インガ [scene004_17]

「———どう思う」

煙草に火をつけて、俺はハルに問いかけた。

結局、俺たちは辞令を受け入れるかどうかの答えを保留にして、1週間ほど考える時間をもらうことにした。
考えを整理する時間が欲しかったんだ。

勧善装置という概念には惹かれるものがあったし、染井氏の思いには少なからず共感できるところもあった。

しかし、実現性の高低を判断することができなくて———なんと言っても全く新しいシステムの話だったからな———二つ返事でプロジェクトへの参加に同意することもできなかったんだ。

というわけで、面談を終えた俺は、とりあえず一服しようと屋外の喫煙スペースに来ていた。ハルは当時から吸っていないが、二人で話すには丁度良いだろうとついて来てくれていた。コーヒー片手にな。

「どう、と言われてもね。技術者としては、IMGとやらには興味がある。ただ、その目的の方はね…正直、よくわからない。あのシステムが完成したとして、それで人々が本当に互いの気持ちを知れるようになったとして、果たして思いやりに満ちた世界なんてものが実現するだろうか。絵空事なのか、論理的かつ現実的な将来像なのか、僕には判断がつかないな」

まあ、そうだろうとは思っていた。

ハルは、あくまで1人の技術者として染井氏の話を聞いていた。
IMG———今では不可欠なインフラとして日常に根ざしているシステムも、この時点では開発中の新プロダクトでしかない。これに好奇心をくすぐられないというなら、それは嘘だ。

自分が身を置く業界に革新的な変化が起きる兆しを察知したら、よほど疲弊した人間でない限り興味を示す。

しかし人間というものは、自分の領分を超えた話題には意欲的になれない。

いち技術者でしかなかった当時のハルにとって、新システムがもたらす環境変化———人間の心を見える化することで訪れるであろう新世界については、可能性のひとつとして考慮する“新技術による影響”以上の価値を見出せるものじゃなかったんだ。

ん?ああヨシノくん、別に俺は当時のハルを無責任呼ばわりしているわけじゃない。
むしろ、そのスタンスは技術者として理想的でもあった。

言うなれば、こいつは分をわきまえていたのさ。

技術者というのは、得てして職人として扱われる。だから、社内で何かしらの開発業務を指示されたときも、その仕事を“案件”、請け負うことを“受注”、提出することを“納品”と呼ぶ。営業職なんかがクライアントとのやり取りでしか言わないような単語を、同じ組織に属する同僚相手に使う。

それは、彼らにとっての線引きだ。

技術者は企業に属しながらも、自分ひとりの力で生きることを考えている。自分の腕をいくらで買ってもらえるのか、その価値を高めるにはどんなスキルを獲得すればいいのか…ということをな。

そんな人種であった当時のハルが、テクノロジーによってどんな社会が到来するかを考えるとき、そこに本人の意志は介在しない。

目的に対する興味が無い、という意味じゃない。
むしろ、技術者は常に目的を欲している。何のための仕事なのかを見据えられないと、良い仕事はできないからな。

しかし技術者自身が、目的を構築したり領分を超えてそれを追いかけたりはしない。
そういう一線を引くことで、彼らは自身の腕前を如何なく発揮できる。

…まあ、これはハル自身が語っていた話なんだがな。
いつだったか、仕事論みたいな話を肴に飲んだことがあって、そのときに話してくれたハル自身の考えだ。

それを知っていたから、ハルが染井氏の理念的な部分に共鳴しているとは考え難かった。なので、

「じゃあ、染井氏が見せてくれたIMG———あれについては、どうだ?興味があるのは分かったが、そもそも人の心を見える化することなんて、出来るものなのか」

と、俺はそもそもの疑問をぶつけてみることにした。すると、ハルはあっさりと

「出来るだろうね」

「…」

「意外そうな顔をするなよ。そもそも、人間は心というものを神聖視し過ぎなんだ。アンタッチャブルで不可侵的な、オカルトめいた代物だと決めつけている人が多すぎる」

「違うのか?」

紙コップに口をつけながら、ハルが首を振って否定する。

「科学的には、ね。ちなみに君は、心はどこにあると思う?」

俺は自分の胸に手を当てて、「ここだろう」と答えた。するとハルは、

「そこからして、違うんだな。心というものは———」

と、俺の額を指差した。

「ここ。頭の中にしか存在しないのさ。脳みその中に生じる、微細な電気信号…それが、心の正体だ」

「…」

「信じられないかい?」

「にわかには、な。東京で仲間や自分の死を意識したとき、アドワークスの連中の命を奪ったとき、俺は形容しがたい感情を抱いた。あんな複雑怪奇なものを生み出す心が、電気信号だと言われてもな」

「そんな単純なものじゃないだろうって?」

俺は頷き、

「少なくとも、もっと複雑なものだろうよ」

「そうかい。でもヒバカリ、脳みそって器官は君が思うほどシンプルじゃないよ?むしろ、単純な説明をつけるには難解すぎる機能の塊だ。それこそ、適切に電力を流し込めば心ぐらい容易く出力できてしまうくらいには、ね」

「その、心を物体として扱うような物言いはやめないか?俺たちはロボットじゃない」

割り切ったようなハルの口振りに対する違和感を抑えきれず、俺は少しうんざりしてそう言った。

「そうだね。じゃあ、ロボット———つまり機械と僕らの違いは何だと思う?」

「言うまでもない。生身の人間と機械とじゃ、何もかもが違うだろう」

「その“何もかも”が何なのか、て話さ。ヒバカリ、僕ら人間と機械の違いは、ハードウェアが動的であるか静的であるかという点にしか無いんだよ」

難しい話が続いて頭痛がし始めた俺は、フィルター付近まで先端が近づいた煙草を灰皿に押し付けて、2本目に火をつけた。

「君、ちょっとは控えたらどうだい。身体に悪いよ」

「放っておけ。…で、どういう意味だ」

紫煙を吐き出しながらの問いかけに、ハルは咳払いをして

「まず、ほとんどの機械は物質的なハードウェアと、内蔵された基盤にインストールされたソフトウェアによって動作する。つまり、既定のプログラムに基づいた振舞いしか許されていないわけだ」

「…もっと簡単に説明できないか?」

「これでも簡単に言ったつもりなんだけどね…。そうだな、たとえば僕が使っているコーヒーメーカーをイメージしてくれ。
あれには、豆を挽いて適量の熱湯を注ぎこみ、丁度良い具合のコーヒーを抽出するための機能が備わっている。
でも、その動作を実行するには、プログラムで挙動ひとつひとつを制御しなくてはいけない。豆の挽き具合や熱湯の温度、それをフィルターに注ぎ込む際の湯量なんかを規定するプログラムで、ね」

目を閉じてコーヒーメーカーをイメージし、ハルの言葉をかみ砕く。なるほど、少し分かってきた。

「これを僕自身に置き換えて考えてみよう。コーヒーミルに豆を入れて、好みの塩梅でレバーを回す。挽きあがった粉末をフィルターに入れて、ポットで沸かした湯を丁寧に注ぐ。
この単純な行為も、あらかじめインプットした手つきやコツを踏まえて、肉体を精密に操作して行うことになる」

「つまり、ソフトウェアとハードウェアの関係にある、と?」

ハルが満足そうに微笑んで頷く。

「その通り。ちなみにハードウェアってのは、筋肉や骨、あとは脳みそなんかを指すね。
そして、僕らの肉体はコーヒーを淹れる以外にも様々な行動を可能としている。言うなれば、超高性能ハードウェアだ」

「色々なことができるから、人間の肉体は動的なハードウェア…ということか?」

煙草を叩いて灰を落としながら、俺は自分の指先を見た。ほとんど反射に近い自然さで行ったその所作も、動的であるが故の滑らかさなのだろうか。

「いや、そうじゃない。動的といったのは、ソフトウェアを内蔵する基盤———つまり、脳みその方だ」

「脳が、動的?」

反芻するようにそう言う俺に、ハルは得意気な顔で

「ああ。僕らの脳みそは…その中のニューロン同士を結合させるシナプスは、成長や経験によって変化するんだ」

いまいち、ピンと来ない。いや、言っていることは分かる。
しかし、それは考えてみれば当然の話で、ハリウッド映画に仕込まれたどんでん返しの結末を明かすようなテンションで言うことには思えなかった。

シックス・センスで主人公マルコムの正体が明かされたときのような、そんな意外性による驚きはない。いや、むしろ反対か。
もはや、あの映画の———結末が意外であることで話題を博した傑作の、肝心要の仕掛けは世に知れ渡っている。碌に映画を見ない奴ですら、あの物語の根幹を知っている。
得意気に「シックス・センスの主人公は実のところ冒頭で死んでいて、ずっと彼自身が幽霊だったんだぜ」と披露されたところで、誰も驚きはしない。
だから、ハルに脳みその秘密を明かされたところで、俺に良いリアクションは取れなかった。

「いやいや、僕は君を驚かせようと思って言ったわけじゃないよ。
あらためて言うけど、これは機械と人間の違いがどこにあるか、という話だ」

そういえば、そんな話だった。
ややこしくしているのはハルなんだが、俺は「ああ、そうだったな」と返した。

「脳というハードウェアは動的だから、必要に応じてシナプスのつながり方が変わる。これはつまり、インストールできるプログラムの定義や種類を変えられるということを意味する。
コーヒーを淹れるのと同じ手指をつかって、パソコンのキーボードを叩いたり銃の引き金を引いたりできる。
機体をどのように扱うかという部分を、脳内のソフトウェアによって変えられるわけだ」

いかんせん言い方が回りくどいが、何とかハルの言わんとするところは分かった。
つまり、俺たちの肉体にあらゆる行動を可能としているのは、脳みそに蓄積された経験や知識に依るということだ。

「さて、もう一度機械のハードウェアに目を向けようか。ソフトウェアが宿る、基盤に取り付けられた数々の半導体や回路。言うなれば、あれは人間の脳におけるニューロンとシナプスみたいなものだ」

「…半導体や回路の形は、生産されてから廃棄されるまで変わらない」

「そう、つまりは静的ということだね。それは、機械の振る舞いは機械自身の判断で変えられないということを意味する。コーヒーメーカーで紅茶を淹れるには、そもそも基盤を取り替えなくちゃいけない。
というわけで、ハードウェアが静的なのか動的なのかという点が、機械と僕ら人間を別っているんだよ」

話をまとめるようなハルの言い回しに流されかけたが、俺は本題が全く片付いていないことを思い出した。

「おいハル、そもそも俺の質問は“心の見える化なんて可能なのか?”だったはずだ。今の話がそこにどう繋がるのか、さっぱり判らんぞ」

「ん…そうだったね。でも、同じ話だよ。
ハードウェアが動的である点を除けば、人体も機械と同じ。
僕らが“心”と呼んで大事にしているものは、ニューロンとニューロンをつなぐシナプスに走る電気信号———こう言ってよければ、美味しいエスプレッソの淹れ方を規定するコーヒーメーカーのプログラムと同じなんだ。
コーヒーミルをどれくらい回せば好みの味になるのか、どれくらいゆっくりと湯を注げば香りが立つのか、それらは心が出力する感情に基づいての判断になるわけだからね」

「…えらく安っぽい心だ」

「電気信号である以上、それは物理法則に基づいた生体反応に過ぎない。つまり、テクノロジーで言語化することも可能だ、というわけさ」

ハルはそう言って、紙コップに残ったコーヒーを飲み干した。

「———もっとも、コーヒーを淹れるだけの機械なんかより、僕ら人間はよほど多様で複雑だ。
だからこそ、心というプログラムが必要なんだけど」

疑問を残すような言い方で締め括られたが、そろそろ難しい話を聞くのも疲れてきたので、俺は「なるほどな」と言って煙草を灰皿に捨てた。

「とりあえず、あの男がホラ吹きの宗教家じゃなさそうということは判った。冷静に考えると戯言にしか思えない話だったが、実現可能性が無いわけではないらしい」

「ああ、そこが気になってたのか。でもヒバカリ———」

「ん?」

「僕が“可”と言えるのは、テクノロジーの話だけ。勧善装置というのは、概念だ。いや、もしかしたらそれは…“祈り”と言って良いのかもしれない。染井義昭という人間による、平和への祈り」

「何が言いたい?」

ハルが、空っぽになった紙コップを目の高さまで上げて、

「このコップ、定期購入してるコーヒー豆の付属品なんだ。製造元は、コーヒーを入れる容器としてこれを作ったに違いない。でも———」

と、灰皿の近くに落ちていた吸い殻を取り上げて、コップに入れる素振りをする。

「これに何を入れるのかは、消費者次第だ。人によっては、煙草の吸い殻を入れたりする。そしたら、これはコップじゃなくて携帯灰皿かゴミ箱だ」

そう言ってハルは、紙コップに入れようとした吸い殻を、ちゃんと灰皿に捨てた。

「つまり、作り手が製品にどんな思いを込めているかなんて、使う側からしたら関係ないのさ。勧善装置であれと願って生み出されたIMGが、果たして意図通りに機能するのか?それは、本当に分からない」

…おっしゃる通りだ。
どんな目的のもとで作られていたとしても、そんなものはユーザーにとって何の関係もない。
むしろ、正反対の結果を招く可能性すらある。

全ての他人を知人に昇格させることで、争いを抑止しようという目論み。それは作り手…つまり染井氏の勝手な都合であって、希望的観測でしかなく、実際には心の内を詳らかにされることで生まれる争いもあるだろう。

だが———もし、目論見通りに事が運んだら?

テクノロジーという補助輪をつけることで、人々が自ずと互いに歩み寄る新世界。
そこでは、利己的な暴力によって血が流れることは無いかもしれない。少なくとも、あのクソったれな東京よりは。

それを創ることができるなら、その一助となれるなら、俺は———

いや、まだ結論を出すには早い。
猶予はあるんだ。じっくり考えよう。

「さて、そろそろ戻るか。随分と長い煙草休憩を取っちまった」

「うわ、もうこんな時間か。急がないと…この後ミーティングがあるんだった」

モブで時間を確認したハルが、焦った声で言った。

「何のミーティングだ?」

何の気も無い問いかけに、ハルがニヤリと笑って、

「君らの土産を解析できたから、その件でね」

「土産?」

「アドワークスが使っていた秘密道具、ナノマシンのことさ」

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