成唯識論 巻第六 現代日本語訳シリーズ with ChatGPT
唯識論卷第六
護法等菩薩造
三藏法師玄奘奉 詔譯
已説遍行別境二位。善位心所其相云何。頌曰
善謂信慚愧 無貪等三根
勤安不放逸 行捨及不害
論曰。唯善心倶名善心所。謂信慚等定有十一。云何爲信。於實徳能深忍樂欲心淨爲性。對治不信樂善爲業。然信差別略有三種。一信實有。謂於諸法實事理中深信忍故。二信有徳。謂於三寶眞淨徳中深信樂故。三信有能。謂於一切世出世善深信有力能得能成起希望故。由斯對治彼不信心。愛樂證修世出世善。忍謂勝解。此即信因。樂欲謂欲即是信果。礭陳此信自相是何。豈不適言。心淨爲性。此猶未了彼心淨言。若淨即心應非心所。若令心淨慚等何別。心倶淨法爲難亦然。此性澄清能淨心等。以心勝故立心淨名。如水清珠能清濁水。慚等雖善非淨爲相。此淨爲相無濫彼失。又諸染法各別有相。唯有不信自相渾濁。復能渾濁餘心心所。如極穢物自穢穢他。信正翻彼故淨爲相。有説信者愛樂爲相。應通三性體應即欲。又應苦集非信所縁。有執信者隨順爲相。應通三性。即勝解欲。若印順者即勝解故。若樂順者即是欲故。離彼二體無順相故。由此應知心淨是信。云何爲慚。依自法力崇重賢善爲性。對治無慚止息惡行爲業。謂依自法尊貴増上。崇重賢善羞恥過惡。對治無慚息諸惡行。云何爲愧。依世間力輕拒暴惡爲性。對治無愧止息惡行爲業。謂依世間訶厭増上。輕拒暴惡羞恥過罪。對治無愧息諸惡業。羞恥過惡是二通相。故諸聖教假説爲體。若執羞恥爲二別相。應慚與愧體無差別。則此二法定不相應。非受想等有此義故。若待自他立二別者。應非實有便違聖教。若許慚愧實而別起。復違論説十遍善心。崇重輕拒若二別相。所縁有異應不倶生。二失既同何乃偏責。誰言二法所縁有異。不爾如何。善心起時隨縁何境。皆有崇重善及輕拒惡義。故慚與愧倶遍善心所縁無別。豈不我説亦有此義。汝執慚愧自相既同。何理能遮前所設難。然聖教説顧自他者。自法名自世間名他。或即此中崇拒善惡。於己益損名自他故。無貪等者等無瞋癡。此三名根生善勝故。三不善根近對治故。云何無貪。於有有具無著爲性。對治貪著作善爲業。云何無瞋。於苦苦具無恚爲性。對治瞋恚作善爲業。善心起時隨縁何境。皆於有等無著無恚。觀有等立非要縁彼。如前慚愧觀善惡立。故此二種倶遍善心。云何無癡。於諸理事明解爲性。對治愚癡作善爲業。有義無癡即慧爲性。集論説此報教證智決擇爲體。生得聞思修所生慧。如次皆是決擇性故。此雖即慧爲顯善品有勝功能。如煩惱見故復別説。有義無癡非即是慧。別有自性。正對無明如無貪瞋。善根攝故。論説大悲無瞋癡攝非根攝故。若彼無癡以慧爲性。大悲如力等應慧等根攝。又若無癡無別自性。如不害等應非實物。便違論説十一善中三世俗有餘皆是實。然集論説慧爲體者。擧彼因果顯此自性。如以忍樂表信自體。理必應爾。以貪瞋癡六識相應。正煩惱攝起惡勝故立不善根。斷彼必由通別對治。通唯善慧。別即三根。由此無癡必應別有。勤謂精進。於善惡品修斷事中勇悍爲性。對治懈怠滿善爲業。勇表勝進簡諸染法。悍表精純簡淨無記。即顯精進唯善性攝。此相差別略有五種。所謂被甲加行無下無退無足。即經所説有勢有勤有勇堅猛不捨善軛。如次應知。此五別者。謂初發心自分勝進。自分行中三品別故。或初發心長時無間慇重無餘修差別故。或資糧等五道別故。二乘究竟道欣大菩提故。諸佛究竟道樂利樂他故。或二加行無間解脱勝進別故。安謂輕安。遠離麁重調暢身心堪任爲性。對治惛沈轉依爲業。謂此伏除能障定法令所依止轉安適故。不放逸者精進三根。於所斷修防修爲性。對治放逸成滿一切世出世間善事爲業。謂即四法於斷修事皆能防修名不放逸。非別有體。無異相故。於防惡事修善事中。離四功能無別用故。雖信慚等亦有此能。而方彼四勢用微劣。非根遍策故非此依。豈不防修是此相用。防修何異精進三根。彼要待此方有作用。此應復待餘便有無窮失。勤唯遍策。根但爲依。如何説彼有防修用。汝防修用其相云何。若普依持即無貪等。若遍策録不異精進。止惡進善即總四法。令不散亂應是等持。令同取境與觸何別。令不忘失即應是念。如是推尋不放逸用。離無貪等竟不可得。故不放逸定無別體。云何行捨。精進三根令心平等正直無功用住爲性。對治掉擧靜住爲業。謂即四法令心遠離掉擧等障靜住名捨。平等正直無功用住。初中後位辯捨差別。由不放逸先除雜染。捨復令心寂靜而住。此無別體如不放逸。離彼四法無相用故。能令寂靜即四法故。所令寂靜即心等故。云何不害。於諸有情不爲損惱無瞋爲性。能對治害悲愍爲業。謂即無瞋於有情所不爲損惱假名不害。無瞋翻對斷物命瞋。不害正違損惱物害。無瞋與樂不害拔苦。是謂此二麁相差別。理實無瞋實有自體。不害依彼一分假立。爲顯慈悲二相別故。利樂有情彼二勝故。有説不害非即無瞋別有自體。謂賢善性。此相云何。謂不損惱。無瞋亦爾。寧別有性。謂於有情不爲損惱慈悲賢善是無瞋故。及顯十一義別心所。謂欣厭等善心所法。雖義有別説種種名。而體無異故不別立。欣謂欲倶無瞋一分。於所欣境不憎恚故。不忿恨惱嫉等亦然。隨應正翻瞋一分故。厭謂慧倶無貪一分。於所厭境不染著故。不慳憍等當知亦然。隨應正翻貪一分故。不覆誑諂無貪癡一分。隨應正翻貪癡一分故。有義不覆唯無癡一分。無處説覆亦貪一分故。有義不慢信一分攝。謂若信彼不慢彼故。有義不慢捨一分攝。心平等者不高慢故。有義不慢慚一分攝。若崇重彼不慢彼故。有義不疑即信所攝。謂若信彼無猶豫故。有義不疑即正勝解。以決定者無猶豫故。有義不疑即正慧攝。以正見者無猶豫故。不散亂體即正定攝。正見正知倶善慧攝。不忘念者即是正念。悔眠尋伺通染不染。如觸欲等無別翻對。何縁諸染所翻善中有別建立有不爾者。相用別者便別立之。餘善不然故不應責。又諸染法遍六識者。勝故翻之別立善法。慢等忿等唯意識倶。害雖亦然。而數現起損惱他故。障無上乘勝因悲故。爲了知彼増上過失。翻立不害。失念散亂及不正知。翻入別境。善中不説。染淨相翻淨寧少染。淨勝染劣少敵多故。又解理通説多同體。迷情事局隨相分多。故於染淨不應齊責。此十一法。三是假有。謂不放逸捨及不害。義如前説。餘八實有相用別故。有義十一。四遍善心。精進三根遍善品故。餘七不定。推尋事理未決定時不生信故。慚愧同類依處各別。隨起一時第二無故。要世間道斷煩惱時有輕安故。不放逸捨無漏道時方得起故。悲愍有情時乃有不害故。論説十一六位中起。謂決定位有信相應。止息染時有慚愧起。顧自他故。於善品位有精進三根。世間道時有輕安起。於出世道有捨不放逸。攝衆生時有不害故。有義彼説未爲應理。推尋事理未決定。心信若不生應非是善。如染心等無淨信故。慚愧類異。依別境同。倶遍善心前已説故。若出世道輕安不生。應此覺支非無漏故。若世間道無捨不放逸。應非寂靜防惡修善故。又應不伏掉放逸故。有漏善心既具四法。如出世道。應有二故。善心起時皆不損物。違能損法有不害故。論説六位起十一者。依彼彼増作此此説故。彼所説定非應理。應説信等十一法中。十遍善心。輕安不遍。要在定位方有輕安。調暢身心餘位無故。決擇分説十善心所定不定地皆遍善心。定地心中増輕安故。有義定加行亦得定地名。彼亦微有調暢義故。由斯欲界亦有輕安。不爾便違本地分説信等十一通一切地。有義輕安唯在定有。由定滋養有調暢故。論説欲界諸心心所。由闕輕安名不定地。説一切地有十一者。通有尋伺等三地皆有故。此十一種前已具説第七八識隨位有無。第六識中定位皆具。若非定位唯*闕輕安。有義五識唯有十種。自性散動無輕安故。有義五識亦有輕安。定所引善者亦有調暢故。成所作智倶必有輕安故。此善十一何受相應。十五相應。一除憂苦。有逼迫受無調暢故。此與別境皆得相應。信等欲等不相違故。十一唯善。輕安非欲。餘通三界。皆學等三。非見所斷。瑜伽論説信等六根唯修所斷非見所斷。餘門分別如理應思。如是已説善位心所。
善心所
善心所の分類と説明
前章で「遍行心所」と「別境心所」について説明しましたが、ここでは「善心所」について詳しく述べます。善心所とは、善なる心と必ず共に生じる心の働きを指します。これには 信・慚・愧・無貪・無瞋・無癡・精進・軽安・不放逸・行捨・不害 の 11 種類があります。
1. 信(しん)
定義: 真理や徳、善行に対して深く信じ、心が清らかになること。
働き: 不信(信じない心)を取り除き、善を愛し、修行を促す。
種類:
実相への信 - すべての存在や法則に対する深い信仰。
徳への信 - 仏・法・僧の三宝の純粋な徳を信じること。
行為への信 - 善行の力を信じ、努力する意志を持つこと。
この「信」の働きによって、不信の心が取り除かれ、世俗的・出世的な善行を愛し、修行へと向かうことができる。
2. 慚(ざん)
定義: 自らの良心や価値観に基づき、善行を重んじ、悪を恥じること。
働き: 自らの誇りや善の価値を認識し、悪行を抑制する。
3. 愧(き)
定義: 世間の目や他者の評価を意識し、悪を恥じること。
働き: 社会の規範や他者の評価を尊重し、悪行を抑制する。
慚と愧の違い:
慚: 自分の内面に基づく道徳心。
愧: 社会や他者の目を意識する羞恥心。
この二つは、聖教においては同一の働きとして仮説的に説明されることがあるが、個々の性質を分析すると、やや異なる役割を持つと考えられる。
4. 無貪(むとん)
定義: 欲望や執着を離れること。
働き: 貪欲を克服し、善行を促す。
5. 無瞋(むしん)
定義: 怒りや憎しみを持たないこと。
働き: 怒りを抑え、慈悲を育む。
6. 無癡(むち)
定義: 物事の道理を正しく理解すること。
働き: 無知を克服し、知恵を生じさせる。
無癡については、以下の二つの意見があります:
無癡は「智慧」と同じものである。
無癡は「智慧」とは別のものであり、独自の性質を持つ。
この論争の結論として、無癡は「智慧とは別の概念であり、無知を克服するための根本的な善なる性質」であると解釈されます。
7. 精進(しょうじん)
定義: 善行を努力して実践すること。
働き: 怠惰を防ぎ、善の完成を助ける。
精進の種類:
甲冑精進 - 初めて善行を行う意志を固める段階。
加行精進 - 実際に修行を始める段階。
無下精進 - 途中で諦めない意志を持つ段階。
無退精進 - 逆境に屈せずに努力する段階。
無足精進 - 満足せず、さらに善行を進める段階。
8. 軽安(きょうあん)
定義: 身体と心が快適で、修行がしやすい状態。
働き: 心身の重さ(惛沈)を取り除き、修行を快適にする。
9. 不放逸(ふほういつ)
定義: 精進・無貪・無瞋・無癡の四つを基盤として、悪を防ぎ、善を修めること。
働き: 放逸(怠けや無関心)を克服し、善行を完成させる。
10. 行捨(ぎょうしゃ)
定義: 心を平静に保ち、物事に動じないこと。
働き: 落ち着いた心で修行を続けることができるようにする。
11. 不害(ふがい)
定義: 他者を傷つけないこと。
働き: 他者に害を与える行為を防ぎ、慈悲の心を育む。
無瞋と不害の違い:
無瞋: 他者を攻撃しないこと。
不害: 他者を助けること。
善心所の特性と関係性
① 実体としての区別
8つの心所(信・慚・愧・無貪・無瞋・無癡・精進・軽安)は実体がある。
3つの心所(不放逸・行捨・不害)は、既存の善心所を基盤とした「働き」にすぎず、独立した実体ではない。
② 心所の遍在性
10の心所(軽安を除く)はすべての善心に共通して生じる。
軽安は「定(集中)」が必要な状態でのみ生じる。
③ 三界(欲界・色界・無色界)での適用
すべての善心所は三界に共通する。
軽安のみ、「定」の修行が必要な状態(色界・無色界)で特に顕著に現れる。
④ 受(感覚)との関係
15種類の受と対応:
信・慚・愧・無貪・無瞋・無癡・精進・不放逸・行捨・不害はすべて「15種類の感覚」に対応する。
軽安は「苦しみ」には対応しない(快適な感覚をもたらすため)。
結論
善心所は合計 11 種類に分類される。
信・慚・愧・無貪・無瞋・無癡・精進・軽安・不放逸・行捨・不害は、善の完成に不可欠である。
そのうち、不放逸・行捨・不害は「働き」として概念化され、実体ではない。
軽安は定(集中)が必要な状態でのみ顕著に現れる。
これらの善心所が適切に機能することで、修行者はより高度な精神的成長を遂げることができる。
この章では、仏教心理学における「善の心所」についての詳細な分析が行われました。
煩惱心所其相云何。頌曰
煩惱謂貪瞋 癡慢疑惡見
論曰。此貪等六性是根本煩惱攝故。得煩惱名。云何爲貪。於有有具染著爲性。能障無貪生苦爲業。謂由愛力取蘊生故。云何爲瞋於苦苦具憎恚爲性。能障無瞋不安隱性惡行所依爲業。謂瞋必令身心熱惱起諸惡業。不善性故。云何爲癡。於諸理事迷闇爲性。能障無癡一切雜染所依爲業。謂由無明起疑邪見貪等煩惱隨煩惱業。能招後生雜染法故。云何爲慢。恃己於他高擧爲性。能障不慢生苦爲業。謂若有慢於徳有徳心不謙下。由此生死輪轉無窮受諸苦故。此慢差別有七九種。謂於三品我徳處生。一切皆通見修所斷。聖位我慢既得現行。慢類由斯起亦無失。云何爲疑於諸諦理猶豫爲性。能障不疑善品爲業。謂猶豫者善不生故。有義此疑以慧爲體。猶豫簡擇説爲疑故。毘助末底是疑義故。末底般若義無異故。有義此疑別有自體。令慧不決。非即慧故。瑜伽論説六煩惱中見世俗有。即慧分故。餘是實有。別有性故。毘助末底執慧爲疑。毘助若南智應爲識。界由助力義便轉變。是故此疑非慧爲體。云何惡見。於諸諦理顛倒推求度染慧爲性。能障善見招苦爲業。謂惡見者多受苦故。此見行相差別有五。一薩迦耶見。謂於五取蘊執我我所。一切見趣所依爲業。此見差別有二十句六十五等。分別起攝。二邊執見。謂即於彼隨執斷常。障處中行出離爲業。此見差別諸見趣中有執前際四遍常論一分常論。及計後際有想十六無想倶非各有八論。七斷滅論等。分別趣攝。三邪見。謂謗因果作用實事。及非四見諸餘邪執。如増上縁名義遍故。此見差別諸見趣中有執前際二無因論四有邊等不死矯亂。及計後際五現涅槃。或計自在世主釋梵及餘物類常恒不易。或計自在等是一切物因。或有横計諸邪解脱。或有妄執非道爲道。諸如是等皆邪見攝。四見取。謂於諸見及所依蘊。執爲最勝能得清淨。一切鬪諍所依爲業。五戒禁取。謂於隨順諸見戒禁及所依蘊。執爲最勝能得清淨。無利勤苦所依爲業。然有處説執爲最勝名爲見取。執能得淨名戒取者。是影略説。或隨轉門。不爾如何非滅計滅非道計道説爲邪見。非二取攝
煩悩心所
煩悩心所の分類と説明
煩悩とは、心を汚し、善を妨げる精神的な要素であり、迷いの根本原因となるものです。本節では、煩悩心所の分類とその特性について詳しく説明します。以下に示す六つの要素は、根本煩悩に分類されるため、「煩悩」と総称されます。
1. 貪(とん)
定義: 物質的・精神的な対象に対する執着・欲望。
性質: 所有物や感覚的な快楽に対して執着し、強く染まる心の働き。
働き: 無貪(執着を離れること)を妨げ、苦しみを生じさせる。
影響: 愛着の力によって五蘊(身体・心の構成要素)を求め、生死の輪廻を繰り返す原因となる。
2. 瞋(しん)
定義: 苦しみや不快な状況に対する怒りや憎しみ。
性質: 苦しみや嫌悪すべき対象に対して憎しみを抱くこと。
働き: 無瞋(慈悲や忍耐)を妨げ、心の安らぎを奪い、悪行を生じさせる。
影響: 怒りの心は身体や心を熱く乱し、多くの悪業を生じさせる。不善の性質を持ち、煩悩の中でも特に強力な害をもたらす。
3. 癡(ち)
定義: 真理や物事の道理を理解しない無知の状態。
性質: 事実や理論を明確に理解することができない迷いの心。
働き: 無癡(正しい智慧)を妨げ、あらゆる煩悩や誤った考えを生じさせる基盤となる。
影響: 無明(根本的な無知)によって疑いや誤った見解、貪りや怒りなどの煩悩が生じる。これにより、未来の生においても雑染(汚れた)行為を生じさせる。
4. 慢(まん)
定義: 自分を他者よりも優れていると考える高慢の心。
性質: 自己を誇示し、他者に対して優越感を抱く心。
働き: 不慢(謙虚な心)を妨げ、苦しみを生じさせる。
影響: 慢心を持つことで、他者の徳を認めず、自らの欠点を正さない。これによって、生死の輪廻の中で苦しみを繰り返すことになる。
種類: 慢には七種類、または九種類の分類がある。これは自己の持つ三種類の徳(実際の徳、誤認した徳、比較的な徳)に基づいて生じる。また、聖者の境地においても「我慢(アートマ・マーナ)」が現れることがあり、これがさらなる慢を生じさせることがある。
5. 疑(ぎ)
定義: 真理や仏教の教えに対する迷いや疑念。
性質: 真理について判断がつかず、決断できない心。
働き: 不疑(疑わない心)を妨げ、善行の妨げとなる。
影響: 疑いの心があると、善い行為が生じにくくなる。
異説:
一説では、疑いとは「智慧(慧)」の一種であり、判断を迷わせる要素とされる。
しかし、別の説では、疑いは「独立した心の働き」であり、智慧そのものではないとされる。これは、「判断を決定できない」ことが疑いの本質であるためである。
ヨーガ論(瑜伽論)では、「六つの煩悩のうち、見(誤った見解)のみが世俗の智慧の一部であり、他の五つは独立した実体である」と説明されている。
6. 悪見(あくけん)
定義: 物事の真理を誤って捉え、誤った推論をすること。
性質: 迷いによって生じる誤った知見。
働き: 正しい見解を妨げ、苦しみを生じさせる。
影響: 誤った見解を持つ者は、多くの苦しみを受ける。
悪見の五種類:
薩迦耶見(さっかやけん) - 五蘊(色・受・想・行・識)を「自分」または「自分のもの」と誤認する見解。すべての誤った見解の基盤となる。
辺執見(へんしゅうけん) - 物事を「永遠に続くもの(常見)」または「完全に消滅するもの(断見)」と極端に解釈する見解。この見解は、中道の理解を妨げ、解脱の障害となる。
邪見(じゃけん) - 因果関係や道理を否定し、誤った思想を持つこと。例えば、業や輪廻を否定したり、誤った解脱法を信じたりする。
見取見(けんじゅけん) - 誤った見解やその基盤となる五蘊を最も優れたものと考え、それによって清浄を得られると信じること。あらゆる論争の根源となる。
戒禁取見(かいごんじゅけん) - 誤った戒律や修行法を最上のものと考え、それによって清浄を得られると信じること。無益な苦行や誤った信仰を生じさせる。
一部の経典では、「最も優れたものと執着する見解」を見取見、「それによって清浄を得られると信じるもの」を戒禁取見とするが、これは概略的な説明であり、厳密には区別が必要である。
結論
煩悩心所は、迷いと苦しみの根源であり、これを克服することが修行の核心となる。特に、貪・瞋・癡の三つは「三不善根」と呼ばれ、すべての煩悩の基本となる。慢・疑・悪見は、さらに複雑な執着や迷いを生じさせ、修行の妨げとなる。これらの煩悩を理解し、それに対する対策を講じることが、解脱への道を開く鍵となる。
如是總別十煩惱中。六通倶生及分別起。任運思察倶得生故。疑後三見唯分別起。要由惡友或邪教力自審思察方得生故。邊執見中通倶生者。有義唯斷。常見相麁惡友等力方引生故。瑜伽等説。何邊執見是倶生*耶。謂斷見攝。學現觀者起如是怖。今者我我何所在*耶。故禽獸等若遇違縁皆恐我斷而起驚怖。有義彼論依麁相説。理實倶生亦通常見。謂禽獸等執我常存。熾然聚集長時資具。故顯揚等諸論。皆説於五取蘊執斷計常。或是倶生或分別起。此十煩惱誰幾相應。貪與瞋癡定不倶起。愛憎二境必不同故。於境不決無染著故。貪與慢見或得相應。所愛所陵境非一故説不倶起。所染所恃境可同故説得相應。於五見境皆可愛故。貪與五見相應無失。瞋與慢疑或得倶起。所瞋所恃境非一故説不相應。所蔑所憎境可同故説得倶起。初猶豫時未憎彼故説不倶起。久思不決便憤發故説得相應。疑順違事隨應亦爾。瞋與二取必不相應。執爲勝道不憎彼故。此與三見或得相應。於有樂蘊起身常見。不生憎故説不相應。於有苦蘊起身常見。生憎恚故説得倶起。斷見翻此説瞋有無。邪見誹撥惡事好事。如次説瞋或無或有。慢於境定疑則不然。故慢與疑無相應義。慢與五見皆容倶起。行相展轉不相違故。然與斷見必不倶生。執我斷時無陵恃故。與身邪見一分亦爾。疑不審決與見相違。故疑與見定不倶起。五見展轉必不相應。非一心中有多慧故。癡與九種皆定相應。諸煩惱生必由癡故。此十煩惱何識相應。藏識全無末那有四。意識具十。五識唯三。謂貪瞋癡。無分別故。由稱量等起慢等故。此十煩惱何受相應。貪瞋癡三倶生分別。一切容與五受相應。貪會違縁憂苦倶故。瞋遇順境喜樂倶故。有義倶生分別起慢。容與非苦四受相應。恃苦劣蘊憂相應故
煩悩心所の詳細な分析
煩悩の分類と発生の仕方
仏教における煩悩は、大きく二つの発生形式に分類されます。
倶生(ぐしょう) - 生まれつき自然に生じる煩悩。
分別起(ふんべつき) - 思考や学習によって後天的に生じる煩悩。
煩悩のうち、貪・瞋・癡・慢・疑・悪見の六種類は、どちらの発生形式でも生じることがあります。これは、無意識に発生する場合もあれば、意識的な思考(任運・思察)によって生じる場合もあるためです。
しかし、疑・見の三種類(辺執見・邪見・見取見・戒禁取見) は、基本的に分別起によってのみ発生します。これらの煩悩は、悪友(誤った指導者)や邪教(誤った思想)によって影響を受け、自己の思考を通じて形成されるため、自然に生じることはありません。
1. 辺執見の特性
辺執見(断見・常見)については、以下の二つの意見があります。
一説: 倶生(生まれつきのもの)として生じるのは断見のみであり、常見は分別起のみ。
これは、常見は思想的な影響を強く受けるため、悪友などの外部の要因がなければ形成されにくいとする考え方。
例えば、極端な常見(「全てが永遠に続く」という考え)は、特定の宗教や哲学の影響を受けなければ生じにくい。
別の説: 倶生で生じるのは、断見だけでなく常見も含まれる。
例えば、動物は「自己が常に存続する」と本能的に信じ、食糧を蓄えたりする。これは、常見が自然発生する可能性を示している。
顕揚論やその他の仏教論書によると、五取蘊(自己と誤認する五つの構成要素)に対して、断見・常見はどちらも生じ得るとされ、場合によっては倶生、場合によっては分別起であると考えられる。
2. 煩悩同士の相関関係
煩悩は、それぞれ独立して生じる場合もあれば、同時に生じる場合もあります。以下、各煩悩の組み合わせについて考察します。
(1) 貪と瞋の関係
貪と瞋は同時には生じない。
これは、貪(愛着)と瞋(憎悪)は、対象に対する感情が正反対だからである。
貪は「執着」する対象を求め、瞋は「拒絶」する対象を嫌うため、両者は共存しにくい。
(2) 貪と慢・見の関係
貪と慢・見は、条件によっては共に生じる。
貪と慢は、同じ対象に対して生じることがある(例:自分の才能に対する執着と、それを誇る慢心)。
貪と五見(悪見の五種類)は、すべての対象を「愛着の対象」とすることができるため、同時に生じることが可能。
(3) 瞋と慢・疑の関係
瞋と慢・疑は、条件によっては共に生じる。
瞋(怒り)と慢(高慢)は、異なる対象に対して生じる場合、同時に存在できる。
例えば、自分の地位を誇る(慢)と同時に、他者を見下し怒る(瞋)ことがあり得る。
疑と見(五見)は、必ず同時には生じない。
疑(決断を迷う心)は、見(誤った信念)と対立する性質を持つ。
見は「確信を持った誤解」であり、疑は「決断できない状態」なので、両者は矛盾する。
(4) 五見同士の関係
五見(薩迦耶見・辺執見・邪見・見取見・戒禁取見)は、同時に生じない。
これは、一つの心が同時に複数の誤った認識を持つことが難しいためである。
例えば、「私は永遠に生きる(常見)」と「私はすぐに消滅する(断見)」を同時に信じることはできない。
(5) 癡と他の煩悩の関係
癡(無知)は、他の九つの煩悩と必ず同時に生じる。
すべての煩悩は、無知(癡)を基盤として生じるため、癡なしに煩悩が生じることはない。
3. 各煩悩が相応する識
煩悩がどの識(心の層)と結びついているかを考察すると、以下のようになります。
阿頼耶識(深層意識): いかなる煩悩も直接には関与しない。
末那識(自我意識): 瞋・慢・見・疑の四種類の煩悩と相応する。
意識(通常の思考): 十種類すべての煩悩が発生する可能性がある。
五識(感覚器官による識): 貪・瞋・癡の三つのみが相応する。
これは、五識(視覚・聴覚など)は単純な感覚知覚に関わるため、複雑な慢・疑・見は生じにくいためである。
4. 煩悩と受(感情)の関係
各煩悩が、どの種類の「受(感覚的な反応)」と結びつくかを整理すると、以下のようになります。
貪・瞋・癡: 倶生・分別の両方で生じ、一切の受(苦・楽・憂・喜・捨)と相応する。
瞋: 順境(心地よい状況)では「喜・楽」と相応しないが、逆境では「憂・苦」と強く結びつく。
慢: 倶生・分別どちらの形でも生じ、苦以外の四つの受と相応する。
例:自分の地位を誇るときには、通常、苦しみを伴わないため。
結論
煩悩は、その発生形式や関係性によって、心の異なる層と結びつき、多様な形で生じる。特に、癡(無知)がすべての煩悩の根源であり、それがある限り、他の煩悩も生じ続ける。このため、修行者にとっては、無知を克服し、正しい智慧を身につけることが、煩悩を断ち切る鍵となる。
有義倶生亦苦倶起。意有苦受前已説故。分別慢等純苦趣無。彼無邪師邪教等故。然彼不造引惡趣業。要分別起能發彼故。疑後三見容四受倶。欲疑無苦等亦喜受倶故。二取若縁憂倶見等。爾時得與憂相應故」有義倶生身邊二見但與喜樂捨受相應。非五識倶。唯無記故。分別二見容四受倶。執苦倶蘊爲我我所常。斷見翻此與憂相應故
煩悩と受(感情)の相関関係
煩悩と受(感情)の結びつき
煩悩は、さまざまな「受」(感情の種類)と相応し、それによって心の状態に影響を与えます。ここでは、煩悩と五受(楽受・苦受・喜受・憂受・捨受)との関係について詳しく考察します。
1. 煩悩の倶生(生得的な発生)と受の関係
一部の学説では、倶生(生まれつき自然に生じる)煩悩は苦受とも結びつくとされています。
意識の中においては、苦受と共に生じることが可能である(すでに前述)。
ただし、分別起(後天的に思考によって生じる)慢などの煩悩は、純粋に苦しみを伴うものではない。
これは、分別起の煩悩が、邪悪な指導者や誤った教えに依存するためであり、これらがない場合、直接的な苦しみを伴わないためである。
しかし、分別起の煩悩は、自ら悪業を生じさせることはないものの、結果的に悪業を引き起こす要因となる。
煩悩が強く根付いたとき、それに基づいた行為(業)が発生し、その結果、悪趣(地獄・餓鬼・畜生)に生まれ変わる原因となる。
2. 疑・三見(辺執見・邪見・見取見)と受の関係
疑と三見(辺執見・邪見・見取見)は、四種類の受(楽・苦・喜・憂)と共に生じることがある。
欲求が伴う疑は、苦受を伴わない場合でも喜受と共に生じることがある。
二取(見取見・戒禁取見)が、憂受と結びつくこともある。
これは、二取が執着の心を持ち、それが挫折した際に憂いとなるためである。
3. 倶生する身見・辺見(断見・常見)と受の関係
倶生する「身見(薩迦耶見)」や「辺執見(断見・常見)」は、楽受・喜受・捨受と共に生じるが、苦受とは結びつかない。
これらの煩悩は、五識(感覚的な認識)とは共に生じず、意識の領域のみで発生する。
五識(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚)は、本来的に「無記」(善でも悪でもない中立的な認識)であるため、直接的にこれらの煩悩とは結びつかない。
4. 分別起の二見(身見・辺見)と受の関係
分別起(後天的な学習や思考によって形成される)身見・辺見は、四種類の受(楽・苦・喜・憂)と共に生じる可能性がある。
例えば、「苦受を伴う五蘊(物質的・精神的な構成要素)を『私』または『私のもの』と執着すること」は、断見に反するため、憂受と結びつくことがある。
つまり、断見は「すべてが無になる」という考えであるため、苦受の五蘊を「私」と認識することとは対立する。
結論
煩悩は、それぞれ異なる受(楽・苦・喜・憂・捨)と結びつき、心の状態に影響を与える。
倶生する煩悩は基本的に楽受や喜受と共に生じやすいが、特定の条件下では苦受や憂受とも結びつく。
分別起の煩悩は、外部の影響によって形成されるため、四種類の受すべてと関係し得る。
五識(感覚的な認識)は基本的に無記(中立)であり、煩悩とは直接結びつかない。
この考察を通じて、煩悩と感情の関係を理解することで、煩悩を制御し、精神的な平安を得るための道筋が明らかになる。
有義二見若倶生者。亦苦受倶。純受苦處縁極苦蘊苦相應故。論説倶生一切煩惱皆於三受現行可得。廣説如前。餘如前説。此依實義。隨麁相者貪慢四見樂喜捨倶。瞋唯苦憂捨受倶起。癡與五受皆得相應。邪見及疑四倶除苦。貪癡倶樂通下四地。餘七倶樂除欲通三。疑獨行癡欲唯憂捨。餘受倶起如理應知。此與別境幾互相應。貪瞋癡慢容五倶起。專注一境得有定故。疑及五見各容四倶。疑除勝解不決定故。見非慧倶不異慧故。此十煩惱何性所攝。瞋唯不善損自他故。餘九通二。上二界者唯無記攝。定所伏故。若欲界繋分別起者。唯不善攝。發惡行故。若是倶生。發惡行者亦不善攝。損自他故。餘無記攝。細不障善。非極損惱自他處故。當知倶生身邊二見。唯無記攝不發惡業。雖數現起不障善故。此十煩惱何界繋耶。瞋唯在欲。餘通三界。生在下地未離下染。上地煩惱不現在前。要得彼地根本定者。彼地煩惱容現前故。謂有漏道雖不能伏分別起惑及細倶生。而能伏除倶生麁惑。漸次證得上根本定。彼但迷事。依外門轉。散亂麁動正障定故。得彼定已彼地分別倶生諸惑皆容現前。生在上地下地諸惑分別倶生皆容現起。生第四定中有中者。由謗解脱生地獄故。身在上地將生下時。起下潤生倶生愛故。而言生上不起下者。依多分説。或隨轉門。下地煩惱亦縁上地。瑜伽等説欲界繋貪求上地生味上定故。既説瞋恚憎嫉滅道。亦應憎嫉離欲地故。總縁諸行執我我所斷常慢者得縁上故。餘五縁上其理極成。而有處言貪瞋慢等不縁上者。依麁相説。或依別縁。不見世間執他地法爲我等故。邊見必依身見起故。上地煩惱亦縁下地。説生上者於下有情恃己勝徳而陵彼故總縁諸行執我我所斷常愛者得縁下故。疑後三見如理應思。而説上或不縁下者。彼依多分。或別縁説。此十煩惱學等何攝。非學無學彼唯善故。此十煩惱何所斷耶。非非所斷彼非染故。分別起者唯見所斷麁易斷故。若倶生者唯修所斷細難斷故。見所斷十實倶頓斷。以眞見道總縁諦故。然迷諦相有總有別。總謂十種皆迷四諦。苦集是彼因依處故。滅道是彼怖畏處故。別謂別迷四諦相起。二唯迷苦八通迷四。身邊二見唯果處起。別空非我屬苦諦故。謂疑三見親迷苦理。二取執彼三見戒禁及所依蘊爲勝能淨。於自他見及彼眷屬。如次隨應起貪恚慢。相應無明與九同迷。不共無明親迷苦理。疑及邪見親迷集等。二取貪等准苦應知。然瞋亦能親迷滅道。由怖畏彼生憎嫉故。迷諦親疎麁相如是。委細説者貪瞋慢三見疑倶生隨應如彼。倶生二見及彼相應愛慢無明。雖迷苦諦細難斷故修道方斷。瞋餘愛等迷別事生不違諦觀故修所斷。雖諸煩惱皆有相分。而所仗質或有或無。名縁有事無事煩惱。彼親所縁雖皆有漏。而所*仗質亦通無漏。名縁有漏無漏煩惱。縁自地者相分似質。名縁分別所起事境。縁滅道諦及他地者相分與質不相似故。名縁分別所起名境。餘門分別如理應思。已説根本六煩惱相。
煩悩の詳細な分類と特徴
煩悩と受(感情)の関係
煩悩はさまざまな受(感情)と結びつき、異なる心の状態を生じさせる。ここでは、煩悩がどのような受と関連するかを詳しく分析する。
1. 倶生する煩悩と受の関係
倶生(生得的に発生する)煩悩は、苦受と共に生じることがある。
特に極度の苦を伴う対象(極苦蘊)を縁とする場合、苦受と共に発生する可能性がある。
論の説明では、倶生するすべての煩悩が三受(楽・苦・捨)のいずれかと結びつくとされる。
一般的な整理
貪・慢・四見(薩迦耶見・辺執見・邪見・見取見) → 楽受・喜受・捨受と共に生じる。
瞋 → 苦受・憂受・捨受と共に生じる。
癡 → すべての五受(楽・苦・喜・憂・捨)と結びつく。
邪見・疑 → 楽受・喜受・捨受とは結びつくが、苦受とは結びつかない。
2. 煩悩の発生地(欲界・色界・無色界)
貪・癡 → 楽受と共に生じる場合、下方の四地(欲界を含む)に共通する。
その他の七つの煩悩 → 楽受と共に生じる場合、欲界を除く三界(色界・無色界・欲界)に遍在する。
疑が単独で発生する場合 → 癡と共に生じ、欲界では憂受・捨受と結びつく。
その他の煩悩 → 各種の受と結びつくが、その詳細な関係は理論に基づいて整理されるべきである。
3. 煩悩と別境心所(特定の状況における心の働き)
貪・瞋・癡・慢は、五つの別境(欲・勝解・念・定・慧)のいずれかと共に生じる可能性がある。
これは、特定の対象に専念し、それを得ようとする定まった心が生じるためである。
疑および五見(薩迦耶見・辺執見・邪見・見取見・戒禁取見)は、四つの別境(欲・勝解・念・慧)のいずれかと共に生じる可能性がある。
ただし、疑は勝解(深く理解し確信すること)とは相容れず、五見は慧(知識・智慧)とは別のものであるため、この二つとは結びつかない。
4. 煩悩の性質分類
瞋 → 不善(悪しき性質を持つ) に分類される。
これは、自己や他者を傷つけ、悪行を生じさせるからである。
その他の九つの煩悩(貪・癡・慢・疑・五見) → 二つのカテゴリー(不善・無記)に分類される。
上二界(色界・無色界)では、これらの煩悩は無記(善悪の区別がない)に分類される。
欲界において、分別起(思考によって生じる)した場合、純粋な不善(悪しき性質)に分類される。
倶生(自然に生じる)した場合、悪業を引き起こす場合は不善、それ以外は無記に分類される。
5. 煩悩と三界(欲界・色界・無色界)の関係
瞋 → 欲界のみで生じる。
その他の煩悩(貪・癡・慢・疑・五見) → 三界すべてに生じる。
生まれた地が低い場合(下地)、上地の煩悩は現前しない。
ただし、その地の根本定(深い瞑想状態)を得た場合、その地の煩悩が現前することがある。
**生まれた地が高い場合(上地)**でも、下地の煩悩が現れることがある。
例:第四禅定(高度な瞑想状態)に生じた者が、邪な解脱観を持ち、地獄に生まれることがある。
上地の者が下地に転生する際には、下地に執着する煩悩が生じることがある。
一般的には「生まれた地の煩悩のみが生じる」と説明されるが、これは大部分において当てはまる理論であり、例外も存在する。
6. 煩悩の学習・修行における分類
煩悩は「学(修行者)」「無学(悟りを得た者)」には属さない。
これらは純粋に善なる性質を持つため、煩悩とは相容れない。
煩悩は「所断(修行によって断つべきもの)」に属する。
分別起(思考による発生)した煩悩 → 見所断(知識を正しくすることで断つことができる)
倶生(生得的に発生する)した煩悩 → 修所断(修行によって徐々に克服する)
見所断の煩悩は、悟りを得ることで一挙に断つことができる。
ただし、煩悩が誤った道理を迷う性質には「総合的な迷い」と「特定の迷い」の二種類がある。
7. 煩悩の対象と認識の関係
すべての煩悩は、それぞれに対応する「相分」(心が映し出す対象)を持つ。
ただし、それを支える「質」は、必ずしも常に存在するわけではない。
これにより、煩悩は「有事縁(実在するものに執着する)」と「無事縁(存在しないものに執着する)」の二つに分かれる。
煩悩が対象とするものには、「有漏(煩悩を伴う)」「無漏(煩悩を伴わない)」の違いがある。
例えば、煩悩が「無漏の状態(悟りの境地)」に対して執着することもあり得る。
結論
煩悩は、受(感情)や別境心所(特定の精神活動)と密接に関連し、その発生条件によって異なる受と結びつく。
煩悩の性質は、欲界・色界・無色界の各世界において異なる特徴を持つ。
分別起の煩悩は「見所断」によって断たれ、倶生の煩悩は「修所断」によって克服される。
煩悩が対象とするものには、実在するもの(有事縁)と実在しないもの(無事縁)があり、これによって執着の構造が異なる。
このように、煩悩は多層的な構造を持ち、修行を通じて徐々に克服されるべきものである。
諸隨煩惱其相云何。頌曰
隨煩惱謂忿 恨覆惱嫉慳
誑諂與害憍 無慚及無愧
掉擧與惛沈 不信并懈怠
放逸及失念 散亂不正知
論曰。唯是煩惱分位差別。等流性故名隨煩惱。此二十種類別有三。謂忿等十各別起故名小隨煩惱。無慚等二遍不善故名中隨煩惱。掉擧等八遍染心故名大隨煩惱。云何爲忿。依對現前不饒益境憤發爲性。能障不忿執仗爲業。謂懷忿者多發暴惡身表業故。此即瞋恚一分爲體。離瞋無別忿相用故。云何爲恨。由忿爲先懷惡不捨結怨爲性。能障不恨熱惱爲業。謂結恨者不能含忍恒熱惱故。此亦瞋恚一分爲體。離瞋無別恨相用故。云何爲覆。於自作罪恐失利譽隱藏爲性。能障不覆悔惱爲業。謂覆罪者後必悔惱不安隱故。有義此覆癡一分攝。論唯説此癡一分故。不懼當苦覆自罪故。有義此覆貪癡一分攝。亦恐失利譽覆自罪故。論據麁顯唯説癡分。如説掉擧是貪分故。然説掉擧遍諸染心。不可執爲唯是貪分。云何爲惱。忿恨爲先追觸暴熱佷戻爲性。能障不惱蛆螫爲業。謂追往惡觸現違縁心便*佷戻。多發囂暴凶鄙麁言蛆螫他故。此亦瞋恚一分爲體。離瞋無別惱相用故。云何爲嫉。徇自名利不耐他榮妬忌爲性。能障不嫉憂慼爲業。謂嫉*妬者聞見他榮深懷憂慼不安隱故。此亦瞋恚一分爲體。離瞋無別嫉相用故。云何爲慳。耽著財法不能慧捨祕悋爲性。能障不慳鄙畜爲業。謂慳悋者心多鄙澁畜積財法不能捨故。此即貪愛一分爲體。離貪無別慳相用故。云何爲誑。爲獲利譽矯現有徳詭詐爲性。能障不誑邪命爲業。謂矯誑者心懷異謀多現不實邪命事故。此即貪癡一分爲體。離二無別誑相用故。云何爲諂。爲網他故矯設異儀險曲爲性。能障不諂教誨爲業。謂諂曲者爲網帽他曲順時宜矯設方便爲取他意或藏己失。不任師友正教誨故。此亦貪癡一分爲體。離二無別諂相用故。云何爲害。於諸有情心無悲愍損惱爲性。能障不害逼惱爲業。謂有害者逼惱他故。此亦瞋恚一分爲體。離瞋無別害相用故。瞋害別相准善應説。云何爲憍。於自盛事深生染著醉傲爲性。能障不憍染依爲業。謂憍醉者生長一切雜染法故。此亦貪愛一分爲體。離貪無別憍相用故。云何無慚。不顧自法輕拒賢善爲性。能障礙慚生長惡行爲業。謂於自法無所顧者輕拒賢善不恥過惡。障慚生長諸惡行故。云何無愧。不顧世間崇重暴惡爲性。能障礙愧生長惡行爲業。謂於世間無所顧者崇重暴惡不恥過罪。障愧生長諸惡行故。不恥過惡是二通相。故諸聖教假説爲體。若執不恥爲二別相則應此二體無差別。由斯二法應不倶生。非受想等有此義故。若待自他立二別者應非實有。便違聖教。若許此二實而別起復違論説倶遍惡心。不善心時隨縁何境皆有輕拒善及崇重惡義故。此二法倶遍惡心。所縁不異無別起失。然諸聖教説不顧自他者。自法名自世間名他。或即此中拒善崇惡。於己益損名自他故。而論説爲貪等分者。是彼等流非即彼性。云何掉擧。令心於境不寂靜爲性。能障行捨奢摩他爲業。有義掉擧貪一分攝。論唯説此是貪分故。此由憶昔樂事生故。有義掉擧非唯貪攝。論説掉擧遍染心故。又掉擧相謂不寂靜。説是煩惱共相攝故。掉擧離此無別相故。雖依一切煩惱假立。而貪位増説爲貪分。有義掉擧別有自性。遍諸染心如不信等非説他分體便非實。勿不信等亦假有故。而論説爲世俗有者。如睡眠等隨他相説。掉擧別相謂即囂動。令倶生法不寂靜故。若離煩惱無別此相不應別説障奢摩他。故不寂靜非此別相。云何惛沈。令心於境無堪任爲性。能障輕安毘鉢舍那爲業。有義惛沈癡一分攝。論唯説此是癡分故。惛昧沈重是癡相故。有義惛沈非但癡攝。謂無堪任是惛沈相。一切煩惱皆無堪任。離此無別惛沈相故。雖依一切煩惱假立而癡相増但説癡分
随煩悩の詳細な分類と特徴
随煩悩とは何か
随煩悩(ずいぼんのう)とは、煩悩の異なる状態や性質に応じて発生する心の働きを指す。これらは、根本的な煩悩(貪・瞋・癡・慢・疑・悪見)の派生的な形態として現れるため、「随(したがう)」煩悩と呼ばれる。
この随煩悩は、20種類に分類される。それぞれの性質によって以下の3つのグループに分けられる。
小随煩悩(10種類):個別に発生する煩悩。
忿(ふん)、恨(こん)、覆(ふく)、惱(のう)、嫉(しつ)、慳(けん)、誑(おう)、諂(せん)、害(がい)、憍(きょう)
中随煩悩(2種類):あらゆる不善心と共に生じる煩悩。
無慚(むざん)、無愧(むき)
大随煩悩(8種類):すべての染汚心(煩悩を含む心)と共に生じる煩悩。
掉挙(じょうこ)、惛沈(こんちん)、不信(ふしん)、懈怠(けたい)、放逸(ほういつ)、失念(しつねん)、散乱(さんらん)、不正知(ふしょうち)
1. 小随煩悩(個別に発生する煩悩)
1.1 忿(ふん)
定義: 目の前の不利益な状況に対して怒りを募らせること。
働き: 怒りを抑える心を阻害し、暴力的な行動を引き起こす。
1.2 恨(こん)
定義: 怒りを長く抱え込み、恨みとして記憶すること。
働き: 恨みを捨てられず、精神的な苦痛を増幅させる。
1.3 覆(ふく)
定義: 自らの罪を隠し、他者に知られないようにすること。
働き: 後になって後悔し、自己の精神を不安定にする。
覆には以下の二つの説がある:
覆は癡の一部であり、愚かさによって自分の罪を隠そうとする。
覆は貪と癡の両方の要素を含み、利益や名声を失うことを恐れるために罪を隠す。
1.4 惱(のう)
定義: 忿(怒り)や恨(恨み)を原因とし、暴力的な行動に出ること。
働き: 他者を攻撃し、悪業を積み重ねる。
1.5 嫉(しつ)
定義: 自分の利益を守るために、他者の成功を妬むこと。
働き: 他者の栄誉を喜べず、内心の不安や憂鬱を増大させる。
1.6 慳(けん)
定義: 財産や知識などを惜しみ、他者に分け与えないこと。
働き: 執着心を増大させ、物や情報を独占しようとする。
1.7 誑(おう)
定義: 利益や名声を得るために、実際には持っていない徳を装うこと。
働き: 他者を欺き、誤った信頼関係を生み出す。
1.8 諂(せん)
定義: 他者を操作するために、偽りの態度をとること。
働き: 他者の機嫌をとりながら、自分の利益を追求する。
1.9 害(がい)
定義: 他者に対して慈悲心を持たず、損害を与えること。
働き: 他者を苦しめ、社会的な調和を破壊する。
1.10 憍(きょう)
定義: 自らの成功や才能に酔いしれ、高慢になること。
働き: 自己満足に陥り、成長を妨げる。
2. 中随煩悩(不善心に広く影響を与える煩悩)
2.1 無慚(むざん)
定義: 自分自身の道徳基準に反する行為を恥じないこと。
働き: 善行を妨げ、悪行を積み重ねる。
2.2 無愧(むき)
定義: 社会的な規範や道徳を無視し、恥じることがないこと。
働き: 他者の評価を軽視し、悪行を継続する。
3. 大随煩悩(すべての染汚心と共に生じる煩悩)
3.1 掉挙(じょうこ)
定義: 心が静まらず、落ち着きがなくなること。
働き: 瞑想や修行の妨げとなる。
3.2 惛沈(こんちん)
定義: 心が沈み込み、無気力になること。
働き: 活力を奪い、修行を妨げる。
3.3 不信(ふしん)
定義: 仏法や徳に対する信仰がないこと。
働き: 修行への意欲を削ぎ、誤った道へ進ませる。
3.4 懈怠(けたい)
定義: 精進する意欲がなく、怠けること。
働き: 善行を避け、悪行を助長する。
3.5 放逸(ほういつ)
定義: 悪行に対する警戒心がなくなること。
働き: 道徳的な判断を鈍らせ、罪を重ねる。
3.6 失念(しつねん)
定義: 重要な事柄や修行の目的を忘れること。
働き: 集中力を欠き、善行が途切れる。
3.7 散乱(さんらん)
定義: 心があちこちに乱れ、安定しないこと。
働き: 精神統一を妨げ、混乱を生じさせる。
3.8 不正知(ふしょうち)
定義: 正しい知識や判断を欠くこと。
働き: 誤った考えに固執し、道を誤る。
結論
随煩悩は20種類に分類され、小・中・大の3つのグループに分かれる。
小随煩悩は個別に発生し、中随煩悩は広く不善心に影響を与え、大随煩悩はすべての染汚心に遍在する。
これらの随煩悩は、修行の妨げとなり、悟りへの道を阻む要因となるため、正しく認識し克服することが求められる。
有義惛沈別有自性。雖名癡分而是等流。如不信等非即癡攝。隨他相説名世俗有。如睡眠等是實有性。惛沈別相。謂即瞢重。令倶生法無堪任故。若離煩惱無別惛沈相。不應別説障毘鉢舍那。故無堪任非此別相。此與癡相有差別者。謂癡於境迷闇爲相。正障無癡而非瞢*重。惛沈於境瞢*重爲相。正障輕安而非迷闇。云何不信。於實徳能不忍樂欲心穢爲性。能障淨信惰依爲業。謂不信者多懈怠故。不信三相翻信應知。然諸染法各有別相。唯此不信自相渾濁。復能渾濁餘心心所。如極穢物自穢穢他。是故説此心穢爲性。由不信故於實徳能不忍樂欲。非別有性。若於餘事邪忍樂欲是此因果。非此自性。云何懈怠。於善惡品修斷事中懶惰爲性。能障精進増染爲業。謂懈怠者滋長染故。於諸染事而策勤者亦名懈怠。退善法故。於無記事而策勤者於諸善品無進退故是欲勝解。非別有性。如於無記忍可樂欲非淨非染無信不信。云何放逸。於染淨品不能防修縱蕩爲性。障不放逸増惡損善所依爲業。謂由懈怠及貪瞋癡不能防修染淨品法。總名放逸。非別有體。雖慢疑等亦有此能。而方彼四勢用微劣障三善根遍策法故。推究此相如不放逸。云何失念。於諸所縁不能明記爲性。能障正念散亂所依爲業。謂失念者心散亂故
随煩悩の詳細な分析(続き)
大随煩悩の特性と相違
大随煩悩には、すべての染汚心に影響を及ぼす特性があり、特に瞑想や修行において障害となる要素が含まれている。それぞれの煩悩が持つ独自の性質について、さらに詳しく解説する。
1. 惛沈(こんちん)
定義: 心が沈み込み、鈍重になること。
働き: 軽安(きょうあん、心身の快適さ)を妨げ、瞑想を阻害する。
惛沈と癡(むち)の違い
**癡(無知)**は、物事の理を理解できず迷いを生じさせる。しかし、それ自体は沈滞や重圧を伴うわけではない。
惛沈は、沈滞して重くなる性質を持ち、物事の理解とは関係なく心の活動を妨げる。
したがって、癡は無知としての迷いを生じさせるが、惛沈は意識そのものを鈍重にするという違いがある。
2. 不信(ふしん)
定義: 真理や徳を受け入れず、信じることができないこと。
働き: 信(しん、信仰心)を妨げ、修行の意欲を減退させる。
不信の特性
不信の状態にある者は、往々にして怠惰になり、修行の努力を怠る。
不信は、心を濁らせ、他の心所にも影響を与える。まるで極めて汚れた物質が周囲をも汚すように、心全体を汚染する。
3. 懈怠(けたい)
定義: 善を修め、悪を断つことに対して積極性がなく、怠けること。
働き: 精進(しょうじん、努力)を妨げ、煩悩を増大させる。
懈怠の影響
懈怠があると、心は次第に染汚され、悪行を助長する。
また、染汚されていない無記の状態であっても、善への進歩がなくなるため、修行の妨げとなる。
4. 放逸(ほういつ)
定義: 善行を修めたり、悪行を防いだりすることを怠り、放任すること。
働き: 不放逸(ふほういつ、自己制御)を妨げ、悪行を増長させる。
放逸の特徴
懈怠や貪・瞋・癡が原因となり、悪行を防ぐことも、善行を進めることもできなくなる。
放逸は独立した実体ではなく、他の煩悩とともに機能する特性を持つ。
瞋(怒り)や疑いも放逸に関連するが、その影響力は不放逸と比較すると小さい。
5. 失念(しつねん)
定義: 対象を明確に記憶できず、忘れること。
働き: 正念(しょうねん、正しく覚えていること)を妨げ、心の散乱を引き起こす。
失念の影響
失念は、心の集中を妨げ、散乱を生じさせる。
その結果、修行や学習が困難になり、仏教的な智慧の発展を阻害する。
結論
惛沈は心を重くし、鈍重にする煩悩であり、癡とは異なる。
不信は心を濁らせ、善行を進める意欲を削ぐ。
懈怠は努力を妨げ、修行を遅らせる。
放逸は善行の実践を怠り、悪行を放任する結果をもたらす。
失念は正しい記憶を維持できず、集中力を妨げる。
これらの煩悩は、心の安定や修行の進展を妨げるものであり、適切な修行によって克服することが求められる。
有義失念念一分攝。説是煩惱相應念故。有義失念癡一分攝。瑜伽説此是癡分故。癡令念失故名失念。有義失念倶一分攝。由前二文影略説故。論復説此遍染心故。云何散亂。於諸所縁令心流蕩爲性。能障正定惡慧所依爲業。謂散亂者發惡慧故」有義散亂癡一分攝。瑜伽説此是癡分故。有義散亂貪瞋癡攝。集論等説是三分故。説癡分者遍染心故。謂貪瞋癡令心流蕩勝餘法故説爲散亂
随煩悩の詳細な分析(続き)
1. 失念(しつねん)
定義: 記憶が明確でなくなり、対象を適切に保持できなくなること。
働き: 正念(しょうねん、正しい記憶)を妨げ、散乱した心を引き起こす。
失念の解釈
失念については、以下の三つの見解がある:
念(正念)の一分として捉える説
失念とは、煩悩に染まった「念」の一部分であると考える。
煩悩と結びついた記憶の乱れを指す。
癡(無知)の一分として捉える説
失念とは、「癡」の一分であり、物事の本質を見極められない状態と考える。
『瑜伽論』では、失念は「癡」に属するとされる。
念と癡の両方に関連する説
過去の文献の内容を総合すると、失念は「念」と「癡」の両方に属する要素を持つ。
失念の影響
修行の妨げ: 失念があると、仏法の教えを正しく覚えることができず、修行の継続が困難になる。
精神の散乱: 物事に集中できず、心があちこちに向いてしまう。
2. 散乱(さんらん)
定義: 心が安定せず、対象に集中できずに流されること。
働き: 正定(しょうじょう、正しい集中)を妨げ、悪慧(誤った理解)を生じさせる。
散乱の解釈
散乱についても、以下のような複数の見解がある:
癡(無知)の一分として捉える説
『瑜伽論』では、散乱は「癡」に属するとされる。
知恵が欠けているため、心が安定せず乱れると考えられる。
貪・瞋・癡の三つに含まれるとする説
『集論』などでは、散乱は「貪・瞋・癡」の三要素に属するとされる。
これは、欲望(貪)、怒り(瞋)、無知(癡)のいずれかによって心が乱されることを示している。
癡に特に強く属する説
貪・瞋・癡のうち、「癡」が心を最も乱れさせる要素であるため、散乱は特に「癡」に強く結びついていると考えられる。
散乱の影響
集中力の低下: 心が常に外界の刺激に流され、集中ができなくなる。
正しい智慧の妨げ: 心が定まらないため、物事を正しく理解する能力が損なわれる。
結論
失念は「念」と「癡」の両方の側面を持ち、記憶力の低下や精神の散乱を引き起こす。
散乱は「癡」に属するとも、「貪・瞋・癡」の三つに属するとも考えられ、心の不安定さを生み出し、修行の妨げとなる。
これらの随煩悩は、仏道修行において克服すべき重要な障害であり、正念や正定によって対処することが求められる。
有義散亂別有自體。説三分者是彼等流。如無慚等非即彼攝。隨他相説名世俗有。散亂別相謂即躁擾。令倶生法皆流蕩故。若離彼三無別自體。不應別説障三摩地。掉擧散亂二用何別。彼令易解此令易縁。雖一刹那解縁無易。而於相續有易義故。染汚心時由掉亂力常應念念易解易縁。或由念等力所制伏如繋猨猴。有暫時住故。掉與亂倶遍染心。云何不正知。於所觀境謬解爲性。能障正知毀犯爲業。謂不正知者多所毀犯故
随煩悩の詳細な分析(続き)
1. 散乱(さんらん)の別の解釈
定義: 心が落ち着かず、絶えず動揺し、対象に対して安定して集中できないこと。
働き: 正しい精神集中(三摩地)を妨げ、心を乱す。
散乱の独立した存在について
散乱が他の煩悩(貪・瞋・癡)に属するか、それとも独立したものかについて、以下の見解がある:
散乱は独立した存在である
これは、「貪・瞋・癡」の影響を受けた随煩悩(等流)ではなく、それ自体が固有の本質を持つと考える説。
無慚(むざん)などの他の随煩悩と同様に、世俗的な定義として捉えられている。
散乱は「貪・瞋・癡」の等流である
散乱は、三つの根本煩悩(貪・瞋・癡)から生じる影響の一つであり、それ自体が独立したものではない。
つまり、散乱は貪欲や怒り、無知によって引き起こされる二次的な煩悩として扱われる。
散乱の具体的な性質
躁擾(そうじょう): つまり、心が乱れて落ち着かず、安定した思考ができないこと。
結果: 散乱によって心が対象に対して適切に集中できず、意識が流される状態になる。
散乱と掉挙(じょうこ)の違い
掉挙(じょうこ):「心が過度に活動的であり、軽薄に動きやすい」ことを指す。
散乱(さんらん):「心が一つの対象に集中できず、意識が流される」ことを指す。
これらの違いを考慮すると:
掉挙は「理解しやすくなる性質(易解)」をもたらす。
散乱は「対象に執着しやすくなる性質(易縁)」をもたらす。
たとえば:
一瞬のうちに、理解や認識が容易になる場合 → 掉挙
長い時間をかけて、注意が散漫になりやすい場合 → 散乱
しかし、一刹那の観点では両者に違いはないが、相続的(継続的)に見ると、散乱は対象への執着を引き起こしやすい。
2. 不正知(ふせいち)
定義: 物事を誤って認識し、真実とは異なる理解をすること。
働き: 正しい認識(正知)を妨げ、倫理的・道徳的な過ちを生じさせる。
不正知の影響
誤った判断をする:
たとえば、物事の本質を正しく見抜くことができず、間違った解釈をしてしまう。
倫理的・道徳的な過ちを犯す:
正しく物事を理解できないため、適切な判断を下せず、道徳的な違反や誤った行動を引き起こす。
不正知の特徴
主な原因: 無知(癡)に基づいており、迷妄な理解をもたらす。
影響: 認識の誤りが積み重なることで、誤った信念を持ちやすくなる。
結論
散乱は、心が安定せず対象に執着しやすくなる性質を持ち、正しい精神集中を妨げる。
掉挙は、心が軽薄になりやすく、認識の不安定さを引き起こすが、短時間では散乱と区別がつかない。
不正知は、正しい知識を得ることを妨げ、誤った判断をもたらし、倫理的・道徳的な誤りの原因となる。
このように、随煩悩は心の働きを乱し、修行を妨げる要因となるため、それぞれを明確に理解し、対処することが重要である。
有義不正知慧一分攝。説是煩惱相應慧故。有義不正知癡一分攝。瑜伽説此是癡分故。令知不正名不正知。有義不正知倶一分攝。由前二文影略説故。論復説此遍染心故。與并及言顯隨煩惱非唯二十。雜事等説貪等多種隨煩惱故。隨煩惱名亦攝煩惱。是前煩惱等流性故。煩惱同類餘染汚法但名隨煩惱。非煩惱攝故。唯説二十隨煩惱者謂非煩惱。唯染麁故。此餘染法或此分位或此等流。皆此所攝隨其類別如理應知。如是二十隨煩惱中。小十大三定是假有。無慚無愧不信懈怠定是實有。教理成故。掉擧惛沈散亂三種
随煩悩の詳細な分析(続き)
1. 不正知(ふせいち)の分類
定義: 物事の正しい理解を妨げ、誤った知識を生じさせること。
働き: 正しい知識(正知)を妨げ、誤った判断や行動を引き起こす。
不正知の本質についての議論
不正知は「慧(智慧)」の一部とする説
煩悩に相応する智慧(誤った判断をもたらす知識)であり、誤った知解を生じさせる。
「煩悩に相応した知識であるから、慧の一分である」と説明される。
不正知は「癡(無知)」の一部とする説
『瑜伽論』では、不正知は癡の一部分であるとされている。
物事を誤って認識するのは、根本的に無知が原因であると考えられる。
不正知は「慧」と「癡」の両方の一部とする説
これは前述の二つの説を総合した立場であり、慧と癡の両方にまたがる概念として説明される。
『論』において、不正知はすべての染汚心(煩悩の影響を受けた心)に遍在すると説かれている。
2. 随煩悩の分類とその範囲
「并」および「及」という言葉の意義
「并」や「及」という表現を用いることで、随煩悩が単に二十種だけに限定されるものではないことを示している。
随煩悩の定義
煩悩の等流として働く性質を持つが、煩悩そのものではない。
煩悩と同じ種類の他の染汚法は、煩悩そのものではなく、随煩悩として扱われる。
随煩悩の限定
二十の随煩悩のみを扱う理由は、それらが煩悩そのものではないが、強く染汚を引き起こすものだからである。
そのほかの染法(染まった精神状態)は、随煩悩の範疇に含まれるが、分類の方法によって扱いが異なる。
3. 随煩悩の二十分類と実在性
小随煩悩(10種)、大随煩悩(8種)、中随煩悩(2種)の実在性について
**小随煩悩(10種)と大随煩悩(3種:掉挙・惛沈・散乱)**は、仮に設定されたもの(概念的な分類)であり、実体としての存在はしない(「假有」)。
**中随煩悩(2種:無慚・無愧)、および大随煩悩のうち「不信・懈怠」**は、実体を持つ(「実有」)。
仮有と実有の区別
仮有(概念的存在)
小随煩悩(忿・恨・覆・惱・嫉・慳・誑・諂・害・憍)
大随煩悩のうち三種(掉挙・惛沈・散乱)
実有(実体としての存在)
中随煩悩(無慚・無愧)
大随煩悩のうち(不信・懈怠)
結論
不正知は、慧の一部、癡の一部、あるいは両者の一部とする三つの見解がある。
随煩悩は二十種類に分類されるが、その他の染法もその範疇に含まれる可能性がある。
小随煩悩と大随煩悩の一部は概念的存在(仮有)であり、中随煩悩と大随煩悩の一部は実体としての存在(実有)である。
このように、随煩悩の体系は非常に精緻に構築されており、それぞれの煩悩の実在性や分類方法について詳細な議論が行われている。
有義是假。有義是實。所引理教如前應知。二十皆通倶生分別。隨二煩惱勢力起故。此二十中小十展轉定不倶起。互相違故。行相麁猛各爲主故。中二一切不善心倶。隨應皆得小大倶起。論説大八遍諸染心。展轉小中皆容倶起。有處説六遍染心者惛掉増時不倶起故。有處但説五遍染者以惛掉等違唯善故。此唯染故非第八倶。第七識中唯有大八。取捨差別如上應知。第六識倶容有一切。小十麁猛五識中無。中大相通五識容有。由斯中大五受相應。有我小十除三。忿等唯喜憂捨三受相應。諂誑憍三四倶除苦
随煩悩の詳細な分析(続き)
1. 随煩悩の実在性についての議論
仮有(概念的存在)とする説
一部の学説では、随煩悩は仮に分類されたものであり、実体としての存在はしないと考える。
この立場では、随煩悩は煩悩の作用や影響を示す便宜的な分類に過ぎず、独立した実体ではない。
実有(実体としての存在)とする説
別の学説では、随煩悩は実際に存在するものであり、各々独自の性質を持つとされる。
これは、教説や論理に基づいて支持されている。
結論
どちらの説も、それぞれの根拠に基づいており、以前に述べた教理に基づいて理解すべきである。
2. 随煩悩の生起形態
倶生(自然に発生する)と分別(思考によって生じる)の両方に通じる
二十の随煩悩は、すべて 倶生(自然発生)と分別(思考を伴う発生)の両方の形態 で生じる。
これは、各々の煩悩が、異なる状況や条件によって発現するためである。
3. 小・中・大随煩悩の相互関係
① 小随煩悩(10種類)
相互に同時に生じることはない
小随煩悩(忿・恨・覆・惱・嫉・慳・誑・諂・害・憍)の十種類は、互いに対立する性質を持つため、同時には生じない。
これらの煩悩は、それぞれ特定の心の働きを主導するため、相互に矛盾する。
② 中随煩悩(2種類)
すべての不善心と共に生じる
無慚 と 無愧 は、どのような不善心にも共に生じる。
これらは、善悪を顧みない態度を基盤とするため、すべての煩悩と共に現れることができる。
③ 大随煩悩(8種類)
小・中の随煩悩と同時に生じることが可能
不信・懈怠・放逸・失念・散乱・不正知・掉挙・惛沈 の8種類の大随煩悩は、染まった心(煩悩が生じている状態)に広く遍在する。
そのため、小随煩悩や中随煩悩と共に生じることがある。
特定の状況下で制約されることもある
ある学説では、惛沈(こんじん)と掉挙(じょうこ)は、互いに矛盾するため同時には生じない。
さらに、別の学説では、惛沈・掉挙・散乱の三つは、完全な善心とは共に生じない。
4. 各識との相応関係
第八識(阿頼耶識)
随煩悩は関与しない(純粋な識として機能するため)。
第七識(末那識)
大随煩悩の8種類のみが関与する(取捨の判断に影響を与える)。
第六識(意識)
すべての随煩悩が関与する可能性がある(最も多様な心の働きを持つ)。
第五識(五識:眼・耳・鼻・舌・身)
小随煩悩(10種類)は生じない(単純な認識活動のため)。
中・大随煩悩は生じる可能性がある。
5. 随煩悩と五受(五種類の感受)
五受とは
楽受(喜びの感覚)
苦受(苦しみの感覚)
喜受(精神的な喜び)
憂受(精神的な悲しみ)
捨受(中立的な感覚)
随煩悩と五受の相応関係
小随煩悩の10種類のうち、「忿・恨・覆・惱・嫉・慳・誑・諂・害・憍」は 「楽・喜・憂・捨」の4つの受と相応するが、「苦受」とは相応しない。
諂(へつらい)・誑(欺き)・憍(おごり) は 「苦受」とは相応せず、「楽・喜・憂・捨」の4つと相応する。
結論
随煩悩は、仮有(概念的分類)と実有(実体の存在)という2つの立場がある。
随煩悩の生じ方には、倶生(自然発生)と分別(思考による発生)の両方がある。
小随煩悩の10種類は互いに矛盾し、同時には生じないが、中・大随煩悩は他と共に生じる可能性がある。
五識には小随煩悩は生じず、第六識(意識)にはすべての随煩悩が生じる可能性がある。
随煩悩と五受の相応関係には制約があり、特に「苦受」とは相応しないものが多い。
このように、随煩悩の体系は詳細に整理されており、各識や感受の働きとの関係も明確に分類されている。
有義忿等四倶除樂。諂誑憍三五受倶起。意有苦受前已説故。此受倶相如煩惱説。實義如是若隨麁相忿恨惱嫉害憂捨倶。覆慳喜捨餘三増樂。中大隨麁亦如實義。如是二十與別境五皆容倶起不相違故。染念染慧雖非念慧倶。而癡分者亦得相應故。念亦縁現曾習類境。忿亦得縁刹那過去故。忿與念亦得相應。染定起時心亦躁擾。故亂與定相應無失。中二大八十煩惱倶。小十定非見疑倶起。此相麁動彼審細故。忿等五法容慢癡倶。非貪恚並是瞋分故。慳癡慢倶非貪瞋並是貪分故。憍唯癡倶。與慢解別是貪分故。覆誑與諂貪癡慢倶。行相無違貪癡分故。小七中二唯不善攝。小三大八亦通無記。小七中二唯欲界攝。誑諂欲色。餘通三界。生在下地容起上十一。耽定於他起憍誑諂故。若生上地起下後十。邪見愛倶容起彼故。小十生上無由起下。非正潤生及謗滅故。中二大八下亦縁上。上縁貪等相應起故
随煩悩の詳細な分析(続き)
1. 随煩悩の実在性についての議論
随煩悩の二十種について、以下の二つの見解がある。
仮の存在(假有)とする説
これは、随煩悩が煩悩の影響として現れるものであり、それ自体が独立した実体ではないという見解である。
実体の存在(実有)とする説
これは、随煩悩も実際に働きを持つ心所として存在するという見解である。
この議論に関しては、これまでに述べた理論や教説を参照しながら理解すべきである。
2. 随煩悩の生起について
随煩悩は、大きく「倶生(生まれながらに生じる)」と「分別起(思考によって生じる)」の二種類がある。
随煩悩は、根本煩悩の影響を受けて生じるため、それぞれの勢力によって生起の仕方が異なる。
(1) 小随煩悩(10種)
相互に決して同時に生じることはない。
それぞれの性質が互いに矛盾し、主要な働きが異なるため。
(2) 中随煩悩(2種:無慚・無愧)
すべての不善心とともに生じる。
どのような煩悩とも共に生じる可能性があるため。
(3) 大随煩悩(8種:掉挙・惛沈・不信・懈怠・放逸・失念・散乱・不正知)
染まったすべての心に遍在する。
小随煩悩や中随煩悩とも共に生じる。
ただし、一部の教説では、「大随煩悩のうち惛沈と掉挙は同時に生じない」とする説もある。これは、それぞれが心の異なる状態を示すためである。
3. 第八識(阿頼耶識)との関係
随煩悩は第八識とともに生じることはない。
第八識は根本的な識であり、煩悩に直接染まるものではないため。
第七識(末那識)では「大随煩悩(8種)」のみが生じる。
取捨の働きを持つため、基本的な煩悩の影響を受ける。
第六識(意識)ではすべての随煩悩が生じる可能性がある。
意識は細かく分析し、煩悩の影響を受けやすい。
第六識と五識(視覚・聴覚など)の違い
小随煩悩(10種)は、粗い性質を持つため、五識とともに生じることはない。
中随煩悩・大随煩悩は、五識とも生じる可能性がある。
4. 随煩悩と「受(感覚)」との関係
小随煩悩(10種)
除く三つ(覆・慳・憍)以外は、すべて喜・憂・捨の三種の受と共に生じる。
覆・慳・憍は、苦を除いたすべての受とともに生じる。
中随煩悩・大随煩悩
五つの受すべてと共に生じる。
5. 煩悩の相互関係
(1) 忿・恨・惱・嫉・害
これらの五つは、苦受や捨受とともに生じる。
(2) 覆・慳
喜受・捨受とともに生じる。
(3) 諂・誑・憍
喜受・捨受・楽受のいずれかとともに生じるが、苦受とは共に生じない。
6. 随煩悩と五つの「別境心所」との関係
随煩悩は、五つの別境心所(欲・勝解・念・定・慧)と共に生じる可能性がある。
「念」と「慧」は清浄なものとされるが、随煩悩と相応する場合もある。
「忿」も刹那的な過去を縁じて生じることがあるため、「念」とも相応しうる。
「定」が発動している状態でも、「散乱」が共に生じることがある。
7. 煩悩の種類別の制約
(1) 10種の小随煩悩
疑とは共に生じない(疑は詳細な思考を要するため)。
(2) 忿・恨・惱・嫉・害
慢や癡とは共に生じるが、貪や瞋とは共に生じない。
(3) 慳・癡・慢
貪や瞋とは共に生じない。
(4) 憍
慢と同時には生じない(憍は貪に分類されるが、慢とは異なる)。
(5) 覆・誑・諂
貪・癡・慢と共に生じるが、相互の関係によって微妙な差がある。
8. 随煩悩の三界における分布
小随煩悩のうち7種(忿・恨・惱・嫉・害・覆・慳)、中随煩悩(無慚・無愧)は「不善」のみに属する。
小随煩悩の3種(誑・諂・憍)、大随煩悩の8種(掉挙・惛沈・不信・懈怠・放逸・失念・散乱・不正知)は「不善」と「無記」の両方に属する。
小随煩悩の7種、中随煩悩は「欲界」にのみ存在するが、誑・諂は「欲界・色界」に、その他は三界すべてに存在する。
9. 煩悩の生起と環境
(1) 下位の地に生じた場合
上位の地(色界・無色界)に属する煩悩を生じることがある。
例えば、定に執着することで憍(おごり)、誑(偽り)、諂(へつらい)が生じる。
(2) 上位の地に生じた場合
下位の地(欲界)に属する煩悩が生じることがある。
例えば、邪見や愛着(貪)が共に生じることがある。
(3) 小随煩悩の10種
上位の地(色界・無色界)に生じた場合、欲界の煩悩は生じない。
これは、正しい修行によって低次の煩悩が制御されているためである。
結論
随煩悩の発生は、根本煩悩の影響を受けるが、その性質により異なる環境で異なる振る舞いをする。
煩悩の組み合わせや受(感覚)との相関関係に基づいて、煩悩の発現が異なる。
三界における煩悩の制約を理解することで、心の働きをより詳細に分析できる。
有義小十下不縁上。行相麁近不遠取故。有義嫉等亦得縁上。於勝地法生嫉等故。大八諂誑上亦縁下。下縁慢等相應起故。梵於釋子起諂誑故。憍不縁下非所恃故。二十皆非學無學攝。此但是染彼唯淨故。後十唯通見修所斷。與二煩惱相應起故。見所斷者隨迷諦相或總或別煩惱倶生。故隨所應皆通四諦。迷諦親疎等皆如煩惱説。前十有義唯修所斷。縁麁事境任運生故
随煩悩の詳細な分析(続き)
1. 随煩悩の対象(縁)についての議論
随煩悩がどのような対象(縁)に対して生じるのかについて、いくつかの異なる見解がある。
(1) 小随煩悩(10種)の対象
「小随煩悩は下位の地(欲界)の対象にのみ縁じ、上位の地(色界・無色界)の対象には縁じない」とする説
小随煩悩の働きは粗雑であり、より高次の状態には適応しないと考えられる。
そのため、色界・無色界の対象には関与しないとされる。
「嫉などの一部の小随煩悩は、上位の地(色界・無色界)の対象にも縁じる」とする説
例えば、上位の境地にある優れた法や徳に対して嫉妬の心が生じることがある。
そのため、小随煩悩の中にも上位の対象に縁じるものがあると考えられる。
(2) 大随煩悩(8種)の対象
「諂(へつらい)・誑(欺き)は上位の地(色界・無色界)にも縁じる」とする説
下位の地(欲界)の要素に対して慢(おごり)を持つ心が生じることがあるため、色界や無色界の修行者も下位の事象に対して諂いや欺きを持つことがある。
例えば、梵天(色界の神々)が釈迦族の修行者に対して諂いや欺きを抱くことがある。
「憍(おごり)は下位の地には縁じない」とする説
憍(おごり)は、自分が他より優れていると感じる心の働きであるため、より低位のものに対しては自然に生じることがない。
2. 随煩悩と学(修行段階)の関係
「随煩悩は学・無学のいずれにも属さない」
随煩悩は基本的に「染(煩悩に染まる心)」に分類される。
一方、「学(修行段階)」や「無学(悟りを得た段階)」は清浄な心の状態であり、随煩悩とは無関係である。
3. 随煩悩の断除(断たれる過程)
随煩悩がどのような段階で断たれるのかについて、以下の二つの見解がある。
(1) 後十の随煩悩(大随煩悩+中随煩悩)
「後十の随煩悩は、見所断(見道によって断たれる)と修所断(修道によって断たれる)の両方に通じる」
これは、後十の随煩悩が煩悩と共に生じるため、見道(四諦の理解による修行)によっても修道(修行の深化)によっても断たれることがあるという立場である。
「見所断(見道によって断たれる)」
見道の段階では、四諦(苦・集・滅・道)の迷いを克服することによって煩悩が断たれる。
煩悩と共に生じる後十の随煩悩も、この段階で克服される。
「修所断(修道によって断たれる)」
修道の段階では、より微細な煩悩を取り除いていく。
見道では完全に断たれなかった随煩悩が、修道によって消滅する。
(2) 前十の随煩悩(小随煩悩)
「前十の随煩悩は修所断のみで断たれる」
これは、小随煩悩が「粗雑な事象を対象として、自然に生じる(任運生)」ためである。
つまり、見道の段階では断たれず、修行を積むことによって徐々に断たれる。
結論
随煩悩の対象(縁)には、小随煩悩が欲界のみに関与するという説と、嫉妬などが上位の地(色界・無色界)にも関与するという説がある。
大随煩悩の一部(諂・誑など)は、上位の地の修行者が下位の地の存在に対して抱く可能性がある。
随煩悩は、学(修行段階)や無学(悟りを得た状態)には属さない。
後十の随煩悩は、見道と修道の両方の過程で断たれるが、前十の随煩悩は修道の過程でのみ断たれる。
このように、随煩悩の性質と修行による断除の過程が詳細に分析されている。
有義亦通見修所斷。依二煩惱勢力起故。縁他見等生忿等故。見所斷者隨所應縁總別惑力皆通四諦。此中有義忿等但縁迷諦惑生非親迷諦。行相麁淺不深取故
有義嫉等亦親迷諦。於滅道等生嫉等故。然忿等十但縁有事。要記本質方得生故。縁有漏等准上應知
成唯識論卷第六
随煩悩の断除と迷諦(四諦に対する迷い)
1. 随煩悩の断除に関する異なる見解
随煩悩がどのように断除されるのかについて、以下の異なる見解がある。
(1) 見所断と修所断の両方に通じるという見解
「随煩悩は見道(見所断)と修道(修所断)の両方によって断たれる」
随煩悩は二つの根本煩悩(見惑・修惑)に依存して生じるため、どちらの方法によっても断たれる可能性がある。
例えば、他者の誤った見解(邪見)を見聞きすることによって、怒り(忿)や憎しみ(恨)が生じることがある。
そのため、これらの随煩悩は見惑(誤った見解による煩悩)によって生じることがあり、見道によって断たれることがある。
(2) 見所断は迷諦に関連するが、随煩悩は直接迷諦を起こすものではないとする見解
「随煩悩は四諦に直接関与するわけではない」
見所断される煩悩は、四諦(苦・集・滅・道)に対する根本的な迷いによって生じるが、随煩悩はそのような深い迷いではなく、より表面的な反応として生じる。
例えば、「忿(怒り)」や「恨(怨み)」は、四諦に対する深い無知から生じるわけではなく、日常的な事象に対する感情的な反応として生じる。
そのため、随煩悩は見惑とは異なり、修道による修所断の過程でのみ克服される。
2. 随煩悩と四諦の関係
(1) 随煩悩の一部は四諦に対して間接的な迷いを生じさせる
「嫉(しっと)などの一部の随煩悩は、滅諦(涅槃)や道諦(修行の道)に対して迷いを生じさせる」
例えば、他者が涅槃を目指して修行しているのを見たとき、嫉妬の心が生じることがある。
これは、滅諦や道諦に対する間接的な迷いが原因となっている。
(2) 忿(怒り)や恨(怨み)などの随煩悩は、具体的な事象に対してのみ生じる
「忿(怒り)や恨(怨み)などの随煩悩は、具体的な対象(有事)に基づいて生じる」
これらの随煩悩は、何か特定の事象や人に対する反応として生じるため、四諦の教理に対する迷いが直接の原因ではない。
例えば、何か理不尽なことが起こったときに怒りが生じるが、これは必ずしも四諦に対する迷いから生じるわけではない。
3. 随煩悩の生起条件
(1) 記憶されている過去の出来事に基づいて生じる
「随煩悩は、過去の出来事が記憶され、それに基づいて生じる」
例えば、過去に経験した不快な出来事を思い出したときに怒りが再燃することがある。
したがって、随煩悩は「記憶された本質(質)」がある場合にのみ生じる。
(2) 有漏法(煩悩に基づく現象)を対象とする
「随煩悩は、基本的に有漏(煩悩に依存する現象)を対象とする」
すなわち、無漏法(悟りや清浄な境地)を対象とすることはない。
例えば、怒りや嫉妬などの随煩悩は、悟りを得た聖者の純粋な心には生じない。
結論
随煩悩の断除については、見所断と修所断の両方に通じるという説と、修所断のみで克服されるという説がある。
嫉妬などの一部の随煩悩は、四諦(特に滅諦や道諦)に対して間接的な迷いを生じさせることがある。
しかし、怒りや怨みなどの随煩悩は、四諦の理解とは無関係に、具体的な出来事に対する反応として生じる。
随煩悩は記憶された過去の出来事や有漏法(煩悩に依存する現象)を対象として生じる。
このように、随煩悩の生起条件や四諦との関係が詳細に分析されている。