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インガ [scene003_02]

バイパスを使えば25分、というのは地図アプリの統計データで、実際にかかった時間とは少し乖離があった。

というのも、私がうたた寝する間もなく、車はおよそ15分程度で目的地に到着したのだ。

『君、法定速度って知ってるかい』

「5年前の常識がまだ通用するなら、ただの道路標識だ」

睦月のスピーカーから、これみよがしに大きな溜息が聞こえてくる。

『そう認識しているなら、書かれていることを守れよ…』

そんなハルさんのうんざりした声を無視して、建物から少し離れた位置に車を停めるヒバカリさん。

脇のレバー(サイドブレーキというらしい)をギチギチと音を立てながら引き上げて、エンジンを切る。

「さぁ、着いたぞ。ハル、睦月は置いていく。流石に、施設内で連れ歩くにはナリが目立ちすぎるからな」

そう言ってシートベルトを外し、車外に出ようとするヒバカリさんを、ハルさんが慌てた声で引き留めた。

『ヒバカリ、ダッシュボードを開けてみてくれ。君の仕事道具が入ってる』

「ん?…悪い、ヨシノくん、失礼するよ」

と、ヒバカリさんの左手が伸びてきてドキッとした。しかし、その手は私に触れることはなく、助手席前のボードをまさぐる。

ガコッと音がして、隠し扉のようなものが開いた。なるほど、こんなものが…。

見慣れない車の内装に関心した次の瞬間、その中から現れた物体を見て、ギョッとする。

「じ、銃?」

「まさか、こいつを組織に届けてほしい、なんて言い始めたりはしないだろうな?見る限り、こいつは呪われた骨董品じゃあなさそうだが」

『それのどこら辺がメキシカンに見える?君が財善で使っていたグロックさ。昔の映画に例えるにしても、チョイスがマイナーなんだよ、君は』

ハルさんの苦言をあしらいながら、ヒバカリさんは慣れた手つきで拳銃を検める。

どうやら、本物らしい。

「正真正銘、俺の銃だ。よく回収できたな」

『まあね、それなりに苦労はしたよ…感謝してくれ。使わないことを祈るけど、身を守る準備をしておくに越したことは無い』

品物とセットでダッシュボードに入っていたハーネスのようなものを装着し、脇のホルダーに銃を仕舞い込むヒバカリさん。

それを隠すようにジャケットを羽織りつつ、

「ご親切にどうも」

『あと、IMGのパーソナルネットを構築しておいた。オンラインにしなくても、睦月を介した通信ができる。何かあったら、声をかけてくれ』

この人は一晩でどれだけ仕事をしていたのだろうか。

睦月の修理、車の用意、ダミーアカウントの調達、パーソナルネットとやらの構築。車の用意についてはともかくとして、その他は小手先でどうにかなるとは思えないのだけど。
お膳立てが整いすぎていて、何もしていない自分が何だか恥ずかしい。

ヒバカリさんの反応を見るに、この手際の良さがハルさんの通常運転で、だからこそ信頼できる相棒と言い切れるのだろう。

「ヨシノくん、こいつを装着してくれ」

と、シールのような物を手渡してきて、同じ物を耳の後ろと喉仏付近に貼り付けるヒバカリさん。

それはハルさん手製の通信機器で、耳につけるシールがスピーカー、喉につける方がマイクのような機能を持つらしい。

示されるままシールを貼り付け、軽く動作確認をしてから車を降りる。

だだ広い駐車場にはほとんど車が無くて、財善メディカルセンターの全貌がよく見えた。

「世界で最も美しい」と称されたバルセロナのサン・パウ病院を模してデザインされたという外観は、主に桃色のレンガが外壁に使われていることもあって、医療施設というよりは教会のようだ。

差し詰め私は、救いと加護を求めて巡礼にきた迷える子羊、といったところだろうか。

「…さて、行こうか」

どことなく、ヒバカリさんの声音に違和感がある。

車内で感じたそれとは違い、どうも気が進まないといった様子だ。

しかし、そんな印象とは反対に、迷いのない足取りで建物に向かって行く。

置いていかれないよう、私も足早に続いた。

『ふたりとも、聞こえてるね?さっき、センター内のセキュリティとこっちの端末を繋いだ。…よし、院内に怪しいところは無さそうだね、オールクリア』

「ご苦労さん。安心していい、ヨシノくん。念のために物騒な物を持ち込んでいるが、ここは安全だ」

こちらに目をやり、優しく微笑むヒバカリさん。

さっきの(ピンとこない)ジョークといい、狙われている宣言をした手前というのもあるのか、気遣ってくれているのだろう。

でも、実のところ私は特に不安を感じているわけじゃなかった。

蜘蛛型ロボットや黒インガを思い出すと、そりゃあ全身の毛を逆撫でられるような恐怖がある。かすり傷で済んだとはいえ、カオリのことを思うと心が痛む。

生まれて初めて味わった、生命が脅かされる感覚。

その元凶を排除してくれたのは、他ならぬヒバカリさんだ。
出会ってからまだ丸一日と経っていないけど、この人が私を守ってくれたことは事実。

彼が「安全確保が目的だ」と言うなら、従うことに異論は無い。

そんなことを考えてる間に、建物が目の前に迫っていた。

財善メディカルセンター。

かつて医科大学が運営していた研究施設を財善が買い取り、莫大な資本と人的リソースを投下するとともに技術提供を行い、日本列島随一の規模とサービス品質を誇るようになった医療機関。

企業自治が推進されていた当時、高品質な医療を安定供給できるかどうかというのは、自治権獲得を目指す各社に共通する大きな課題のひとつだった。

国家の崩壊が致死レベルの感染症パンデミックに端を発している以上、医療サービスを提供し続ける体制を整えることは、統治の前提条件となっていたのだ。

生活の基盤となる衣食住だけなら、ある程度の規模感をもつ企業にとって難無くクリアできる。でも、専門性の塊である医療分野はそうもいかない。

運良く国立医大病院などと合併できたとしても、政府の瓦解によりまともな運営を続けられている医療機関は数えるほどもなかったので、経営の建て直しに金と時間を奪われるばかりで望ましい結果を得られた企業は見当たらなかった。

モデルケースがないから、資本に物を言わせることができる大企業も、その多くは私立病院を買収するなり開業医を抱え込むなりして、草の根的に「医食住」を整えていくしかなかった。

ところによっては、医科大学が企業を吸収して企業自治体になった事例もある。

その点、もともと医療器具メーカーの出自を持ち遠隔医療サービスを事業展開していた財善コーポレーションには、他社と比べて大きなアドバンテージがあった。

感染症予防および治療に必要な器具・薬品、それを提供するチャネルと人材。
それらが既に揃っている一般企業は当時としては珍しく、ネオ豊田の自治権は競合がいない財善の手中に収まることとなる。

それは出来レース的で、世間にとって財善はまんまと据え膳をいただいたように見えていた。

たとえ紙の上で権利を得ることができても、相手にするのは人間で、心理的に正当性を主張できない限りは実質的な統治など実現しない。

要するに、財善は市民に愛される必要があったのだ。

愛されるためには、まずは愛していますよと伝えなくては始まらない。つまり、市民の生命を護りますという確固たる意思表明。

そんなわけで、財善は大枚を叩いてメディカルセンターを購入し、惜しみなく手をかけることでネオ豊田シティの「医療の象徴」を打ち建てることにした…。

これが、私でも知っている財善メディカルセンターのバックグラウンド。

この辺は裏事情というよりワイドショーのネタみたいなもので、真の目的は他にあるという与太話(ゴシップ)も枚挙にいとまがない。

化石みたいな匿名掲示板なんかでは、ウィルス研究をして新型生物兵器を作ろうとしている、なんて陳腐な噂も流れている。

実態としては至極真っ当な医療研究施設なのだけど、それを私が知っているのは、幼い頃に何度もお世話になったからだ。

無論、幼女だった私には裏事情の有無すらわからなかったけど、ここで働く人たちの優しさや仕事の丁寧さなら身をもって経験している。

ここなら、安全。

ヒバカリさんの言葉は、私自身の記憶が裏打ちしていた。

『おはようございます。お手数ですが、IMGの認証手続きを行なってください』

センター入り口前で私たちをお出迎えしてくれたのは、白い陶器のようなボディの小型ロボット———と言っても小学生くらいのサイズはあるけれど———だった。

この子の名前(製品名)は、確かアイボット。ちょっと前に財善が子守用にリリースして、あまり流行らなかった家庭用ロボットだ。

胸元のモニターを差し出して、認証手続きを要求してくるアイボット。

どうしよう…認証をパスするには、IMGへのログインが必要だ。それをするわけにはいかない、という話をしたばかりだったので、あからさまに焦ってしまう。

助けを求めようとヒバカリさんを仰ぐと、

「大丈夫だ。すぐに来る」

来るって、何が?

そう返そうとしたとき、自動扉が開いて白衣の男性が現れた。

「久方ぶりだな、ヒバカリ。5年ぶりに顔が見れて嬉しいよ」

滑らかなようでいて重厚な低音ボイスを、ゆったりとした話し方が引き立てている。

白衣のの上からでも筋肉量が伺えるがっしりとした体格と、190センチは超えているだろう長身も手伝って、なんとも言えない迫力がある人だ。

「ご無沙汰してます、ハナヤシキ先輩」

「まったくその通りだな。しかし、お前にも事情があったのだろう」

この人が、ハナヤシキさん。
名前の可愛らしい語感を裏切る、大柄の男性だ。

先輩と呼ばれるからには、歳はヒバカリさんとそう離れてもいないのだろうけれど、印象だけで言うなら40は超えている。

短く切り揃えられた髪は襟足が刈り上げられており、頬骨が強調された四角い顔は削り出された岩を思わせる。

白衣よりも勲章で彩られた制服が似合いそうな、軍将校のイメージがしっくりくるような人だ。

「立ち話ではなんだ、私の部屋に来なさい。案内しよう」

有無を言わさぬ、とはこういう雰囲気のことなんだろう。

緊張感を伴いつつも、素直に従う他なく、私たちは既に歩き始めた彼の背中を追った。

ガラス張りの大きな自動扉をくぐり、院内に足を踏み入れる。

そこは森だった。

高い天井から差す陽の光は優しく、鳥の囀りや風で樹葉が擦れ合う音、小川のせせらぎが耳に心地良い。

物理的に広々としているエントランスだけど、壁紙のナノフィルムが映す森林には奥行きがあり、まるで屋外のような開放感がある。

およそ室内とは思えない演出で彩られたその空間は、やはり病院らしからぬ装いで、宗教施設のような外観とも食い違っていた。

所々に設置されたソファやクッションでは、患者らしき人たちがモブをいじったり本を読んだりして寛いでおり、その表情があまりに朗らかなので、どこかが病んでいるとはとても思えない。

ちらほら医師と思しき白衣の人影も見えるけど、誰も彼もゆったりとした歩調なので、少しの忙しさや慌ただしさも感じない。

足元に視線を落とすと、ラグマットのような床材であることに気づく。

なるほど、だからほとんど足音がしなくて、ここはこんなにも心地良い静けさに包まれているんだ。

最新技術によって創られた、癒しの森。

そんな中、フロア中央にガラス張りの円筒がそびえている。

所々をワイヤーで固定された、天に向かって真っ直ぐと伸びる塔。

自然の豊かさで彩られたエントランスにおいて、その人工物は異彩を放っている…ということはなく、景観を損ねないよう配慮されたデザインのためか、むしろ神秘的ですらあった。

円筒の一部がスライドするように開き、中から数名の医師や患者が出てくる。そうか、これはエレベーターなのか。

ハナヤシキさんが進むままに、私たちもその昇降機に乗り込む。
パネル操作で指定された行先は、最上階だ。

静かに、それでいて速やかに床が上昇する。
360度が透き通るようなガラスで囲われているので、森林が遠ざかる様子をダイナミックに見渡せて、私は宙に浮くような錯覚に陥った。なんだか、キャトルミューティレーションされているみたい。

一望するエントランスの風景が幻想的だったので、思わず、わぁっと溜息が出てしまう。

「来るのは初めてだったか、ヨシノくん?」

「いえ…でも、こんなじゃなかった」

「ふむ、お嬢さんは以前のここを知っているようだね。5年ほど前に改修工事を執り行ってね、そこの後輩が我々の前から姿を消す少し前のことだよ」

敢えてだろうか、ハナヤシキさんの少し意地悪な物言いに、居心地悪そうな表情で頭を掻くヒバカリさん。

「その節はご心配を…ハルからも説教を喰らいました」

「新川か。彼は元気にやっているのかね?」

「ええ、相変わらずですよ」

「そうか。たまには顔を見せろと伝えてくれ。会社を辞めてから、新年の挨拶ぐらいしか寄越さない」

乾いた笑い声で返すヒバカリさん。苦笑いである。

会話が途切れ、その後は終始無言となった。

何となく気づいていたけど、あまりこの人が得意ではないのだろう。正直、私もあまり居心地が良くない。

当のハナヤシキさんがどう思っているのかは、窺い知れないけれど。

癒しに満ちた院内で、彼の醸し出す雰囲気は異様に感じる。口調と振る舞いは穏やかだけど、ピリッとした緊張感がある人だ。

―――12階です。

と、アナウンスと共にハープを奏でるような音がして、エレベーターが緩やかに停止する。

最上階に到着してまず視界に飛び込んできたのは、骨だった。

人類の進化を表した、6つの骨格標本。

猿から猿人、原人、新人を経て現代人へ。
歴史の教本にも挿絵として掲載されている、有名な構図だ。

ただし、目の前のそれはイラストで見たものと少し違っていて、右端の現代人が右手を伸ばして人差し指で球体に触れている。

球体が何を示しているのか判らないけれど、もしかしたら人類がやがて真理に触れるだろうという示唆かもしれない。
だとしたら随分と烏滸がましい美術調度品だけど、この場所にはしっくりと馴染んでいた。

辺りを見渡すと、壁には高そうな絵画がいくつも飾られており、エントランスの優しさや外観の厳かさとも違ったアカデミックな雰囲気を醸している。

その奥、大きな木製の扉の脇に、受付窓口のようなデスクがあった。

スーツを着た女性が、忙しそうに端末を叩いている。

と、こちらに気づいたようで、作業の手を休めてにこやかに微笑んでくれた。

「いらっしゃいませ。局長、お疲れ様です」

「邪魔をしてすまないね。気にせずに続けてくれ」

局長…ハナヤシキさんは、ここの局長だったのか。

目の前の人物が「財善が誇る医療の象徴」の長という事実には些か驚いたものの、さっきから目にしてきた立ち居振る舞いとその肩書きはすんなりと合致して、妙に納得した。

「入りたまえ。遠慮はいらない」

そう部屋の主が促すので、受付のお姉さんに会釈しつつ、局長室に入る。

外観を教会、エントランスを森と例えたけど、ここは図書館というに相応しい。

個室というには広すぎるフロアは角のない丸い間取りで、本棚になっている壁が、吹き抜けるように高い天井に向かって延々と続いている。
その全てにぎっしりと本が敷き詰められていて、もしかしてこの世全ての書籍が集結しているような気さえする。

所々に梯子が備え付けられていて、その使い込まれた傷み具合を見るに、どうやらファッションで取り揃えた蔵書ではないらしい。

部屋の中央には、応接用のローテーブルと見るからに座り心地の良さそうなソファが置かれていて、その奥に目をやると「いかにも」なデスクがあった。

扉の上下左右すらアーチのように本が詰め込まれているこの部屋で、デスクの背面だけは本棚の切れ目となっており、代わりに巨大な窓ガラスが嵌め込まれている。

良く見ると、そのガラス板にも天使やキューピッドのモチーフ———ラファエロの作品を模しているのだろう———があしらわれていて、その前に立ったら絵画の一部みたいになるだろうなと思った。

それにしても、建物に入ってからここまで、白衣以外に病院らしいものを見ていない。こうなると、いよいよ医療施設なのかどうか怪しくなってくる。

「掛けたまえ。楽にしていい、そのためのソファだ」

言われた通り、高級そうなソファに腰掛ける私とヒバカリさん。
想像以上にフカフカとしたクッションが腰を包むように受け止めるので、座るというよりは沈み込むような格好になった。

あまりにも身体が沈むので、足が床から浮いてしまい、なんだかちょっと恥ずかしい。

その様子を横目にして、ヒバカリさんがクスクスと笑った(すこし腹が立つ)。

対面にハナヤシキさんが座り、

「お茶をお持ちしました」

と、さっきのお姉さんが脇に立っている。
いつの間に入ってきたのか…気づいていなかったのでビックリした。

「君が珍しそうに窓の天使を眺めてたときさ。ちゃんとノックもしてくれたぜ」

そう言いながら、ヒバカリさんが更にクスクスと笑う(やっぱり腹が立つ)。

お姉さんまで「綺麗だもの、見入っちゃうわよね」なんてフォローしてくれるものだから、いたたまれない。

各々にお茶を出し終えると、お姉さんは軽く頭を下げて部屋を出て行った。去り際に、こっそり私にウィンクを投げていく。

なおさら恥ずかしくなり、私は出されたばかりのティーカップに口をつけて顔を隠した。

「ヒバカリ、お前は少しくらい芸術に興味を持った方がいい。お嬢さん、申し遅れた、私は花屋敷 薫…ここの局長職を拝しているものだ。君のことはそこの彼から聞いている…染井さんのご息女だそうだね。当院はお気に召したかな」

「こちらこそはじめまして、染井芳乃です。…はい、素敵だなと思います」

「そうだろう。潰れかけの施設を押し付けられたときは、どうしたものかと頭を抱えたがね。ここまで仕上げるには足掛け6年かかったが、おかげで満足のいく代物になったよ」

なんと、サン・パウ病院を模した外観もエントランスの癒しの森も、ハナヤシキさんが手ずからプロデュースしたものだという。

お堅いようでいて、実は芸術に造詣が深く、聞けば暇を作っては油絵を嗜んだりしているらしい。

「こう見えても、私は感情や感覚というものを大事にしていてね。人を癒すためにあるべき医療施設が、冷たいコンクリとお役所的な事務対応で固められているなど、到底我慢ならなかったのだよ」

「それで、改修工事で造り替えたんですね。まるで別物です」

私の感想に、ハナヤシキさんが満足げに微笑む。

「文字通りの別物だよ。何せ、ここを一度更地にしてから、新しく象徴たり得る施設を建て直したのだからね。
最初はね、古びた建物や時代遅れも甚だしい機器、医者を単なる研究職だと勘違いしている老害ども、これらをどう理想に近づけたものかと思案した。正直に言って、苦戦したよ。
特に、プライドばかりが一人前で柔軟性を欠いた医師たちは、私がどれだけ医の何たるかを説いても変化がなかった。
そこで発想を換えた。
潰れかけているなら、いっそ本当に潰して造り替えてしまえばよい。
汚れたカンバスも、帆布を貼り替えれば思うままに絵筆を走らせることができる。
そう決めてしまえば、あとは金と労働力の問題だ。しかしそれは、財善の資金力と人的資源がすべて解決してくれた。
流石に時間ばかりはどうにもならず、段階的に進めざるを得なくて、ある程度の体裁を整えてから改修を重ねることにはなったがね」

心底楽しそうなハナヤシキさん。

目を輝かせて饒舌に語るその様子からは、ここまで見えることのなかった彼の感情が露骨に伝わってきて、私は…なんだか少しぞっとした。

理想を実現するために行ったという、破壊と創造。嬉々としてそれを語る様子は、美しく無いものに価値はないと断じているようで、ある種のファシズムを感じてしまう。

でも、車を降りてから目にした全ては確かに美しいものばかりで、まるで完成された美術品のようだった。

こうあるべきだという確固たるコンセプト。
それに基づいて設計された、医療の象徴というタイトルを冠する、ハナヤシキさんの作品。

細部まで手抜かりのない演出の数々は、こう言ってよければ彼が施設をとことん私物化した結果に他ならない。
おそらく、極端にも思える思想の持ち主だからこそできる仕事だったのだろう。

それだけじゃなく、その大仕事を任されるだけの信頼と実績が、このハナヤシキさんという人物には備わっていたということでもある。

統治の要といえる、象徴的な医療施設の創出。

財善にとっても一世一代のプロジェクトだったろうに、それを任されて完遂したという事実は、責任者の手腕と人徳の高さを裏付けている。

そこまで考えて、私の中にはひとつの疑問が浮かんだ。

モルモット仲間に会いに行く。

ここに来る前、ヒバカリさんはそう言った。

ハナヤシキさんがその「モルモット仲間」というなら、彼のIMGは例のえげつない改造を受けていることになる。

でも、財善メディカルセンターの局長に、インガを操る理由などあるのだろうか。あまつさえ、実験台として。

デスクワーク派には見えない屈強な肉体の持ち主ではあるけれど、彼がそのような扱いを受けていたとは思えない。

「あの、ハナヤシキさんは…」

「そうだ、まだ肝心なものを見せていなかったな。11階に設けた空中庭園、そこには当院がまさしく象徴たり得ることを示すモニュメントが———」

「先輩、あんた時間は大丈夫なのか?」

ヒバカリさんが少々うんざりした様子で、話題を変えようとする。

「ふむ、確かに局長職は多忙なものだが、今日は休暇にしている。せっかく懐かしい顔が見れるのだからな、時間が無いなどと言って話を急くのは無粋というものだろう。
…とはいえ、まだ本題を聞いていなかったな。お前が5年ぶりに連絡を寄越したことには驚いたが、そもそも私に頼みがあるというのが尚珍しい。いったい、何を相談しにきたのかね」

ようやく話が進みそうだ。

このハナヤシキさんという人、見た目のお堅い印象とは裏腹に、放っておくと立て板に水のようにいつまでも話し続ける。

ヒバカリさんが口を挟まなければ、あと1時間はここの歴史について聞かされることになっていたんじゃないかな。

「単刀直入に言わせてもらいます。先輩、ここでこの娘を保護してほしい」

面食らった様子もなく、ヒバカリさんと私を見比べるハナヤシキさん。

「詳しく」

「昨日のPALCO襲撃事件、ご存知ですよね。彼女はその当事者、犯人のターゲットです」

今度は、ヒバカリさんのレポートが始まった。

私、染井芳乃が狙われたこと。
その襲撃には、歪なインガが用いられたこと。
ハルさんが保管していた睦月を使って、それに対抗したこと。

私たちが置かれている状況を、簡潔にまとめた報告。
それは、いかに財善メディカルセンターが私の安全確保に適しているかを、局長たるハナヤシキさんに納得してもらうためのプレゼンだった。

ハナヤシキさんは終始黙ったまま、腕組みをしてヒバカリさんの話を聞いている。
医療の象徴について熱弁していたさっきとは打って変わり、一文字に結ばれた唇は微動だにせず、その身に纏う緊張感が一層増したような気がした。

やがてヒバカリさんのプレゼンが終わると、ハナヤシキさんはゆっくりとティーカップを持ち上げ、すでに冷え切った紅茶をひと口飲み込んだ。

「お前の言い分はよくわかった。そこのお嬢さんは、確かに誰かの庇護を必要とする状況にあるらしい」

「ご理解感謝します。では―――」

ほっとした顔で身を乗り出すヒバカリさんを、ハナヤシキさんが右手で制する。

「残念ながら、当院が力を貸すことはできない。すまんね、お嬢さん」

ソファに深く腰を掛け直し、溜息混じりに結論を出すハナヤシキさん。

ヒバカリさんの顔を窺うと、無碍に断られたというのに、落胆の色は見えない。

「…理由を伺っても?」

「ここが、財善メディカルセンターだからだよ。
当院は、ネオ豊田における医療の象徴だ。財善が統治する4000万の市民、彼らの生命に対して、絶対の安心と安全を保証する義務がある」

「彼女も、その財善が統治する市民です」

「無論、彼女も我々が愛する尊い生命のひとりだ。
だが、象徴たるこの城を与る身としては、その他大勢と彼女を天秤にかけなくてはならない。
ひとりのか弱い娘を引き入れることが、その他の愛する人々を脅かすリスクを伴うのであれば、諸手をあげて良しとするわけにはいかんよ」

要するに、厄介ごとを持ち込ませるわけにはいかない、ということだ。

局長にしてみれば、その答は当然の帰結と言わざるを得ない。

「百を守るために一を排するだなんて、権力が腐り保身に走ったかつての官僚みたいじゃないか。ここは白い巨塔か?」

「百ではない、千だ。ヒバカリ、お前の視野は狭窄している」

言いながら、腰を上げてヒバカリさんの額三寸先に詰め寄るハナヤシキさん。

囁く様に、しかしはっきりと聞こえる声で続ける。

「目の前の少女は、さぞや特別な存在に思えるだろう。
では、此処にいるお前の知らない者たちはどうだ?お前の大事な隣人を守れるなら、その他大勢に犠牲を強いることに呵責はないのか?」

「此処なら、大勢と彼女を一緒に守れる。それだけの設備を整えたのは、あんただろう」

「論点をずらすな。私が問うているのは、個のために多を危険に晒す権利が、お前にあるのかということだ。
万が一を考えろ。インガを以って襲撃したというなら、敵は財善の中枢にコネクションがあることになる。
たとえ此処が万全を体現する要塞であっても、内側から食い破られるとなれば、同じことが起きて無傷でいられる保証は無い。
そうなったとき、お前は彼女以外を彼女と同じように守り切ると断言できるのか?」

違うだろう、と本心を確かめるように、ヒバカリさんの瞳を覗き込むハナヤシキさん。
そのまま、局長室の奥、デスク背面の窓ガラスに歩み寄る。
そしてラファエロのキューピッドが引き分ける弓の矢先に立ち、階下を見渡す。

「この世界を見ろ。IMGの以心伝心システムが市民の心を丸裸にして、互いの痛みを知ることは義務であると訴えている。
だが、そんなイデオロギーも所詮は理想論。
彼らはまだ、幼児だ。
目の前の誰かに助けを求められたら手を差し伸べるが、隣人を愛せよと博愛主義を押し付けられても、その理不尽に耐え得る高尚さは持ち合わせていない。
人は、身近な誰かに無償の愛を捧げることはできても、集団の外側にまでその対象を拡げられはしない」

クラスメイトたちは、心の底から私とカオリの身を案じてくれていた。
その愛に偽りはなく、かといって、巻き込まれた見知らぬ誰かのために同じ熱量の心痛は感じ得ない。

「話をすり替えているのはあんただ、先輩」

ヒバカリさんが、局長の背中を睨みつける。

「なぜ、個と多を天秤にかける。多も突き詰めれば個の集合だ。どこまでが個で、どこからが多なんだ?
マジョリティのためにマイノリティを切り捨てるという考え自体が間違っている。
その取捨選択の果てでは、皿の上に残った多を超える屍が天秤の周りに転がるだけだ。
その結論に、俺もあんたも辿り着けたはずだろう」

真に迫る勢いで、捲し立てるように反論するヒバカリさん。
この二日間で、ここまで感情的になった様子を見るのは初めてだ。
出会ったばかりの私が言うのも変だけど、らしくない。

そんなヒバカリさんの視線を、振り返ったハナヤシキさんは真正面から受け止める。

「それはお前の結論だ。
私はね、此処を任されてから思い知ったのだよ。誰しもを守ることなど、烏滸がましい理想でしかないとね。
私が守るのは、守れるのは、このセンターの患者とスタッフが精々だ。
なればこそ、私はこの場所で生きる者たちだけは、何があろうと守り抜く。
それと判っていながら危機に晒すというのは、私の正義から最も遠い行いだ」

その言葉にも、確かな信念が感じられた。

メディカルセンターの細部に行き届かせた芸術的演出についての熱弁と同じく、確固たるコンセプトが伝わってくる。

私は、大事なものを大事にするため、それ以外は切り捨てる。ハナヤシキさんは、それこそが正しいと信じているのだ。

「…先輩、それがあんたの答えなのか」

「局長としての、決定だよ」

そう答える、「医療の象徴」のトップ。ヒバカリさんは、その瞳を黙って見つめていたけど、やがて小さくため息をついて立ち上がった。

「不躾な相談を、失礼しました。すまない、ヨシノくん…行こうか」

やけにあっさりと引き下がる様子に戸惑ったものの、素直に従って私も腰をあげる。

すでに扉付近まで進んでいるヒバカリさんに、小走りで追いつき…

「解せんな」

と、お暇しようとする私たちを、ハナヤシキさんが小さく引き留めた。

「私がどう答えるかなど…応えられないことなど、少し考えればわかるだろう。
そもそも、なぜ此処をセーフゾーンの候補に挙げた?彼女の安全確保が目的なら、より適した場所などいくらでもある」

書物のアーチを目前に、ヒバカリさんが立ち止まる。

「俺は…先輩、あんたが苦手だ。昔から、小難しい長話に付き合わされるたび、どう躱したものかとため息をついていたものさ」

あなたが嫌いだ、という本音を吐露するヒバカリさんは心なしか寂しげで、それでいて懐かしむような表情だ。

ストレートに悪態をつかれたハナヤシキさんは、黙ってそれを聞いている。

「だが、俺たちにとって…いや、俺にとってあんたは、誰よりも信頼できる仲間のひとりだ。
この娘、ヨシノくんを匿うには、確かにこの施設はおあつらえ向きだ。最新鋭のセキュリティ、万が一にそなえた迎撃システム、言わずもがな最高峰の医療。
だが俺は、そんな無機質な安全保障を期待したわけじゃない。
ハナヤシキ先輩、あんただ。
東京で共に闘い、今にも泣き出しそうな新人を鼓舞して、誰よりも献身的に仲間を支えてくれたあんたが居るから。
だから、此処しかないと思ったんだ」

感情論だ。

なんてことはない、5年というブランクを抱えるヒバカリさんにとっても、この町に拠り所なんてものは無かったのだ。

思えば、昨日私のもとに駆けつけたときも、彼は単騎で睦月以外の支援を受けていなかった。黒インガの脅威を考えれば、それこそ財善の警務部にでも頼って、組織立った助力を得てもよかっただろうに。

そうしなかったのは、ヒバカリさん自身が誰を頼れば良いかわからなかったから。

仕方ないことだろう。
5年間寝坊していたとのことだけど、突然現れた浦島太郎が「少女が狙われているから力を貸してくれ」と曰ったところで、どれだけの人が真に受けてくれるか判らない。
どれほど熱弁しても、企業統治が行き届いたネオ豊田でテロが起こるだなんて、与太話として一蹴されるのがオチだ。

それこそ、オオカミ少年が獣の襲来を知らせても、村人が誰一人として耳を貸さなかったように。
この場合、オオカミの餌食となるのは、羊ではなく私なのだけど。

堂々とした振る舞いで私を落ち着かせてくれていたヒバカリさんこそ、孤立無援ギリギリの孤独な闘いをしていたのだ。

「5年も音信不通をかましておきながら、昔と変わらず接してくれて嬉しかったです…。では、お元気で」

ヒバカリさんが小さく一礼し、いよいよ扉に手をかけたとき、

「まだ、モニュメントを見ていないだろう」

「…?」

「空中庭園のモニュメントを見ずに、当院を見学したとは言えない」

と、白衣を脱いでソファの背に掛けて、ゆっくりと歩いてくるハナヤシキさん。

顔つきは依然として削り出した岩のようだけど、その目にはこれまで感じることのなかった優しい光があった。

「先輩…」

「言っただろう、今日は休暇だ。今此処に、局長は居ない」

案内しよう、と付け加えて、ハナヤシキさんが書物のアーチを潜った。

何というか、不器用な人なのだろう。それとも、単なる照れ隠しか。

何れにせよ、どうやら私たちはまだ財善メディカルセンターの客人として扱ってもらえるようだ。

「痛み入ります」

「ふむ、ゆっくりしていくといい。お前たちの事情とやらが落ち着くまでは、私も休暇を満喫しようじゃないか」

こうして、セーフゾーンへの滞在が決定した。私も緊張が解れて、一息つけたような気がする。

と、ヒバカリさんがちょいちょいと私の肩を叩いた。
見やると、したり顔でウィンクを飛ばしてくる。

まったく、この人は…。

どうやら、予定には何の変更もなく、ヒバカリさんは当初の目論見を達したようであった。

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