00. 『医経解惑論』連載にあたって
みなさんが古典医学を学ぶ上で、現在に至るまで、その勉強法について紆余曲折してきたと思います。私もそのひとりです。
内藤希哲もそうで、当初は古典医学の真理は『素問』『霊枢』『難経』『神農本草経』にあると教えられ、それらをよく学び、そしてその解説書を読みました。しかし、まだ迷いが残りました。
また 中国の書物には日本人と合わない所があるので、日本の書物を読みなさいとも言われました。 そして日本の書物を読んだわけですが、それでも迷いが残りました。
いろいろやっているうちに、『傷寒論』に出会いました。そして『傷寒論』には一貫した理論があることに気づき、何度も読み返し、脈状・病証・処方・経脈などに分類して読み進めました。 そのようにして再び『素問』『霊枢』『難経』『神農本草経』を読むと理解が深まり、他の書物の真偽も分かるようになり、正しく読めるようになりました。
なぜなら『傷寒論』は急性熱病に対する治療書のように言われていますが、そうではなく、古典医学の真理が書かれていたからです。
内藤希哲は、1701年に信州松本で生まれました。そして1735年に34歳の若さで亡くなっています。江戸時代の元禄から享保で、徳川綱吉から吉宗の時代です。赤穂浪士の討ち入りや、享保の改革が有名です。
希哲はその短い人生で、『医経解惑論』『傷寒雑病論類編』を著述しました。その内容は、『素問』『霊枢』『難経』『神農本草経』の説に基づき『傷寒論』を解明するという古典医学の真理を突いたものでした。しかし出版までには及ばず、その後、子息や弟子門人によって、『医経解惑論』は没後41年、『傷寒雑病論類編』は81年後にようやく出版されます。そしてその後も、あまり日の目を見ることはありませんでした。
その背景としては、希哲の考えとは対をなすといってもよい、「古方派」の台頭があります。
「古方派」とは、
とあり、『傷寒論』をその理論・治療の主とするものの、『素問』『霊枢』『難経』の説などは、排斥した立場にいます。その代表的な人物が吉益東洞であり、現代日本漢方の源流であるといってもよいでしょう。
そのような流れの中、希哲の書物・考えは、長年世に知られない存在でした。それが近年、「北里研究所附属東洋医学総合研究所」によって複製され、小曽戸丈夫先生によって1981年に意釈本が出版されて、知られる存在となりました。そして、中医学の台頭などにより、「後世方」が再注目されることで、『素問』『霊枢』『難経』『神農本草経』の説に基づき『傷寒論』を解明するという考えも一般的になってきました。300年経って、ようやく時代が追いついたのです。
そもそも『傷寒論』の序文には、『素問』『霊枢』『難経』『神農本草経』などを参考にして書かれたとの記述もあります。しかし、後人の再編などにより、その真意がつかみにくくなり、たくさんある解説書も的を射ているものが少なくなってしまったのです。
希哲の『医経解惑論』『傷寒雑病論類編』は、その真意を学ぶのにふさわしい書で、私自身も、幾度も目から鱗が落ちる思いをしています。
そもそも私の師匠である池田政一のライフワークが鍼灸理論と漢方理論の統合であり、その根幹は『素問』『霊枢』などの古典医学にあり、『傷寒論』もそれらを参考に読むというスタンスなのですから。内藤希哲はわれわれの先達なのです。
『傷寒雑病論類編』は、『傷寒雑病論』をその著者である張仲景の真意に基づいて、希哲が再編・解説したものです。この本の解説は、私がウェブ連載『経絡治療からみた傷寒論』にて書き進めています。
『医経解惑論』は、その希哲の理論の部分、いかに医学書を読むか、いかに病人の身体をとらえるか、について書かれています。医経(医学)についての「惑い」を「解く」書物です。これを読めば、古典医学に対する迷いが解消するということです。
このたびの連載をきっかけに、みなさんにこの書物の素晴らしさを知っていただきたいと思います。『難経本義諺解』の解説を終えた太田智一先生に読み下しをお願いし、私が自身の経験も含めた解説をつけていきます。本連載が、みなさんの研究臨床の礎となることを願っています。
>>01醫論
<目次>
<京都大学貴重資料デジタルアーカイブ>https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/
『医経解惑論 3巻』(京都大学附属図書館所蔵)