インガ [scene004_16]
染井義昭。
彼と初めて会ったのは、そのときだった。
第一印象は、正直なところ———すまない、君の親父さんを悪く言うつもりは無いんだが———「なんだ、このくたびれた男は」だった。
小柄な身に羽織った白衣には皺が寄っていて、頬から顎にかけて数週間は放置していただろう無精髭が生えている。こけた頬と目の下に出来た隈は、どれほど多忙なのか知らんが、まともに睡眠を摂れていないだろうことを物語っている。
疲労感を身に纏った、いつまでも現役を引退させてもらえない年代物の中古車を思わせる風貌。
ただ、重たそうな瞼の下から覗く瞳にだけは、鋭い光が宿っていた。
そんな、ある種の異様さを醸す男が、「世界を創る」なんて大仰なことを宣いながら登場した。
当然、俺とハルは困惑したよ。そして警戒した。
というのも、ハナヤシキ先輩が頭を下げていたからだ。あの人は礼儀知らずじゃないが、立場だけを理由にして誰かに謙ることもしないタイプだった。
つまりその所作は、心から染井という男を尊敬していることを意味する。
「ハナヤシキさん、若者が緊張してしまう…頭を上げてください」
「お心遣いを。ヒバカリ、新川。彼が、諸君らの上司となるお方だ」
上司。つまり、テーブルの上に並んでいる辞令書に書かれた見知らぬ部署の責任者、というわけか。
「彼らは、まだ私の部下になると決めたわけじゃないでしょう。…どうやら、合意形成はできていないようだ」
「申し訳ない。しかし、貴方と直接話した方がいいと思いましてね…お互いに」
染井氏はハナヤシキ先輩をちらりと見て、小さく頷くとドアから1番近い椅子に座った。
「ヒバカリ、席につけ。ここで退室するほど、この会社に嫌気が差しているわけじゃなかろう?」
そう言われてしまうと、椅子に戻らざるを得ない。
俺はハルの隣に座り直し、
「話を聞くだけだ」
と、ハナヤシキ先輩の目を見て念押しした。
「構いませんよ。私としても、無理強いするつもりは無い」
染井氏はそう言うと、上着のポケットからモブを取り出して
「まずは、これを見てほしい」
と、アプリを起動させた。
試作品なのだろうか、滑らかとは言えない挙動で見たこともないインターフェイスが表示される。
そこには、俺とハルの名前、そして心電図のようなグラフが波打つように表示されていた。
「これは一体?」
と、ハルが漏らすように言うと同時に、2人のグラフが脈打つ。俺とハル、それぞれ違った波形を示していた。
「新川さんは、疑心と好奇心。後者の方が大きいようだ。ヒバカリさんは…なるほど、ほとんど疑心ですね」
染井氏の言葉に、今度はハルのグラフだけが大きな波を起こす。横目に本人の表情を窺うと、前のめりになって目を見開いている。
「これは…」と呟きながら、モブに手を伸ばしたくてうずうずしている様子だ。
「…染井さん、俺たちは何を見せられてるんだ?」
どこに驚けばいいか判らない手品を見せられている気分だった俺は、堪らずそう質問した。
「ちょっとした苛立ち。なるほど、お二人のことが少しだけわかりましたよ」
と、染井氏はモブを取り上げて———ハルが「あっ」と名残惜しそうに呟いたのが聞こえたな———、俺の質問を放置したまま手元で弄り始める。
何やらぶつぶつ呟きながらモブを操作する様子に、俺は少しムッとして
「あんた、俺達を勧誘しに来たんじゃないのか?」
「…少し違う。確かに私は協力者を募っているが、興味を持つかどうかは君達次第ですよ」
モブの画面から視線を外さず、染井氏は呟くようにそう言った。しかし、プレゼンを始めるわけでも対話を試みるわけでもない彼は、その興味を惹こうとすらしていない。
いったい、これは何の時間なんだ?
そう思ってハナヤシキ先輩を睨みつけたが、あの人は掌を挙げた例のポーズで、「黙っていろ」と言わんばかりだ。
いい加減うんざりしたが、声を荒げるのも面倒だったので、俺は大袈裟なため息だけ吐いてみせて椅子に身を沈めた。
「…さて、お待たせして申し訳ありません」
ややあって、染井氏はモブをテーブルに置き、ようやく顔を上げてそう言った。
「本当にな」と嫌味を言いかけたが、話の腰を折ってこれ以上長引かせる方が嫌だった俺は、崩した姿勢をそのままに小さく頷いた。
先輩がじろりと睨んできたが、関係ない。こっちは、本題である退職の面談を有耶無耶にされた挙句、話らしい話も聞かされずに放置されていたんだからな。
「これ」
染井氏が、テーブルに置いたモブを指差す。
「さっきお見せしたアプリケーション。何だと思いますか?」
やっと話が始まると思ったら、今度は質問。どうやら、コミュニケーションが得意ではないらしい。
俺は投げやりに「さあ?」と返したが、ハルは
「対象者の精神状態をスキャニングしていた…ように見えます。脳波を読み取っていたんですか?僕らは、そんな大掛かりな装置を取り付けられた覚えはありません。しかも、貴方の言動から察するに、読み取りはリアルタイムに行われていた…。一体、どうやって?」
技術者って人種は、目新しいオモチャを前にすると誰もが好奇心に支配されるのだろうか。
目を輝かせて早口にそう言うハルは、本題よりも目前のモブに興味津々といった様子だった。
まるで、手品に魅せられた子供のようにな。俺としちゃ、一体どんな手品を披露されたのか、そっちの説明が欲しいところだったが。
「概ね、その通り。これはリアルタイムで感情データをモニタリングする機能です。仕組みの方は…お二人とも、尻の下を見てください」
そう言われ、俺たちは立ち上がって椅子のシートを検めた。よく見ると、中央にシールが貼り付いている。
ハルがそれを剥がして手に取り、
「こんな薄っぺらいもので…?」
「ええ。まあ、十分なバッテリーを搭載していないので、あと数分で機能停止しますが。実演するには十分です。
そのシールは微弱な電磁波を放出していて、イルカなんかのエコーロケーションと同じ要領で、お二人の脳波を検知している」
染井氏の説明に、ハルは「なるほど」と頷いているが、俺は何を言っているのかさっぱりだった。
やはり、この人はコミュニケーションが苦手なんだな…改めてそう思い、俺は聞きたいことをぶつけてみることにした。
「染井さん、あんたは『世界を創る』と言っていたな。敵という概念が無くなる、とも。
それは、どういう意味なんだ?このシールはどう関係してくる?」
染井氏が俺の方を見て、
「シールは、重要ではありません。着目いただきたいのは、簡単に心理状態をモニタリングできる、という点です」
と、モブの画面をトントンと叩きながら言った。
「まだ開発段階なので、率直に申し上げると形になっていない。だが、完成形は世界を変える———いや、創るに足る機能を携える」
「完成形?それはどんなものをイメージしているのですか?」
ハルが、前のめりになって食いつく。
染井氏は表情を変えずに、
「感情データを細分化し、別途取得するバイタルデータと組み合わせて分析、そして言語化します。簡単に言うと…誰が何を思っているのか、手に取るように分かるようになるのですよ」
「すごい」と声を漏らすハルに対して、俺はほとんど興味を失っていた。
“他人が何を思っているのか”を詳にするシステムなど気味が悪くて仕方がないし、それがもたらす世界の創造が俺の退職意思を覆すとも思えなかった。
しかし、
「私は、これを勧善装置にするつもりです」
染井氏の一言から、俺の耳は初めて気になる単語を拾った。
「かんぜん…装置?」
「ええ。勧善懲悪の勧善、それを行う装置です」
俺は椅子に座り直して、
「…詳しく聞いても?」
「もちろん。…前提として、私は争いの本質を“格差”であると考えています。人と人との間にそれがあるから、各々は自身の理想を求める手段として“他者から奪う”という選択肢を潜在的に有してしまう」
さっきハナヤシキ先輩が語った論だ。やはりと言うか、「あの方」というのは染井氏のことだったのだ。
「では、争いを無くすにはどうすればいいのか。格差を無くすという手段もあるが、人口という母数が増減するのに対して資源が一定であり続ける以上、恒久的にそれを実現するのは難しい」
難しい言い回しをするので分かりにくいが、水や食料の数は変わらないのに、それを消費する人間は増えたり減ったりする…それでは、皆が平等であり続けるのは困難だという話だ。
一定のコミュニティ内———例えば、ネオ豊田の中だけとかな———に限れば、ある程度はバランスを保てるかもしれない。
しかし、住民全員に一定の資源を供給し続けるには、いつかは他コミュニティから不足分を輸入しなくてはいけなくなる。自給自足には限界があるんだ。
そうなると、コミュニティ同士でのやり取りが発生することになり、それは争いの火種になり得る。国同士が戦争していた時代を考えれば、当然の帰結だ。
「なので、私は発想を変えました。格差ではなく、他人という存在を消失させよう、と」
「…独裁でも始めるつもりですか」
「争いが無くなるなら、それも良いでしょう。しかしそうならないことは、歴史が証明している。そもそも、それは新世界とは言えません」
「じゃあ、どういう———」
「他人を他人でない存在…つまり、身内にしてしまうのです。ヒバカリさん、たとえば今あなたは、初対面の私に不信感や疑念———言うなれば“異物感”を抱いていますね」
異物感…言い得て妙だと思った。
確かに、見知ったハルや先輩が居るこの会議室に於いて、染井氏は俺にとって異物に他ならない。
異物は———取り除きたくなるものだ。
「ところで、私には8つになる娘がいます」
「は?」
「名前はヨシノ。身体が強くないもので、私はいつも彼女の健康状態を気遣っています。できればいつも傍に居てやりたいのですが、なかなか忙しくてそうもいかないのが辛いところです」
急に何を言い出すのかと思ったが、口を挟む間もなく染井氏は自分語りを続けた。
「娘の様子を見てくれる家族が居れば良いのですが…父子家庭なもので。
先の全世界同時多発テロ———私は、あの件で妻と息子を失いました。当時は目の前が真っ暗になった気分で、やるせなさと哀しみ、そして怒りが私を支配していた。
しかし、娘の存在が支えになってくれた。いや、私が彼女の支えにならなければと思いました」
そう言いながら、染井氏は肩を小さく震わせる。ご家族への想いが表れているようで、なんとも言えない気分になった。
「あの日…私たちは家族で映画を見に行く予定でした。娘が発熱したので、妻と息子だけ出掛けることになったのです。今思えば…延期するべきでした。
以来、私は常に思考してきました。なぜ、私の家族は死ななければならなかったのか。同じことを繰り返さないためには、何をするべきか」
そう言う染井氏の表情には依然として変化が無かったが、心なしか目に優しさを感じた気がする。
「私は財善に勤めて10年以上になりますが、ここ数年はそれだけを求める日々でした。休みらしい休みを取れなかったのは、娘に申し訳なく思っています。そういえば、以前は休日に釣りをするのが細やかな楽しみのひとつでした」
淡々と語られる経緯を聞く内に、俺の中で染井義昭という人物の濃度が増していく気がした。
初対面の他人に、人間性という色がついていく。
段々と、目の前の人間が人物に成っていく。
「勧善装置は、私の結論です。争いを、それによる悲しみを撲滅するために必要なシステム。その構築が、遺った娘を守る唯一の手段」
「…娘さんのために、平和を実現しようと?」
俺の言葉に、染井氏がゆっくりと深く頷いた。
矮小とは思わない。動機というやつは、誰にとってもシンプルで根源的なものなんだ。
俺は正義の味方に憧れていただけだし、ハルはオモチャを作りたかっただけ。
その想いに、大小や優劣は無い。あるのは、想いの強さと実現に向けた行動力だけだ。
「染井さん、勧善装置について聞かせてくれ。この辞令を受けるかどうか、改めて検討したい」
不思議なもので、俺は自然と彼の言葉に耳を傾ける準備ができていた。
やる、やらないはさて置き、話を聞くべきだと…いや、聞いておきたいと思っていた。
「ええ、もちろん。———その前に、ヒバカリさん。今あなたは、私という人間を異物に思いますか?」
俺は笑って、
「いや。不躾な態度をとってしまい、失礼しました」
「それです」
「え?」
染井氏が、図星をついたような言い方をして俺に人差し指を向ける。
「親密とは言えないまでも、今のあなたにとって私は異物———見知らぬ誰かではなくなった。
さて、そんな“見知った相手”に対して、貴方は攻撃行動を取ろうと思えますか?」
「攻撃?いや、別に俺は———」
「そんなつもりは毛頭無かった?では、言い方を変えましょう。さっきよりも、私を気遣っても良いと思っているのでは?」
言われてみれば、その通りだ。
しかし、
「それは、今はあんたの心中を察することができるからだ。ご家族を失った辛さや、娘さんに対する愛情…それが理解できたから」
「ですから、それなんですよ。
他人と知人の違いは、対象者の考えや想いを知っているかどうかに過ぎません。つまり、さっきまで他人だった私は、家族への想いという情報で肉付けされた結果、知人にクラスアップした。
そして人間は、見知った者に対してどこまでも冷酷にはなれない。何故なら、相手の痛みを想像できるから。
———一人の死は悲劇だが、万人の死は統計上の数値に過ぎない。
裏返せば、万人を“一人”の集合体にしてしまえば、統計上の数値は生々しくて耐え難い悲劇になる」
そう言って、染井氏はスリープモードになっていたモブを起動して、先ほどのアプリ画面を再びこちらに向けてきた。
「このシステムが完成すれば、それを実現できる。この世界から、他人という存在を消失させられる」
「…他人が居なくなった世界に、争いは起きない」
「私の理論では、そうなります」
俺は目を瞑り、東京での経験を思い返した。
自らの生存本能に従って、殺しに殺した敵員たち。
彼らが知人の集合体だったら———少なくとも、銃で争う必要は無くなったかもしれない。
もっと別の解決方法が、あったのかもしれない。
「…勧善装置か、なるほど。染井さん、俺もそのアプリをよく見てみたい…モブをお借りしても?」
「どうぞ」
染井氏から受け取ったモブの画面には、さっき見たときと同じように俺とハルのデータが表示されていた。
脳波を受信するシールのバッテリーは疾うに切れていて、俺たちの感情データは数分前の状態から変化していない。
見方がわからないから何とも言えないが、俺のはネガティブな精神状態を表しているのだろう。その波形はおそらく、染井氏に対して苛立ちを感じていたタイミングのものだ。
確かに、こいつを使えば“目の前にいる人間が、どんな思いをしているのか”が判る。
それは普段の俺たちが、相手の表情や仕草、声音、視線といったあらゆる情報から必死で汲み取っているもの。
しかもその精度は、はっきり言って高くない。だから、すれ違いが起きる。
テクノロジーによってそのギャップが埋まるのなら、それで争いが無くなるのなら———
「———そう言えばこのアプリ、名は何と言うんです?」
「ああ、まだお伝えしていませんでしたね。
それの名は、Ideal Mental Gate」
「…理想的な、心の門?」
「はい、私は専らこう呼んでいる———IMG、と」
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