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インガ [scene003_04]

歪な凹凸に包まれた、真っ白な球体。

それ自体にはこれといった意匠を感じないけれど、その役割がこの物体をモニュメントたらしめている。

財善メディカルセンターが抱える、数えきれないほどの患者たち。

生者も死者も分け隔てなく集ったこの場所そのものが「医療の象徴」だった、と。そういうことなのだろう。

「…聞きそびれていたんですが」

ハルさんが言っていた、ちょっぴりえげつないIMGの改造。ヒバカリさんの、モルモット仲間という言葉。

局長職という肩書きと立場には似つかわしくないけれど、恐らく間違いない。

「ハナヤシキさんも、インガを使えるんですよね?」

私の問い———というよりは確認———を受けて、ハナヤシキさんは

「そうだ」

と、あっさり首を縦に振った。

「ヒバカリ…いや、新川から聞いているかね?インガを扱うためには、特殊な手術を受けなくてはならない。
君のお父上がプロジェクトを推進していた当時、私やヒバカリを含む13名が被検体として志願した。
だから、私もインガを操ることができるし、仕組みも十二分に理解している…その知識があってこそ、このモニュメントを創り出せたということだ」

「13名?」

ヒバカリさんとハナヤシキさん以外に、まだモルモット仲間がいたのか。

「そう、13名———いや、正確には12名だったな。染井博士による手術を受けた我々には、ひとり1体ずつインガがあてがわれ、あるプロジェクトの創生に参画していたのだよ」

あるプロジェクト?
IMGそれ自体ではなくて、父さんには何か別の思惑があった…ということだろうか。

「その話、詳しく聞かせていただけませんか?父が何をしようとしていたのか、気になります」

ヒバカリさんは、父さんこそが黒幕と言っていた。
もちろん、それが真相だとは思えない…思いたくない。

けれど、父さんが何をしようとしていたのか———あるいは何をしようとしているのか、その点は当事者として知っておきたい。

そもそも、私たちは何も物見遊山でこの施設を訪れたわけじゃないのだ。
ヒバカリさんは私の安全確保を目的としていたけれど、さっきハナヤシキさんが言っていた通り、ここに居座り続けて事態が収まることはないだろう。

少なくとも、手掛かりのひとつくらいは見つけておかないと。

「…ふむ、お嬢さんは随分と肝が据わっているようだ。
よろしい、私が知っていることが役立つかどうかわからないが、君の疑問はできるだけ解決しておこう」

そう言ってハナヤシキさんは踵を返し、

「見るのが手っ取り早いだろう、着いてきなさい」

と、エレベーターに向かって来た道を戻り始めた。

一体何を見せようというのか気になったけど、それこそ着いていけばわかること。
私は何も言わず、ハナヤシキさんに追従することにした。




「これは言わば記念品だ。ふふふ、私も直に見るのは久しぶりだな」

空中庭園を出た私とハナヤシキさんは、いったん局長室に戻り、隠しエレベーターを使って施設地下に向かった。

壁の本棚が小さく開帳して現れた通路を通ったときは、まるでアリスのようだと思ったけど、辿り着いた先は鏡の国などではなく、コンクリートで塗り固められた無機質で簡素な通路。
突き当たりまで進んで窓のないドアを開けると、そこは如何にも研究室といった小部屋で、その中央に複数のコードで繋がれたインガが鎮座していたのだ。

膝をつき、操者を待つマリオネット。

人型をとってはいるものの、そこに人たり得る意思や感情は無い。
…無いはずなのに、やはり彼からは物悲しさのような哀愁を感じて、私はどうにも複雑な気持ちになる。

一方でハナヤシキさんは、言葉通りこのインガを「記念品」として扱っているらしく、局長室の調度品を愛でるような手つきでその頭部を撫でていた。

どれだけヒトに似せた造りで、ヒトらしい振る舞いを体現出来たとして、無機物でしかないこの精密機器には、ハナヤシキさんの振る舞いこそが適切…いや、真っ当なのかもしれない。

「この子が、ハナヤシキさんの…」

「そう。染井義昭氏が創ったIMGアバターのひとつ、名を弥生という」

弥生、睦月と同じく月の和名。
草木が生い茂る初春が由来の名を持つインガが、テクノロジーで創られた癒しの森の根本深くに鎮座しているというのは、ハナヤシキさんなりのアートなのだろう。

その顔には目鼻にあたるパーツが無くて、睦月よりはあの黒インガに近い。ただ、のっぺりとした顔面からは、黒インガともまた違った無機質な印象を受ける。

睦月はとても機械的なボディをしていて、黒インガには生体的というか生々しいというか…そう、個体(ソリッド)と液体(リキッド)のような違いを感じた。
目の前の弥生は、その中間といったところだろうか。

「…ふむ、折角の機会なので久々にドライブしてみようかと思ったが、起動に時間がかかりそうだな」

「ドライブ?」

「IMGでインガを操ることを、我々はそう言っていた。
搭乗者、つまり我々被検体のことはドライバーと呼ぶ」

ドライバー。
インガを操る、改造手術を受けた12名。
とあるプロジェクトの完遂を目的に集った、財善コーポレーションの社員。

「志願したって言ってましたよね」

「ああ、その通りだ」

「なぜですか?ヒバカリさんも…あなたたちは、どうしてお父さんのもとに?」

被検体とはつまり、実験のモルモット。

改造手術がどんな内容だったのかはわからないけど、それなりに危険であることは察しが付く。だって、ヒバカリさんが睦月をドライブするとき、彼はただ目を瞑ってうずくまっただけで、何かデバイスのようなものをイジっていたわけじゃなかった。

それってつまり━━━

「頭の中、脳をイジるような手術だったんですよね?」

素人考えだけど、もしそうだとしたら危険すぎる。

それを考案したのが自分の父親だというのだから、違った恐ろしさも感じるのだけど、それ以上に不思議なのは「危険な手術になぜヒバカリさんやハナヤシキさんが志願したのか」だ。

「ふむ、やはり君は敏い。仰る通りだ、お嬢さん。
我々の脳には、改造手術によって人工神経が埋め込まれている。ドライバーは、それを媒介としてIMGシステムと感覚を同期し、インガを操ることができているのだよ」

人工神経?また恐ろしげな単語が出てきて怯んだけど、ここは単刀直入にいかないと。

「ハナヤシキさん、教えてください。あなたたちは…父さんは、何のためにそんなことを?」

ここが核心だ。絶対そうだ。

正直言って、聞くのが怖いという気持ちもある。だってそれは、母さんと兄さんを喪った父さんが、遺された私と一緒にいる時間よりも優先したプロジェクトなのだから。

あの寡黙な父が何を想い、何を為そうとしていたのか?そこに、私の居場所はあったのか?
もし、無かったとしたら。

たった一人の肉親から、私はすでに見捨てられていたのかもしれない。

実のところ頭の端っこで燻り続けていたその懸念が、急に膨らんで心を圧迫する。

父さんは、何を考えていたの?ずっと聞きたくて、でも聞きたくなかった答え。

もしかしたら、ここでそれを突きつけられるかもしれない。

とても…とても怖い。

そんな内心を見透かすように、ハナヤシキさんが私の瞳を覗き込む。

「…イデア論は知っているかな?」

「え?」

「紀元前、ヨーロッパ哲学の源流たるプラトンが提唱した概念でね。
イデアとは、あらゆる物事の理想形が存在する世界のこと。我々人間が見聞きしているのは、あくまでもイデアに存在する理想と似た“紛い物”でしかないという考えだ」

…意味がわからない。何を言っているのかも、なぜそんな話がでてきたのかも。

「たとえば、君は三角形とは何か知っているだろう。学校で習ったはずだ…内角の和が180度となる図を三角形と呼ぶのだと。
だが、君はこれまでの人生で、三角形なぞ見たことが無いはずだ」

いよいよ理解不能になってきた。
突然小学生でも知っている算数の話になったかと思ったら、今度は「君は三角形を見たことが無い」なんて。

三角形なんて毎日…とまではいかないかもしれないけれど、日常的に見ているし、どんな図形かなんて定義を意識するまでもなく理解している。

「いや、君は…というより人間は真の三角形を見たことが無い。
この世の物体は、突き詰めれば原子の集合に過ぎない。
その原子は真球の形をしている。
つまり、三角形を極限まで拡大すると、その角は真球…丸みを帯びているのだよ」

「…それと父さんのやろうとしてたことに、何の関係が?」

急かすなというように、右手で私を制するハナヤシキさん。

「まあ聞きなさい。真なる三角形はこの世に存在しないにもかかわらず、我々は内角の和が180度となる図形を三角形と認識できる———なぜだと思うね?」

「…」

「それは、イデアに真なる三角形が存在しているからだ。
そして我々は、イデアに存在する三角形を知っている…だからこそ、それに似た図形を目の当たりにしたとき、それが三角形であると認識できるのだ」

ヒバカリさんがこの人を苦手としていたのが、よくわかる。難しい話を滔々と語られて、段々と辟易してきた。

「ハナヤシキさん、それが一体———」

「イデアだよ。
あらゆる物事の理想形が存在する、真実の世界。
我々はイデアに至るべくして、染井博士のもとに集ったのだ」

…何のために。脳に手を加えるような改造手術を受けてまで、何をしようとしていたのか。
その問いに対する、ハナヤシキさんの答え。

それを受けて私は、どう返したものかわからなくなっていた。

さっきから、ハナヤシキさんが言っている内容の半分も理解できていない。

「イデアって何ですか?そこに至るって、どういう…」

気づくと、ハナヤシキさんは弥生の頭を撫ぜながら、愛おしそうに目を細めている。

「インガは、足掛かりだ。我々がイデアに至る道標」

「…ハナヤシキさん?」

心ここに在らず、といった表情。その目はまるで、愛する人を前にしているような。

「お嬢さん。君はこう思ったことは無いかね?」

ゆっくりと、視線がこちらに移る。

「この世は間違っている。愛する人の居ない世界なんて、まやかしでしかない。そう、思わないかね」

なんだろう。

今まで感じ続けていた、岩のような堅い印象…厳かな雰囲気が、まるで無くなっている。

ハナヤシキさんは、こんな人だった?

「染井芳乃くん。君にとって、この世界に理想はあるのか」

その問いに、私は二度と手に入らない家族の団欒を思い出していた。
愛しくて、温かくて、決して帰ることのできない風景。

「…それが、イデア?」

「それが在るのが、イデアだ」

弥生から手を離して、真っすぐと私を見据えるハナヤシキさん。
その目、その声音、その立ち居振る舞いは慈愛に満ちていて、私は━━━



ドン、という音がした。



「なに?」

「…そんな馬鹿な」

ハナヤシキさんの目が、厳しくそして鋭くなった。
全身から伝わってくる緊張感が、非常事態が起きたことを物語っている。

『ヨシノくん、今すぐそこを離れるんだ!ヒバカリ…おいヒバカリ!今す…にち……シノく…の………』

耳につけたシールが耳小骨を揺らし、ハルさんの声がする。それもすぐ途切れ途切れとなり、やがてブツッと音がして沈黙した。

もしかして…。

「お嬢さん、ここを離れるぞ」

「あのっ、ヒバカリさんは?」

「奴なら心配なかろう。それより、まずは地上に…」

と、来た道を戻ろうとドアを開けたハナヤシキさんが硬直した。

「…あれは」

通路を覗くと、暗がりの奥で何かが蠢いた。

歪な凹凸、てらてらとした表面、やけに大きく見える球体。
空中庭園のモニュメントだ。

ズリっという音がして、ゆっくりとそれが転がってくる。

段々と速度を増し、そして———インガが現れた。

真っ白なインガが、おそらくは5体以上。

モニュメントがばらけたのだ。そう、あれはまさしくインガ。何体もの白いインガが固まって、モニュメントとなっていたのだ。

「下がれ!」

ハナヤシキさんが鋭く指示を寄越し、勢いよくドアを閉める。
少し間があって、鈍い衝撃音とともに鉄の扉がひしゃげた。

「こっちだ」

ガンガンと金属音を立てながら歪みを増す扉の耐久性を心配しつつ、反対側のドアを抜けて通路に出る。

途端、薄暗い空間にLEDが点灯し、まるで廃墟が息を吹き返したように明るさが取り戻された。

「新川だろうな。奴とは連絡がつくか?」

「いえ、さっき途切れて…」

ハナヤシキさんと共に通路を駆け抜けながら、ハルさんに連絡を試みる。

ダメだ。つながらない。

昨日の光景———蜘蛛型ロボットが蹂躙するショップとへたり込んだカオリの様子、そして黒インガを前にしたときの恐怖が甦って、冷や汗が噴き出る。

やっぱり終わってなかった。
ヒバカリさんは正しかった。

「まずは身を隠そう。まだ走れるね?」

ハナヤシキさんに声をかけられ、反射的に頷いて返した。
すでに息はあがっていたけど、そんなこと気にしてられない。

「よし、えらいぞ」

しばらく進むと階段があって、駆け降りる。3階分ほど降って開けた場所に出て、私たちはカウンターのような長テーブルの影に身を潜めた。

そこからはフロアの全体が見渡せて、ハナヤシキさんは鋭い目つきで辺りを警戒しつつ、

「お嬢さん、まずは息を整えよう。
…そうだ、深呼吸なさい。
さて、状況の整理だ。どうやら当院が誇る最高品質のセキュリティはあっさり突破され、腹立たしいことにモニュメントのインガを使った襲撃を受けた」

「あれは何なんですか?まさかインガの塊だったなんて…」

「あれについて語りたいのは山々だが、後にしよう」

遠くで、何かの破壊音がした。
多分、あの白いインガ達が私たち———いや、私を探してるんだ。

「時間はあまりなさそうだな。インガは6体…モニュメントを構成していた数だ。
目下の目標は地上に戻ることだが、それには我々がここに来たときに通った道を抜けて、局長室直通のエレベーターを使うしか無い」

「そういえば、ここは一体?何だか見覚えが…いや、もしかして…」

おろしたばかりの腰をあげて、フロアを見渡す。

吹き抜けから見えるガラス張りの2階通路、整列されたソファ、隅にある私たちが降りてきたのとは別の螺旋階段。

父に手を引かれて検診に来たときの記憶がフラッシュバックする。

ここは…ここは財善メディカルセンター?

「そう、ここはかつての財善メディカルセンターだ」

「まさか、建物をまるまる地下に沈めたんですか」

「正確には、まずここを埋め立ててから、新たな建物を建造したのだよ。
前時代の遺物を礎として、医療の象徴を打ち建てる…それがコンセプトだったのでね」

馬鹿げた話に聞こえるが、目の当たりにしてしまっている以上は疑問の余地が無い。

とはいえ、コンセプトを文字通り体現した医療の象徴には、これまでに見てきたどんな細工より…それこそ、空中庭園のモニュメントなんて目じゃないくらい驚かされる。

でも今は、脱出が優先。その手段はひとつしかなくて、それもついさっき白いインガに歪められた鉄扉の向こう側だ。

「…どうしますか」

「選択肢はひとつしかないだろうな」

ハナヤシキさんが、上着を脱ぎ捨ててネクタイを振り解く。

「迎え撃つ」

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