インガ [scene004_11]

気づくと俺は、吉川の胸ぐらを掴んで奴を壁に押し付けていた。

「貴様…何をしたんだ!」

「っ…、やはり貴方は野蛮だ。ハナヤシキさん、ここまでの無礼を働いた部下にもお咎め無しですか?」

ハナヤシキ先輩が俺の肩を掴み、「離せ」と低い声で言った。
当時の俺はまだ若く…いや、今だって同じだろうが、その命令をすんなり受け入れることはできなかった。

「ヒバカリ、私に代わりなさい。貴様は下がっていろ」

「…」

「ヒバカリ、上長命令だ」

先輩が語気を強める。

俺は目を瞑り、昂った感情を押さえつけようと深呼吸した。
そして、吉川を殴りつけたい衝動を堪えて、突き飛ばすように奴を解放した。

「まったく…御社もナノマシンセラピーを導入してはどうです。もっとも、この件が明るみになっても尚、会社が存続できたらの話ですがね」

胸元をさすりながらそう言う吉川の顔には、未だに憎たらしい笑みが浮かんでいる。

俺は後ろを振り返り、壁を殴って少しでも頭を冷やそうとした。奴を視界に入れていると、今度は先輩の制止を振り切って殴りかかってしまう気がしたからだ。

「…吉川殿。聞いた通り、私の部下と連絡がつかない。どうやら、彼の身に何か起きたらしい。
貴殿の差金というなら、もちろん説明義務を果たしてくれるのでしょうな?
そうでなければ、ヒバカリを止めた意味がない」

「…ああ、なるほど。この上司にしてこの部下あり、ということですか。
忘れていましたよ、我が社への侵入で先陣を切っていたのが、貴方だということを。
丁寧なようでいて、血の気の多いお方だ」

ハナヤシキ先輩が拳銃を取り出し、

「おっしゃる通りだ、こう見えて私の気は短い。だから選ぶ言葉を間違えんことだ。
取るに足らん戯言を遺言にしたくはなかろう?」

と、吉川の額に銃口を押し付けた。
平淡な口振りではあったが、その言葉には静かな怒りが込められていた。

「吉川殿、答えて頂こうか。私の部下に、何をした」

本気の怒り。

それを肌で感じた吉川の顔から、漸く余裕が失われた。

「…ふふふ、何をしたか、ですか。トロイの木馬、という奴ですよ。私自身は何せずとも、あなた方はもう終わっている」

引き攣った笑みを残しながら、回りくどい言い方をする吉川。
その様子に、ハナヤシキ先輩は…突きつけた銃をホルダーに戻して、ため息をついた。

「…よく考えたら、この閉鎖空間で銃を使うわけにはいかん。発砲音で耳をやられては、貴殿の懺悔も聞き取れんからな」

と、ナイフを抜いて勢いよく吉川の腿に突き立てた。
突然の激痛に吉川が絶叫する。

「ふむ、どちらにせよ喧しいことこの上なかったな。
さて、吉川殿。ナイフで刺された際の対処はご存知かな?こいつを不用意に抜き取れば、却って出血を抑えられなくなり命に関わる。
私がそうする前に、答えをお聞かせ願おうか」

そう続ける先輩の前で、手足を拘束された吉川は、針を刺された芋虫のように身を捩りながら喚き続ける。
その口を塞ぐように、先輩は奴の顔面を右手でガシリと掴んだ。

「刺し傷を負った程度で、大の大人がみっともないですぞ。
私は、いつになったら貴殿から回答を得られるのかね。
…今からこの手を離す。これ以上の痛みを望まないのであれば、次に口を開くときは質問の答えを述べることだ」

そう言って、先輩は吉川の顔から手を離し、そのままさっき突き刺したナイフの持ち手を掴んだ。
少しでも力が入れば、腿の肉に食い込んだ刃が更なる痛みを奴に与えるだろう。それを理解した吉川が、青い顔で口を開いた。

「…お察しの通り、我々の目的は財善だ。あなた方の会社を取り込み、統治企業の要件を満たすこと。
そのために、あなた方にスキャンダルを起こさせること…それが狙いでした」

やはり、仮説は正しかった。
俺たちが東京に来てから起きた事件はすべて、財善に泥を塗り信用を失墜させ、アドワークスによる買収の下地を作るためのものだったんだ。

「しかし、あなた方は想定以上に優秀だった。まさか、子供らを懐柔してしまうとは…。
だから、私も奥の手を使わざるを得なくなった」

「…奥の手?」

痛みによる脂汗を額に滲ませながら、またも吉川が笑みを浮かべる。

「手駒は、すでにあなた方の懐にいる。私は何も言っていない…ただ、彼に失態を帳消しにするチャンスを与えた。それだけだ」

「何を———」

「隊長、入電です!」

と、後ろでタカハシとの通信を試していたワタナベが声を上げた。

「繋げ!」

ワタナベがモブの通話ボタンを押し、スピーカーに切り替えた。そこから聞こえてきた声は、

『皆さん、聞こえますか』

「…ヤマト君?」

咄嗟に、ワタナベが車内に取り付けられたモニターにモブを接続した。画面いっぱいに、ヤマト少年の顔が映し出される。

どうやら、移送車の運転席にいるらしい。

「何をしているんだ…運転手はどうした?タカハシさんは…君と一緒だったはずだ、奴はどうした?」

俺の問いかけを無視して、ヤマト少年が喋り出す。

『財善の皆さん、どうか要求にしたがってください。僕の要求はひとつ。
アドワークスに、降伏してください』

車内が静寂に包まれた。

誰も、この少年が何を言っているのか理解できなかったんだ。

『繰り返します。アドワークスへの降伏を宣言してください。さもなければ、皆さんを…皆さんを、殺さなくてはいけなくなります』

「…ヤマト君、何を言っているのか判らない。まさか、アドワークスの連中に捕まったのか?今どこにいる!今すぐそこに———」

『ヒバカリさん、ここには誰もいません。これは、僕の意志です。…お願いです、皆さん。要求を飲んでください』

感情の無い声で要求を繰り返すヤマト少年。モニターに映った彼の目は虚で、まるで心が抜け落ちてしまったかのように見えた。
いや、意図的に心に蓋をしているのか。
そうしなければ自身を保てない、無感情にならざるを得ない…そんな様子だった。

「…誰もいない、と言ったか?君と一緒に居た私の部下たちはどうした」

そう訊くハナヤシキ先輩は、拳を振るわせ唇を噛んでいた。
状況を考えれば、既に答えは出ていた。それを敢えて確認するのが、辛かったのだろう。

『殺しました。僕が、この手で』

誰も、何も言わなかった。
先輩の口許には、噛み切った唇から血が流れ出していた。

齢16かそこらの子供による、俺たちの仲間を殺したという告白。

何を馬鹿な、と言いたいところだ。しかし、それは出来なかった。
作戦中に索敵を止めたモス、繋がらない通信、消えたバイタルサイン。
この目で亡骸を見たわけではないが、タカハシが死んだことに疑問の余地はなかったからだ。

「…ヤマト君。要求を飲むことは出来ん。何より、君は決定的な過ちを犯した。
なぜタカハシ達を殺した。人質を失って、要求が通るはずもなかろう」

努めて冷静に、先輩が言った。
画面の向こうのヤマト少年は首を振り、

『いいえ。僕は、人質を失ってなどいません。人質を取るために、タカハシさん達を殺めたのです』

「どういう意味だ」

『先ほど、この車に備わっていた通信機を使って、アドワークス警務部に座標を送りました。その場所に、急襲部隊が向かっています。僕もこれから合流します』

「座標だと?どこに向かっている」

画面に映るヤマト少年が、ハナヤシキ先輩を見た。…そう見えた。

『…移送隊の中継地点。皆さんの仲間の元、です』

突然、吉川が笑い声を上げた。

「よくやった、ヤマト君!今、部隊から現着したと連絡があったよ」

愉快で仕方がないといった吉川の声に、ヤマト少年が眉間に皺を寄せる。

『吉川さん、約束は果たしました。これで皆は助かるんですね?』

「ああ、もちろんだとも。この件が片付いたら、すぐに接種の準備を進めよう」

その言葉に、一瞬だけホッとした表情を見せるヤマト少年。しかし、それもすぐに消え去って、彼はこう続けた。

『財善の皆さん、申し訳ありません。でも、僕はこうするしか無いんです。だからどうか…どうか、従ってください』

「待て、君はこの男と何の———」

ハナヤシキ先輩の声から耳を塞ぐように、ヤマト少年が一方的に通信を切った。

吉川が、勝ち誇ったように高笑いを続けている。

真っ黒になったモニターから先輩に視線を移すと、あの人はそれまでに見たことがないような顔をしていた。
米神に血管が浮かんで、額は真っ赤に染まっている。
あの人はそのまま吉川を振り返り、

「貴様、あの少年に何をさせた」

と、もの凄い剣幕で詰め寄ると、吉川の胸ぐらを掴んで無理やりに直立させ、そのまま壁に叩きつけた。
腿に刺さったナイフが傷口を広げたのか、その痛みに奴が呻き声を上げる。それでも、その口許から笑みが消えることはなかった。

「…っ、手を離してくださいよ。彼が言った通りだ…あの子はあの子自身の判断で、あなた方を我々に…売った!…んですよ!」

「貴様…」

「ふ、ふふふ…取り引きですよ!…あの子の要求を飲む代わりに、ちょっとした仕事を頼んだだけだ。貴方も…取り引きに応じた方が良い!」

締め上げられた喉から、吉川が絞り出すように声を出す。
先輩は更に奴の首を締め上げて、

「取り引きだと?貴様は私の部下を殺した!この期に及んで、取り引きも糞もあったものではないわ」

「ぐっ…く、ふふ…わ、私を殺せば……確実に、き…急襲部隊は、行動を起こす!……こ、これ以上…む、無駄に血を流したく…は、ないでしょう!」

「貴様ァ!」

ハナヤシキ先輩が怒声を上げる。このままでは、本当に吉川を殺しかねない。
応援部隊のうち数名が、後ろから先輩に組み付いて無理やりに吉川から引き剥がした。

解放された吉川が壁伝いに崩れ落ち、喉を押さえて咽せ込む。

「う、ぐふっ…。と、取り引きをしましょう…。急襲部隊は、私のバイタルサインが途切れない限り、貴方のお仲間を殺めたりはしません。…ヤマトは先走った。交渉前に貴方の部下を殺すつもりなど、毛頭無かったんですよ私は!」

今度は、俺とワタナベが奴に殴りかかりそうになった。この期に及んで責任逃れするかのような物言いに、脳天の血液が沸騰した気がした。

堪えたのは、残る仲間と子供達の身を案じたからだ。
それは先輩も同じこと。自身の肩や腕を掴む仲間の手を叩き、あの人は小さく頷いてこう言った。

「ワタナベ、移送隊に連絡を」

「…すでに完了してます」

「運転席、聞こえるか。あとどれくらいで現場に到着する」

『あと5分ほどです』

車内スピーカーから、運転手の声がした。
先輩は「3分で行け」と言い、そのまま吉川に向き直って

「吉川殿。取り引きの内容は我々が決める。貴様の生命と、我々の仲間を交換だ。もちろん、子供達にも指一本触れることは許さん。…ヤマト少年の身柄も、我々が拘束する」

有無を言わさぬ迫力に、吉川は先輩の目をじっと見て「いいでしょう」と頷いた。

それからは奴も先輩も終始無言のまま、車は速度を上げて中継ポイントに向かい夜の道を走って行った。

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