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坐禅:「未知の感覚」を「ただ観る」ことの意味

心の中に「未知の感覚」が生じた時、それを無理に意味づけするのではなく、「ただ在る」状態にしておくこと。その実践に役立つ心理学の考え方を参照しながら、そこから広がる可能性をまとめてみました。


「未知の感覚」

ふと心に浮かぶものの、まだ形を持たず、言葉にもならない感覚。私は、それを「未知の感覚」と名付けました。意識の表層に現れる前の、ごく微細な心の動きとも言えるかもしれません。

その感覚を、すぐに言葉や意味に置き換えるのではなく、ただ在るものとして、そのままにしておく。そこに、新たな気づきが生まれるかもしれません。この考えについては、『坐禅:「どこにも辿り着かない」ということ』で詳しくまとめています。

心理学の視点から見る「未知の感覚」と「心の動き」

「心の動き」は、「未知の感覚」が生じたとき、何らかの感情に紐づける工程。この動きは、この人間が未知のものに対して不安を感じ、それを既知のものに置き換えようとする本能的な作用と深く関係しているようです。

心理学の世界では、人は無意識のうちに「未知の感覚」を知っている何かに結びつけ、意味を与えようとする傾向があることが明らかにされています。これは自己防衛本能の一部であり、不確実なものを受け入れることへの耐性(不確実性耐性)の低さとも関連しているようです。

例えば、夜道で何かの影を見たとき、それが何かを確認する前に「人影」や「危険」と解釈してしまうことがあります。これは、不確実なものを既知のものに結びつけ、安心しようとする本能的な作用のようです。

以下の心理学的概念が、この「心の動き」に関連すると考えられます。

・不確実性耐性 (Intolerance of Uncertainty) – 人間は不確実なものや未知のものに対して、本能的に不安を感じ、意味づけをして安心しようとする傾向があります。

アポフェニア (Apophenia) – 無意味なものに意味を見出そうとする心。「意味のないものに意味を与える」ことは、安心感を得るための脳の自然な働きです。

認知的不協和(Cognitive Dissonance) – 人間は「理解できないこと」や「矛盾したこと」に直面すると、不快感を覚え、それを解消するために意味づけを行おうとします。

アンビギュイティ・トレーニング(曖昧さ耐性) – 「未知の感覚」とうまく向き合うためには、「曖昧さに耐える力」を高めることが大切だと言われています。

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Blindspot: 無意識の中の「心の動き」

「本能的に不安を感じ、意味づけをして安心する」「意味のないものに意味を与える」「不快感を覚え、それを解消するために意味づけを行う」—— そんな心の動きは、私たちの無意識のレベルで起こっているようです。ここで注意したいのは、その「心の動き」の正確性ではないかと思うのです。

私は、「未知の感覚」を無意識のうちに何らかの感情や思考へと変換していたとすると、その変換された感情や思考が本当に「未知の感覚」に適したものだったのかどうかという疑問が残ります。

例えば、「不安」という感情が先に生じ、その不安を解消するために「未知の感覚」に無理やり意味を与え、「何らかの感情」に結びつけていたとしたらどうでしょうか。 その場合、それは本当に「未知の感覚」が結びつくべき感情だったのかと疑問が湧いてきます。

この無意識のプロセスにより、「未知の感覚」が本来持っていた可能性は、すでに刷り込まれた過去の記憶や思考パターンによって限定されている可能性があるのではないか——そう感じています。

もし、「未知の感覚」を無理に意味づけすることなく、ただそのまま観ることができたなら、もしかすると違う感情と紐づいていたのかもしれません。そして、最も重要なことですが、どの感情とも紐づかない「どこにも辿り着かない」という選択肢も浮かび上がります。

「未知の感覚」から広がる可能性

もし「未知の感覚」を、無理に意味づけせずに「ただ在る」ままにしておけるとしたら、何が変わるのでしょうか?この問いを考えるために、車のエンジンを例にして、さらに掘り下げてみます。

「未知の感覚」とは、エンジンがかかったままの車のようなもの?

「未知の感覚」は、まるでエンジンがかかったままの車なものかもしれません。エンジンは動いているけれど、アクセルは踏まれておらず、ただ静かに振動している状態。この「アイドリング状態」を観察することで、新たな気づきが生まれるのではないでしょうか。

これまで私は、この「未知の感覚」を無意識のうちにアクセルを踏み(=感情に変換)、ハンドルを切って(=思考でコントロール)しまっていました。もしこの「アイドリング状態」に留まり、アクセルを踏む前の状態を意識的に観察できたらどうでしょうか。

心の動きと車の例え

車のエンジンの状態と、心の中で起こるプロセスを照らし合わせてみます。

  • アイドリングのままでいる → 言葉になる前の「未知の感覚」= ただ在る

  • アクセルを踏む → 感情に変換

  • ハンドルを切る → 思考でコントロール

通常、私たちは「未知の感覚」が生じた瞬間、本能的に無意識のうちにアクセルを踏み(=感情として認識し)、その感情に基づいてハンドルを切り(=思考でコントロール)していることが多いのではないでしょうか。

ここで大切なのは、「アクセルを踏む前に、一度アイドリングの状態に留まれるかどうか」です。つまり、「未知の感覚」を、そのまま「ただ在る」としておけるかどうかではないでしょうか。

面壁坐禅の奥深さ

面壁坐禅は、ただ壁に向かって坐る。外界の刺激を遮断し、何かを「する (doing)」ことなく、ただ「ある (being)」ことを実践する時間です。

坐禅中、心には様々な思いやイメージなどの景色が浮かびます。それらに飲み込まれず、ただ観ることを続けることで、「心を観る」力が育まれていくのかもしれません。

坐禅中の意識の状態を観察しました。詳細は 坐禅:「ただ在る」」 にまとめています。

坐禅中の意識の状態
自己体験から振り返る、私の坐禅中の意識の状態です。

1. 「目に映っている物」を見て、思考している。
2. 「心に映る景色」を、現実に起こっていることのように感じている。
3. 「心に映る景色」を追いかけ、次々に思考を重ねている。
4. 「心に映る景色」を見つめながら、「ただ観るだけ」にしようとしている。
5. 「心に映る景色」を、「ただ在るだけ」にしなければとしている。
6. 呼吸に集中して、「心に映る景色」は気にならなくなっている。
7. ただ在るだけ

坐禅:「ただ在る」

今、この瞬間(Be present)

言葉になる前の原始的な「未知の感覚」に意識を向ける時、 それは「ただ在る」状態なのかもしれない——そう思い始めました。

そう考えることで、これまで何度も耳にしてきた言葉の意味が、ようやく腑に落ちるように感じています。ずっと理解できなかった 「今、この瞬間」 "Be", "Be present", "Here and now", "Stillness" という表現。

言葉になる前の『未知の感覚』を、ただ観る。それが、そのまま『今』として静かに現れてくる——そんな現象のことを、指し示していたのかもしれません。

「今、この瞬間」の中に、本当の自由があるような気がしてきました。