずうっとにこにこしていた。小学四年生位のころ、私と優香で教室の花瓶を割ってしまい先生に怒られた時でさえも、優香は笑いながら私に
「大丈夫だよ。」と言って手を握ってくれていた。今思えば、その自信はどこから来たのか不思議だが、幾分心が軽くなったのは事実だった。
明日は学校に行くと決めた。きかっけは優香を忘れてしまうことが怖かったから。もちろん二人の記憶はたくさんあるしそのどれもが鮮明にまるでついさっきの出来事のように思い出すことが出来る。しかしそこで笑っている優香は思い出の中にしか存在しない。この世界に優香が存在していて生きていたということ忘れたくなかった。それを確かめるには学校が適所だと思う。学校は優香の一番好きな場所だったから。
朝起きて、リビングへと降りる。扉を開けると父がネクタイを結んでいた。私に気が付くと父は笑顔で
「おはよう。」
「おはよう。」
と私も返事をすると父はコーヒーを淹れて私に勧めてくれた。台所にいた母もこちらに気づき挨拶を交わす。三人とも食卓に着き朝ごはんを食べ始めた。パンとスクランブルエッグ、そしてアスパラベーコンにレタスとトマトのサラダがあったが、私はサラダだけ食べることにした。
久しぶりに着る制服。久しぶりにはくローファー。そして久しぶりに玄関のドアを開けて出た外は、空は青く前より近くに感じ空気はしんと澄み渡っていた。風が私の皮膚を冷えたナイフで切りつける。冬だ。冬が直ぐそばに来ている。
学校までの道のりにある木々も色鮮やかな葉であしらったドレスを脱ぎ捨てて、来たるべき冬、そして春に向けての準備を始めていた。校門に着くと、生徒に挨拶をしていた私のクラスの担任と目が合う。笑顔でこちらに向かって歩いてきた。
担任の先生は言葉を選びながら、優香のことは触れないように
「元気にしてたか。クラスのみんなもお前のことを心配していたぞ。」など言ってからまた戻っていった。
教室の様子は前と変わらず騒がしかったが、私が扉を開けて中に入ると時が止まったかのように一瞬、静かになった。何人かと目があったがすぐに目線は外された。再び時は動きだし元の騒がしさに戻っていく。
私は動揺していた。クラスの中の皆が皆、笑いあって、ふざけあっているのだ。その中には泣いていたあの子の姿もある。私だけが取り残されていた。何人かが私の元へきて話しかけてきた。私は何も言うことが出来ず、気まずい沈黙の後、彼女らは去っていく。
授業が始まってからも動揺は消えず、場違いなところに私はいるのではないかと感じていた。雰囲気に押しつぶされる。ついに私は耐え切れず、二時間目の途中で手を挙げて保健室へ向かった。
保健室のドアを開けるとあの時の若い女性の先生がいて、私に気づき少し驚いた後に優しく用件を聞いてくれた。気分が悪いというとすぐにベッドに案内してくれて
「何かあったら言ってね。」とだけ言ってまた自分のデスクに戻っていった。
私はベッドの上で横になり目を閉じる。
今まで必要以上に群れている人たちを見て私は不思議に思っていたし、自分は違うのだと優越感に浸ってさえいたのだと思う。でも実際は優香が傍にいてくれたから、私と現実とを繋いでいてくれたから、存分に自分の世界に入り込むことが出来ていたのだ。優香を失った今、私はこの世界に馴染むことが出来ない。これが絶望か。また、ぽろぽろと涙がこぼれてくる。誰かに見られているわけでもないが、見つからないように私は布団の中にもぐりこんで声を抑えて泣く。体を震わせながら唇を噛み、目をぎゅっと閉じて泣く。
真っ暗な布団の中で世界の壁を作ったつもりが、一瞬にして壁が剥がれ落ちて光が差す。目の前には人が立っていた。保健室の先生だった。彼女は私が震えているのに気づき布団を引きはがしたらしい。
目があった瞬間に、彼女が私を抱き寄せる。
「大丈夫だから。ここは大丈夫だから。隠れずに泣いていいわよ。思いっきり泣いていいの。」
彼女が優しい声で教えてくれた。私は彼女の腕の中で声を上げて泣いた。いつ振りだろうこんなに堂々と泣いたのは。
泣き終わるまで彼女は時々頭をなでながら、私のことをずっと抱きしめてくれていた。大方落ち着くと彼女はポケットから花の刺繍が隅に入った水色のハンカチを貸してくれた。私がお礼を言うと
「いいのよ。私はあなたの気持ちなら予想がつくわ。だけど、どうやってもあなたの気持ちはわからないの。それは予想にすぎないの。なぜなら私はあなたではないから。だから私はあなたの気持ちが知りたい。答え合わせがしたいの。それは余計なおせっかいかもしれないけれど。私はあなたの力になりたい。もちろん、立ち向かうのはあなた自身にしかできないけれど。」
彼女は、私の目をまっすぐと見ながら落ち着いた声で話してくれた。最後まで言い終わると彼女はにっこりと私に笑いかけた。
私もつられてぎこちなくだが笑った。
その後、私は保健室の先生、いや、加藤先生と当たり障りない会話をしていた。会話自体は本当にどうでもいいようなことばかりだったが、話していくうちに少しずつ少しずつ、ここ最近ずうっと気を張っていた体がほぐれていくように感じた。
三時間目終了のチャイムを機に加藤先生は私に教室に戻るように促した。
再び体がこわばる。加藤先生はそれを察したのか、私の手に自分の手を重ねて
「大丈夫。ここはいつでもあいているし、ここがあいている限り私もここにいる。今あなたが感じている辛さや恐怖と戦える人はあなた以外に誰もいないの。傷ついたり耐え切れなくなったらここに来なさい。いつでも話を聞いてあげる。でもね、もし自分の敵に立ち向かわずに逃げることを選択すれば、あいつらはこの先ずうっと追いかけてくる。時がどうにかしてくれるなんて嘘よ。表面ではいつか平気な振りができるかもしれない。だけど何かの拍子に、再びあいつらは目の前に現れるの。だから今、戦いましょう。」
そう言い終わると、喋りすぎたわ。と照れながら加藤先生は笑った。そして最後にまた一言
「大丈夫。」と言って私を見送ってくれた。
教室の前で足が固まる。
「大丈夫。」
小さくつぶやいてから扉を開けて一歩踏み出す。右足。左足。交互に足を前に出すだけなのに自分の席に着いた頃には、とてつもない疲労感を感じていた。チャイムが鳴る。四時間目が始まった。
国語の先生が入ってきて、皆が席に着く。授業の内容は私が休む以前からあまり進んではいなかった。先生の話がわき道に逸れだした頃、私はふと、目線を後ろの方に向けた。そこには一つだけ空白の席があった。優香の席だ。私の目にはただただその空白の席がはっきりと映っていた。優香がこの席に座り、授業を受けることも私に向かって消しかすを投げてくることもない。
四時間目の授業が終わり昼休みになる。クラスは再びざわざわとし始めた。クラスの男子が食堂に駆けていく。女子は仲がいいグループに分かれ、机をくっつける。それぞれが友達とふざけあったり話し合っているクラスで、私は孤独だった。今日は牛乳とパンを抱えた優香はいない。この先も。
赤や青、緑などの明るく鮮やかな色たちが重なり合って、混ざり合って白い画用紙を彩る中、私は黒だった。どの色とも混ざり合うことのできない黒い、黒い点だった。
時が経てば傷は癒えると言うけれど、やがて季節が巡り、その時が、優香がこの世を去った日が来るたびに、傷の瘡蓋をはがしていくときはどうすればいいのだろう。優香を失った痛みは和らいでいくのだろうか。それかこの傷は決してふさがることはないのだろうか。いつか優香の死を受け入れて前に進むことが出来るのだろうか。
いきなり低く大きな音が窓の外から聞こえた。意識が現実に戻る。空には、飛行機と共に伸びていく白い飛行機雲。飛行機が轟音と共に見えなくなった後も消えることなくはっきりと残っていた。綺麗な空だった。私はずっと一筋に伸びた白い白い雲を見ていた。
飛行機雲は優香の好きなものの一つだった。飛行機が飛ぶ音が聞こえると優香はすぐに顔を上げて、その姿を探していた。飛行機雲を見つけるとずいぶん嬉しそうな顔で見ていた。
何がそんなにいいのか聞いたことがある。
「青い空に落書きできるのは飛行機雲だけだと思うよ。他にも雲はあるけど、それらは単なる景色だと思う。日常の一部。だけどまっすぐに伸びるあの雲は違う気がするの。大きな入道雲を見たって、たくさんのヒツジ雲を見たって、ふぅ~んて感じで終わるの。でも飛行機雲を見つけると消えるまで目を離したくない。なんでだろうね。よくわからないや。」
優香はとぼけるように笑いながら話してくれた。そしてまた目線を上に戻す。私も目を上にやる。飛行機雲は端の方から少しずつ透けていっていた。
何気ない日常の思い出をすんなり思い出すことが出来て少し安心した。
優香に見せてあげたかった。この綺麗に伸びた白い線を、視界に映りうる空の、端から端まで目一杯に引かれた飛行機雲を。
学校には引き続き通うことにした。たいてい昼休みは保健室で過ごした。窓際に座って本を読む。加藤先生はほかの生徒の相手をしたり、事務作業を行ったりする。今の私にとって落ち着ける場所は、この保健室だった。まだ教室に居場所を見つけることは出来ない。
寒さが一段と増してきたころ、私は一人の少年に出会った。
いつもの昼休み。私はカバンを持って保健室へと向かう。加藤先生は私が来ることを知っているので、基本的には保健室のカギを開けてくれていた。中に入るとそこに彼がいた。目があい、静かな時が流れる。二人とも目をそらさずに互いを見ていた。背後から加藤先生の声が聞こえた途端、私たちを覆っていた不思議な空間は泡のように弾けた。
「そういえば二人とも、会うの初めてだっけ?この子は高橋麻理さん。でこの少年は大木泰助君。彼は最近ここに寄ってお手伝いしてくれているの。でも大体が放課後だから高橋さんとは会わなかったのね。」
加藤先生が互いを紹介し終わった後で大木泰助が口をはさむ。
「自主的にじゃないだろ。おばさんが手伝ってっていうからじゃないか。」
加藤先生が呆気にとられている私に気づき補足する。
「彼はね、私の甥なの。前まで遠くに住んでいたのだけれど、仕事の関係上こっちに引っ越してきたの。それで家の近くの高校がたまたまここだったってわけ。ちょっと強面だけれど仲良くしてやってね。」
再び大木泰助と目が合う。軽く会釈をしてから今度はすぐに目をそらした。
新しい人が増えたって私には関係ない。いつも通りお弁当を食べて本を読む。いま読んでいるのは、小さいころから何度も何度も読み返している本だった。ページの隅がよれている。何度も追ったことのある文字。好きな本は?と訊ねられる度に私は迷いなくこの本の名前を挙げる。それを聞いた人は大抵、意表を突かれたような顔になるが気にしない。私はこの本が好きなのだ。
この本との出会ったのは、優香の家の中だった。小学生中学年の頃、下校中に夕立に会い、優香の家で雨宿りをさせてもらった。雨が止むまですることもなく、優香の部屋をきょろきょろと見回していると、机の上に無造作に置かれた本に目が留まった。
「この本はどうしたの?」と、優香に聞く。
「親戚のおじさんが、本を読めってお年玉代わりに渡してきたの。そんなの余計なお世話だと思わない?本が嫌いなわけじゃないけどさ、強制された途端なんでも楽しくなくなるよね。」
口を尖らせながら一通り文句を言った後、優香は笑った。
その頃は私も今みたいに本を読むことはしていなかった。何気なく、親戚のおじさんがあげた本を手に取る。ページをめくると、まだ新しい紙の匂いがした。
それから私は優香の家にお邪魔するたびに少しずつページをめくっていった。内容を理解できていたのかどうかは分からない。けれど途方もなく長く感じていた物語の終わりが、少しずつ軽くなっていく左手との感触と共に近づいてくるのが楽しかった。数日かけて読み終わった後、私は達成感と今まで感じたことのない感情に圧倒されていた。その日、私は家に帰ると、お母さんに同じ本を買ってくれとせがんだのを今でも覚えている。
どこを見てもそこには優香が立っていた。何を見ても優香との思い出が溢れてきた。
響くチャイムの音で本を閉じる。顔をあげると大木泰助が保健室から出ていくのが見えた。私もあとを追う。私のクラスの隣の教室へ彼は入っていった。そうか。隣のクラスだったのか。
午後の授業は教壇に立つ先生の板書写すだけの退屈極まりないものだった。ほぼ機械的に手を動かし、私は窓の外を見ていた。代わり映えしない風景。葉を完全に落とした木々はもはや動きを見せることなく、静かにたたずんでいる。春先へ向けて力を温存しているようには見えず、力の枯渇に近いものを感じた。あれは死だ。という考えが、ふと頭の中に浮かんだ。同じ木でも内部では生と死を季節と共に繰り返しているのではないか。廻る命の循環。それが内在しているというのはどういったものだろう。死というものに恐怖は感じてはいなかった。小説の中では当たり前のように扱われていたし、それにまつわる感情も幾度となく追体験してきた。ただそれは単なる想像の類にすぎない。自分が死というものに間接的ではあるけれど、触れたときにわかった。相手の絶対的な力を。
行くあてもない思想たちが頭の中を浮浪する。誰にも相手にされないようなことだとはわかっている。小さい頃、ふと親に「おにぎりはなんで三角形なの」と聞いたことがある。その時親がなんと返事してくれたかは覚えてはいないが、たびたびそういった誰もが気にも留めないような質問をして困らせてしまったことは覚えている。それからは、とりとめのないことを考えても、人に話すことなく内の中でひっそりと育むことにしていた。。優香を除いて。優香はいつも私の考えることに特別な反応を見せることはなかった。批判するわけでも過剰に肯定するわけでもなく、ただ話を聞くだけだった。それだけで私は十分だった。優香の中で私の考えがどのように消化されたのかはわからない。ただ受け入れてもらえることがうれしかった。やはり優香は私にとっての居場所だったのだ。
私が考えに耽る間も時間は流れ、授業はおわった。担任の先生が授業担当の先生と入れ違いで教室に入ってくる。ガヤガヤしているクラス全体の注意を引くためか声を張り上げて自身の存在を示すがクラスメイトの声にかき消された。やがて飛び交う私語が静かになってきた頃、担任が事務連絡を行う。その間に私は荷物をまとめ帰る準備をしていた。カバンの中に身に覚えのないものが入っていた。手にとってみるとそれは芯に巻いてある包帯だった。恐らく昼休みが終わり保健室から教室に戻るとき紛れてしまったのだろう。代議員が号令をかけLHRが終わった。私は教室を出て保健室へと向かった。
保健室に入るとそこには既に大木泰介と加藤先生がいた。 2人ともこちらに気づき、加藤先生はにこやかに笑ってこちらへ来るように手で合図した。従うままに中に入ると加藤先生は子供のような笑みを浮かべながら大木泰介の夢について話し始めた。
「この子はね、小さい頃から優しくてね。今でも覚えてるわ。私が大学生の頃に夏の長期休暇の間に実家に帰っていたの。そこに姉が旦那さんと彼を連れて1週間泊まりに来ていたんだけど、泰介くんが全く私と話してくれなくてね。どうにか心を開いてもらおうと、あの手この手を使ったんだけれど全部ダメ。結局姉を介してじゃないと話せなかった。哀しかったなぁ〜。」と言いながらちらっと大木泰介の方をみる。
大木泰介は顔を逸らし居心地の悪そうにしていた。
加藤先生が再び口を開いた。
「でもね。姉一家が帰る当日の日に彼が話しかけてくれたの!軒先でたらいに張った氷水に足をつけながらぼーっとしていたら、息を切らしながら私の方へ一生懸命に走ってきてね。
「おばさん!お医者さんなんでしょ!! このこを治して!」って言って 羽をもぎられたトンボを見せてきたの。多分あれは地元の小学生か誰かが遊びの一環でそういうむごたらしいことをしたんだと思う。私は虫は苦手だし、お医者さんでもないし、どう頑張っても羽を治すことはできなかった。最後にはそのトンボ力尽きちゃって泰介くんと庭の樹の下に埋めたわ。その時ね、彼は泣いていたの。なんて優しい子なんだろうって思ったわ。多分羽をもいだのも彼と同じくらいの子じゃないかしら。同じ年頃の子でもこんなに違うんだって、こんなに優しい子がいるんだって教えてくれたの。ねぇ、覚えてる?」
大木泰介は小さく低い声で
「うん。」と一言言っただけだった。
「そんな彼の今の夢はお医者さんなんだって。こんな高校の保健室じゃ学べることなんて本当にないけれど、それでもって言ってこっちに引っ越してきてから学校が終わると毎日顔を出して手伝ってくれるの。いい子でしょ?自慢の甥っ子だわ!」
加藤先生がそういうと、
「もういいだろ。今日はやめとく。帰るわ。」
と言って大木泰介は保健室から出て行った。
あらら、照れちゃって。と加藤先生は言いながらため息混じりに笑った。
「あの、これ…」と鞄の中から包帯を取り出すと加藤先生は優しい笑顔で
「あぁ、紛れ込んでしまったのね。ありがとう。」と言って両手で受け取った。そして私の目を見て
「彼のこと、どう思う?」と尋ねてきた。
私が返答に戸惑っていると
「別に恋愛感情とかそういうことじゃなくて、あの子の人柄についてどう思う? あの子ね、1人でいるのが好きみたいで友達が少ないみたいなの。姉から聞いたんだけど、前の学校でも少し浮いていたみたい。余計なお世話だけど私は高橋さんとなら仲良く過ごせるんじゃないかなって思ってね。ただ、本当に優しくていい子なの。出会ったばっかりでよくわからないか。まぁ、これからも高橋さんがここに来てくれるなら泰介くんとはまた会うと思うからよろしくね。あと包帯をちゃんと届けてくれてありがとう。助かったわ。」
加藤先生はそういうと、私に背を向けて自分の机へと向かった。私も保健室を出て家路へとついた。
大木泰介とはその後も度々会うことがあった。
いつも通りに本を読んでいると、向こうから
「日本史と世界史、どっちが得意?」という質問が飛んで来た。最初は誰に尋ねているのか見当がつかず無視をしていたが、彼は私に向かってもう一度同じ質問をして来た。
私が「世界史。」と答えるとふぅーんといった感じで彼は納得し再び沈黙が戻る。
それからも彼は会うたびに一、二回 私に向けて質問をしてきた。大体がどうといったこともない場つなぎのように感じられる中身のない質問だった。
ある日、彼が私の読んでいた本に興味を示したようで、それについて尋ねてきた。
気づけば、私はその本について少し熱心に話し込んでしまった。話し終わった後に、後悔が襲ってくる。どうせ世間話の一環として尋ねてきたに過ぎないのにどうしてこのように話してしまったのだろうかと。私が口を噤み、再び本へと視線を戻すと、彼は自然に「へぇ。面白そうだな。読んでみたいかも。」と言ってくれた。
彼にとっては、それは何気ない一言だったかもしれないし、世間話の延長線上で発した言葉かもしれない。ただ私にとってその言葉はとても嬉しいものだった。
つかさず私は自分の栞と共に彼に渡して
「もしよければ、読んでみて。」と言った。
彼は少し面を食らった様子だったが、すぐに戻り
「ありがとう。」と言った。一瞬加藤先生と重なる。
それにしても意外だった。彼はこれほど喋る人なのか。
貸した本が返ってきたのは その次の週の月曜日だった。教室に入り自分の席に着こうとした瞬間に、不意に名前を呼ばれ、声の方を向けば彼が立っていた。本を取り出し、私の方へ差し出す。私が受け取ると
「うまく感想とか言えないけど、よかった。また読みたいって思った。貸してくれてありがとう。」
と言って彼は足早に去っていった。
しばらくの間私はその本を持ったまま立っていた。彼の言葉が頭の中で反芻する。貸してよかった。 ふとそんなことを思い、席に着いた。
昼休み。いつも通りに保健室に行くと、そこには加藤先生しかいなかった。私に気づくと微笑んで「こんにちは」と言って再び机に向かって何やら事務作業を行なっていた。
私は一度深く呼吸をして
「いい人だと思います。」と言った。
加藤先生は作業を止めて、私の方を見る。なんのことだか、わかってないようだった。
「彼、大木泰介くんは、いい人だと思います。」
そう感じた理由はない。ただ、お世辞でもない。本当にそう思ったのだ。いつもなら周りの音でかき消されてしまう私の発した声は静かな保健室では充分な大きさで響き、加藤先生の耳へと届いた。加藤先生は少し驚いたようだが、顔を綻ばせて
「高橋さんがそう言ってくれるなら、私も安心だわ。仲良くしてあげてね。ありがとう。」そう言ってまた背を向けた。
いつもの窓際に座り、大木泰介に貸した本を手に取り再び自分で読み進める。彼がどこの場面でどの様に感じ取ったのか気になった。 優香はあまり本を読まなかった。というより、全く読まなかった。私の好きな本を貸したのは大木泰介が初めてだった。本から彼の体温を微かに感じたような気がした。
放課後、優香のお母さんから連絡が来た。一度家に来て欲しいとのことだった。私は自分の家の前を素通りして制服のまま優香の家へと向かった。インターフォンを押す。数秒してからドアの鍵が開く音がした。優香のお母さんが顔を出す。葬式であった時よりもいくらか元気を取り戻したように見えた。
私は優香のお母さんに促されて家へとあがった。彼女は改めて私を見て
「久しぶりね。葬式以来かしら。その制服…。懐かしいわ。麻理ちゃんよく似合ってるわね。」
そう言った彼女の目はうるうるとしていた。
リビングに通されて紅茶とお菓子をいただく。学校のこと、将来のこと、他愛のない会話が途切れ途切れに続いていた。いよいよ会話の種も尽きたのか、沈黙が流れる。優香のお母さんは1度深く息を吐いてから私の目をしっかりと見つめてきた。
「麻理ちゃん。あのね。今まで優香と仲良くしてくれてありがとう。」
その言葉に私は意表を突かれた。
「あの子が亡くなってからもう数週間と時間は流れてしまったけれど、最近ようやく心に余裕が持ててね。そしたら真っ先に麻理ちゃんにお礼を言わなきゃって思って。小さい頃から優香と仲良くしてくれてありがとう。麻理ちゃんがしっかりしてくれていたから安心して優香を遊びにいかすことができたわ。あの子ちょっと男勝りで危なっかしかったから。」
彼女はそういう時目を細めて微笑んだ。その目尻にはきらりと光るものが見えた。心の底から喉元にむかって何とも言えない感情がせり上がってくる。口を開けど、言葉は出なかった。お礼を言われる筋合いなんてないのに。いつも助けてもらっていたのは私なのに。優香が、優香が私をいつも支えてくれていたのに。ここ数日間無意識に仕舞い込んでた感情が、堰を切ったように溢れ出てくる。ただ、それらは言葉にならず、代わりに目尻から熱い雫が流れていった。
優香のお母さんが続ける。
「小さい頃からずうっと、ずうっとあなたの話をしてくれるの。"今日は麻理と一緒に先生と怒られちゃった。"とか"麻理が髪の毛切ってた!私も切りたいなぁーっ。"とか毎日学校から帰ってくると教えてくれてたの。小学校の時も、中学校上がっても、最近もね。あの子は本当に麻理ちゃんのことが好きだったみたい。」
優香のお母さんは声を震わせながらそれでも優しく話し続けた。微笑みながら。涙を流しながら。
とうとう咽びはじめた私をみて、彼女は私の隣に移り背中をさすってくれた。懐かしい匂い。優香の匂い。その匂いがまた数々の思い出を回想させる。私と優香のお母さんは寄り添いながらしばらく泣きつづけた。優香の死を思い出すとやっぱり辛い。心に開いた穴は空っぽに見えて、その奥には沢山の思い出が詰まっていた。それら全てが今、濁流のように溢れてでくる。塞いでいたはずの瘡蓋は勢いに負けて剥がれてしまった。ただ、ひとつだけ違うのは、後に残ったものが虚無感ではなく、哀愁と懐旧の情であった。
2人とも落ち着き始めた頃、優香のお母さんが優香の部屋へと連れていってくれた。
中学2年の頃を境にして家で遊ぶことはなくなっていた。大体が放課後の教室や近くのファストフード店なので喋ったり、ショッピングモールをふらついたりして過ごしていた。久しぶりに入る優香の部屋。扉の前で少し緊張したが、入ってみると其処は私の思い出の中とさして変わっていなかった。あぁ、知っている。赤く丸い絨毯についた茶色いシミ。オセロをしていて優香が勝った時に、優香の挙げた手がマグカップにあたってココアが溢れてしまったのだ。慌てて拭き取ろうと2人であれこれしてみたが、そのシミは今も残っている。
本棚に置いてある小さな緑色した兵隊たち。私たちが放課後何回も見た映画に出てくるキャラクターの一人で優香が大好きだった。商店街のガチャガチャで優香がこれを見つけて、私に100円貸してくれるよう頼みこんできた。2人で半分ずつ出しあって回したガチャガチャ。その後、優香は100円の代わりに一体を私にくれた。本当に何も変わってなかった。何も。
「部屋を片付けたいのだけど、どうしても手をつけられなくて。まだ、あの子がここで寝てるように思えてしまうの。」
優香のお母さんが呟いた。私もそう思った。その部屋の雰囲気はまだ死んでいなかった。まだ生きていた。誰かが生活しているような空気が流れていた。もしかして優香は…。と考えてから小さく首を左右に振る。優香は確かにこの世を去った。それはもう間違いようのないことだった。ただ、この部屋からは優香の生を感じられた。
優香のお母さんに勧められて部屋の奥まで入り勉強机に向かって座ってみた。脇に置いてある鉛筆立てに、小学生の頃私がプレゼントしたボールペンがいまも差してあった。私がそれを見つめていると、その視線に気づいたのか
「あの子ってよく物を無くすでしょ?何回コンパスやら消しゴムやら買い直させられたか。でもね、そのペンだけはずうっと失くさずに使っていたわ。よほど嬉しかったのね。部屋の外には持ち出さないって言って本当にそうしてたのよ。」
同じペンを見つめながら優香のお母さんが話してくれた。安っぽいプラスチックでできたキャラクター物のボールペン。今の歳からしたら子供っぽいが、当時の自分たちの間ではそのキャラクターが流行っていた。例に漏れず私と優香も少ないお小遣いでシールや消しゴムを買っていた。誕生日プレゼントとしてそのボールペンをあげた時の優香は目を輝かせながら心から喜んでくれてた。ただ、そのあと使っている様子もなく落ち込んでいたのだが、今やっと理解した。大切に大切にしてくれていたのだ。他にも書きやすいものや可愛いデザインのものは沢山あるにも関わらず、ずっと使ってくれていたのだ。そういった優香の性格が本当に好きだった。人の心を決して踏み捻ることのない性格が好きだった。
ふと本棚に視線を戻すと、懐かしいものが目に映った。叔父さんからもらった小説。ページは少し茶色がかって帯はすでに無くなっていた。この様子だと何回か読み返しているんだなと気づき少し驚いた。
気づけば自然と私の手が伸びその本を取っていた。
両手で開けるとぱららっとページがめくれる。開いたページを見て私はまた泣いてしまった。
1番開かれただろう跡が残るそのページは、紛れもなく私が1番好きな場面だった。何度も何度も指でなぞり開いたページだった。私がそうしたのと同じようにこのページこの場面で優香は感動したのだろう。心を動かされたのだろう。嬉しくてたまらなかった。本を両手で抱きしめて私は思う存分泣いた。優香のお母さんが私の頭を撫でてくれた。柔らかくって小さな手だった。顔をあげると彼女は微笑んでいた。優香にそっくりだった。私もぐしゃぐしゃな顔でぎこちなく笑った。
外も暗くなり始めて家に帰る用意をし始めると、優香のお母さんがさっきの本を私に手渡してきた。
「この本ね、優香は全く読もうとしなかったの。最初はね。けど、貴方が遊びにくるたび読むようになってから少しずつ、少しずつだけど読んでいたみたいね。気づかれないようにしていたみたいだけど。その本どうか持っていってあげて。ここにあるより、あなたの元にあった方がいいと思うの。何度も読んであげて。そこにはきっと優香がいるから。」
私は受け取りカバンにしまう。同じ本が2つ並ぶ。なんだか私たちみたいに見えた。
「今日は、ありがとうございました。色々話が聞けてよかったです。」
私が優香のお母さんにそう伝えると、彼女はやっぱり優香にそっくりな笑い方で
「こちらこそありがとう。またいつでも来てね。」
と言ってくれた。
優香の家を後にして自転車に乗る。顔をあげると暮れ始めの夕景に一筋の飛行機雲が伸びていた。
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