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インガ [scene003_06]

右手で拳銃を構えながら、左手をドアノブにかけるハナヤシキさん。
こちらを見て小さく頷くと、ゆっくりドアを開けて室内に侵入した。

「…クリア」

そう呟いて手招きするハナヤシキさんに従い、私も後に続く。

部屋には相変わらず弥生が鎮座していた。さっきと違うのは、エレベーターがある通路側の鉄扉が吹き飛んでいることくらい。

部屋の端を見ると、ボコボコに歪んだ鉄扉の残骸が無惨に転がっていた。
さっきまでの私なら、その様子からインガの破壊力を想像して冷や汗をかいていただろう。
でも今は、心に整理をつけられる。恐怖はあるけれど、思考と行動を止めずにいられる。

「行こう」

ハナヤシキさんが小声で言った。
私も鉄棒を握りしめて、頷いて返す。

しかし、意を決して進んだ通路には、残るインガの気配が無かった。

「…そうきたか」

先行していたハナヤシキさんがエレベーター前で舌打ちする。駆け寄ってみると、私もすぐ異変に気づいた。

エレベーターが、無い。

いや、開閉扉はあるのだけど、その中身が無かった。取り付けられた窓を覗いても、そこには暗闇があるばかりで、肝心の昇降機が無い。

「奴らめ、まず地上のヒバカリから潰すことにしたらしい」

つまりこういうことだ。
私達を襲撃した6体のインガ、そのうち半分はここで待ち伏せすることなくエレベーターで地上に向かった、と。

これで、この場所でインガと対決することは無くなった。けれど、同時に私たちは退路を断たれてしまい、いよいよ袋の鼠だ。有り体に言うと、なす術がない。

もしかしたら、この通路で6体にバラけたこと自体がブラフだったのかもしれない。
私たちに「この旧メディカルセンターがフィールドだ」とミスリードさせ、この状況を生み出すための。

よくよく考えれば、これはかなり不安な状況だ。当初はここで決着する筈だったし、そのために乱戦すら覚悟していた。
それが、当のインガはエレベーターで新メディカルセンターに移動してしまい、恐らくはヒバカリさんが対処に迫られている。
となると、私たちにできるのは「勝利したヒバカリさんの救助」を待つことだけ。

でも…ヒバカリさんだって柔ではないだろうけど、インガ3体を相手に無事で済むとは思えない。

どれくらい時間がかかるかわからないけど、数分以内にエレベーターが降りてくるだろう。その中に誰が居るか、それが私たちの命運を分ける。

…命運を分けるのだけど。
正直言って、私はむしろ落ち着いていた。

あのインガとここで相対する必要が無くなったことに、ほっとしてしまったのだ。

「いや、お嬢さん。すまないが一息ついてもらうわけにはいかんぞ」

「え?」

ハナヤシキさんを見ると、たて続いた戦闘———じゃなくて一方的な破壊———によりずり落ちてきていた袖を、あらためて捲し上げている。
そして肩を回しながら、

「時間はあまりなさそうだが、急いで地上に戻るぞ」

「どうやってですか?このエレベーターは昇降機の内側にしかボタンが無いんでしょ?」

ハナヤシキさんが不敵に笑い、

「なに、だったら登ればいいだろう」

と言い放った。
いやいや、そんな非現実的なこと…。このエレベーターは新メディカルセンターの最上階、12階までの直通。ここは5階建ての旧メディカルセンターの3階に位置しているから、単純計算で14階分の高さがある。
それを身ひとつで登るなんて、いくらインガを生身で沈黙させる屈強さのハナヤシキさんでも無理だろう。

そう私が反論しようとするのを見越してか、ハナヤシキさんは

「ここぞ、だ。奥の手を使う」

と言い、目を閉じてしゃがみこんだ。
その所作には見覚えがある。黒インガに襲われたあの駐車場、動きを止めた睦月に狼狽えていたとき…そう、ヒバカリさんが同じことを。

背後で機械音がした。
次いで、コンクリの通路を鉄が打ち鳴らすリズム。やっぱりそうだ。

弥生が現れた。
疑問の余地はない、ハナヤシキさんがドライブしている。

「よし、流石は染井博士のオリジナル…何の問題もない」

「もしかして…」

目を開いて立ち上がったハナヤシキさんが、

「お察しの通りだ、お嬢さん。失礼するよ」

と、弥生で軽々と私を抱き上げた。いわゆるお姫様抱っこのような格好となり、思わず小さな悲鳴が漏れ出る。

ハナヤシキさん本人はというと、エレベーターのドアに手をかけていた。もともとロックされていなかったのか、やけにあっさりと開かれる。

「お嬢さん、弥生にしっかりと掴まっていなさい」

そう言われて、弥生の首に両腕を回し込むようにしがみ付く。その様子を確認してから、弥生は私を右腕のみで抱える格好をとり、勢いよく昇降機の無いエレベーター内部に飛び込んだ。
壁には非常用の梯子が取り付けられていて、彼は自由になった左手をそれに引っ掛けた。

次いでハナヤシキさん自身も飛び込んできて、弥生の足首を掴みぶら下がる。

「さあ急ごう。すこし乱暴になるが、我慢してくれ」

「え?」

瞬間、もの凄い勢いで飛び上がる感覚に襲われた。
弥生が左腕一本で、全身を垂直に放り上げたのだ。そして推進力が失われた瞬間、その位置にある梯子に手をかけてまた宙ぶらりになる。

その1回の動作で、おそらく3階分くらいは登ったんじゃないだろうか。
遊園地の絶叫マシンさながらの急速移動に、私の喉は昨日から数えて何度目かわからない悲鳴をあげた。

「大丈夫か」

「は、はい。びっくりしましたけど」

「そうか。なら、あと5回ほど我慢してくれ」

ハナヤシキさんが言うや否や、今度は休憩なしの連続垂直飛びが見舞われる。
下手をすればインガに襲われたときより心拍数が跳ね上がったけど、とにかく最上階に到着した。

到着したといっても、そこには昇降機があったので、私たちはまず頭上の箱に侵入することから始めなくてはならなかった。

ハナヤシキさんに指示されて、慎重に弥生から梯子に乗り移る。

「すまないが私の身体の前に来てくれ。危ないからな」

と、すでに梯子に手を掛けていたハナヤシキさんが、自身と壁との間に隙間をつくってそこに収まるようにと促してくる。素直に従い、私はちょうどサンドイッチの具のような形になった。

それからハナヤシキさんは、弥生を操って昇降機の床の一部を強引に引き剥がしにかかる。
相当に頑丈な造りをしているのか、流石に数分かかってようやく箱の中に乗り込める隙間が出来た。
そこから弥生が昇降機に乗り込み、ハナヤシキさんの胸元から這い上がった私を引き上げる。

「あ、ありがとう」

弥生に向かってそう言うと、床の穴から「どういたしまして」と本人が這い上がってきた。目の前に同一人物が2人居るというのは、なかなか混乱させられるものがある。

「…静かだな」

言われてみれば、エレベーターの中とはいえここは局長室。ヒバカリさんと白いインガたちが会敵しているなら、戦闘音らしきものが聞こえても不思議じゃない。
もしかして、もうケリがついている?

「いや、それならエレベーターが降りていないことに説明がつかん。
どちらに軍配があがったとしても、勝者がいるなら地下に来ていたはずだ。相打ちでもない限り、な。
とにかく、出てみればわかることだ」

と、弥生でエレベーターのドアをこじ開けるハナヤシキさん。そこから局長室を覗くと、案の定人影は無い。
ただ…

「ひどい…」

壁一面に敷き詰められていた本が散乱していて、一悶着あったことがわかる。

「待て」

無意識に踏み出そうとした私を引き留め、ハナヤシキさんが銃を構える。そして素早くかつ慎重に、弥生が開けたドアから一歩踏み出して局長室をチェックした。
まるで先端に目がついているかのように、瞳から銃身そして銃口までを水平一直線に結んだまま、円形の室内を天井まで、隈なく。

「…クリア。出てきなさい」

そう言われて、今度は恐る恐る足を踏み入れる。

「…ヒバカリさんは」

「奴があの程度のドライバーに遅れをとるとは思えん。しかしこの様相…この場所に誰もいないという事実。
ここでやり合ったことは間違い無かろうが、院内に待避せざるを得ない事情があったのだろう。
患者とスタッフが心配だ。行こう」

珍しく…いや、いよいよもってハナヤシキさんの表情から余裕が失われてきた。
最初ここで話したとき彼は、この場所にいる人達だけは何としても守り抜くと、それこそが自分の正義だと言い切った。危惧していた“万が一”に見舞われたのだ、冷静でいられるはずがない。

それでも感情的に取り乱さないのは、私が居るからだろう。今のハナヤシキさんにとって、私は護衛対象に他ならない。
けれど、その私こそがこの事態を招き入れた張本人だ。私がここに来たから、ここをセーフゾーンにしたから、こんなことに。

「すみません、私のせいで」

「…お嬢さん、取り消しなさい」

ピリッとした声音に、全身が緊張した。ハナヤシキさんが、厳しい顔つきでこちらを見ている。

「君は当事者だ。この事態は、紛れもなく君を中心に起きている。
そうだとも、君がここに来たことで、財善が誇る医療の象徴は未曾有の危機に晒されている。
だが、それは君のせいではないだろう。君はこうなることを、ほんの少しでも望んだのかね。
そうであれば許すことはできないが、そうではないだろう。
謝ってはいけない。身に覚えのない、意図していない悲劇を根拠なく背負うな。
それは責任感とは言わない。ただの逃避だ。
当事者であるなら、この現実から逃避してはいけない」

私の目を真っ直ぐに見据えながら、穏やかに、それでいて厳しい口調でハナヤシキさんが言った。

お説教。
これはお説教だ。行動ではなく、思考を正すための。

「…はい、すみません」

「ふむ、わかればよろしい。なに、君は何も心配するな。気に病むな。
いま君が考えなくてはいけないのは、ここから無事に脱出することだ。
それだけを真剣に思考していなさい」

わかりました。そう返して、あらためて鉄棒を握りしめる。
その様子を見て、ハナヤシキさんも頷いて銃を構え直した。

「当初の計画では、この場所でヒバカリに君を引き渡す筈だった…が、肝心の奴がいない。
おそらくはここでモニュメントのインガとやり合い、何らかの事情で階下に退避したのだろう。
インガもヒバカリもこの場所に戻っていないのは、まだ決着がついていない証拠だ。
というわけで我々の次なる目標は、残るインガの機能を停止させつつ、ヒバカリと合流することとなる」

「はい」

「ちなみに、奴らと連絡はつくかね」

そういえば、ハルさんやヒバカリさんに連絡するのを忘れていた。地上に戻ってきたのだから、通信も回復しているはず…あれ?

「…ダメです、つながりません」

「ふむ…おそらくはこの敷地全体に、何らかの装置で通信障害が起こされているのだろうな。いわゆる、ジャミングというやつだ。
IMGを使っても無理かね?」

「IMG…出来るだけ使わない方が良いと言われてるんですが」

「それは敵方に君らの位置を悟らせないためだろう?すでに襲撃されている現状では、意味を為さない対応ではないかね」

言われてみればその通りだ。さっそくモブを取り出してIMGを立ち上げる。
不思議と、何の異変もなくスムーズにアプリが起動して、ハルさんのアイコンが表示された。どうやら私のログインを待っていたらしく、すぐさま通信がかかってきたのだ。

『ヨシノくん!ああ、よかった…無事だね』

モブの画面いっぱいに表示されたハルさんが、心底ホッとしたという様子で大きな溜息を吐く。
そしてこちらのカメラに映るハナヤシキさんが目についたのか、

『先輩…お久しぶりです』

「うむ。貴様とも昔話に興じたいところだが、場合ではない。
先ほどまで地下にいたのでね…この施設の部外者に頼むのは恐縮だが、状況を貰えるか」

『ええ。先輩もIMGにログインしてください』

頷いてモブを操作するハナヤシキさん。その様子を横目に、私も気がかりだったことを尋ねることにした。

「ハルさん、ヒバカリさんは?無事ですか?」

『もちろんだ。ただ少し厄介なことになってね…あいつは今、単独で院内のスタッフや患者の避難誘導にあたっている』

「単独だと?警務部は何をやっている」

ハナヤシキさんが珍しく驚いた声をあげた。

『厄介なこと、というのはそれでして。あなたとヨシノくんが襲撃を受けてすぐ、その敷地一帯に妨害電波が放たれました。
僕がヨシノくんと連絡できなかったのは、これが原因。
でも、敵はIMGまで潰すことはできなかった…彼ら自身も、遠隔でインガを操作しているから。
ただ増援を避ける必要はあったから、奴らは“メディカルセンターから財善本部につながる回線のみ”を遮断したんです』

「…なるほど。要するに、ここから警務部への通報のみが潰されているのだな。では貴様が通報できない理由は何だ?」

一瞬、ハルさんが言葉を詰まらせる。

『…変わりませんね、先輩』

「いいから答えろ。警務部が来ていないということは、新川、おそらくは遠隔にいる貴様も通報できなかったという意味だろう」

『ええ、おっしゃる通り。でもその理由は、あなたを怒らせる』

嫌な空気だ。
まるで溜め込まれた宿題を見つけた親が、我が子の怠惰を叱りつけているような。

「言え」

『…僕の、僕らの目的がヨシノくんを守ることだから、です』

ハナヤシキさんが、チラリと私を見る。

「なるほど。IMGに足跡を残す行為は、敵方の思う壺か」

『すみません』

「ふむ、謝る必要はない。私が貴様でもそうする」

えっと、つまり…どういうこと?
疑問符を頭上に飛ばす私を見て、ハナヤシキさんが補足してくれる。

「新川がIMGを使って財善に通報すれば、奴自身の位置情報をネットに残すことになる…個人認証無く企業自治体への通信はできんからな。
そうなると、君をここから脱出させられたとしても、パン屑…トレーサビリティを抹消し切ることが出来ず追手を振り切れない。
つまりお嬢さん…私の後輩はね、君と私の城を天秤にかけて、君を選んだということだよ」

「…え?」

モブのIMGインターフェイスに表示されているハルさんを見る。
少し俯き加減になっているその顔には、心痛が浮かんでいた。

「新川、報告したまえ…現時点の被害者数は?」

『軽傷者32名、重傷者4名、死者が…3名』

淡々と報告するハルさん。

「そうか。死者3名…そうか」

復唱するハナヤシキさんの米神に、青筋が浮かんでいる。

「…警務部の人たちが来ていたら。ハルさんが、通報できていたら…」

「お嬢さん、やめなさい」

ハナヤシキさんが私の肩に手をやり、首を振る。モブの画面に目をやると、ハルさんが下唇を噛んで呵責に耐えていた。

…そんな。
私が呼び込んだ危機なのに、私のために正しい対処が出来なかった、なんて。

「…」

すみません、という言葉が喉をついて、辛うじてそれを飲み込む。
言われたばかりだ。私が望まない悲劇、その責を無根拠に背負ってはいけない。

これは私のために起きた問題だけど、私のせいじゃない。
逃避ではなく、向き合った結果としてそう受け止めるべき。

…でも、

「ハルさん、ありがとうございます」

私のために…私を守るための判断をしてくれたハルさん達に、頭を下げた。

『…ごめんよ、君に重荷を与えたくはなかった。
だからお願いだヨシノくん、今はハナヤシキ先輩とヒバカリの元に向かってくれ。
あいつは今、空中庭園だ。ほとんどの患者とスタッフは退避できたけど、その過程であいつは自分を囮にして、空中庭園まで追いやられた』

「新川よ、私が言えた義理ではないが、気に病むな。
貴様は貴様の使命のため、正しい判断をしている。何より、ヒバカリがまだ戦っている。お嬢さん、行こうか」

そう言って、ハナヤシキさんが歩き始めた。
その顔は依然険しく、心なしか足早に。

ハルさんの判断は、この人が1番大切にしている———私という個人より優先すると断言した人達を切り捨てるものだ。

気に病むなとは言っているものの、怒りを感じていないわけがない。

私はこのままハナヤシキさんに頼って良いのだろうか。この人の心の内が気になって、IMGに手が伸びかける。
…いや、やめておこう。今はハルさんの言う通り、空中庭園で戦っているというヒバカリさんとの合流を急ぐ時だ。

『ヨシノくん、先輩。エレベーターは使えない…敵が空中庭園で破壊してしまった』

「非常階段を使おう。お嬢さん、まだ走れるか」

「はい、大丈夫です」

最上階の局長室前フロア、その端に非常口マークがついた小さな鉄扉があった。ハナヤシキさんが、警戒しつつもその扉を開けて「さあ、入りなさい」と言う。

薄暗い非常階段を駆け下りながら、IMGでヒバカリさんのアカウントを確認する。…ダメだ、オンラインになっているけれど通信がつながらない。

「余裕がないのだろうな。急ぐぞ」

ハナヤシキさんに言われて、私はモブをブレザーのポケットにしまい、足を動かすことに専念した。

大丈夫。
あのヒバカリさんが、簡単にやられるわけがない。

そう自分に言い聞かせながら、ひたすら階下を目指す。

普通の建物ならすでに5階分は降りたであろう頃、ようやく空中庭園に出られた。

「…ヒバカリさん、どこでしょうか」

「わからん。移動したのかもしれん」

空中庭園は静まりかえっていた。空間を彩っていた観葉植物がそこら中に転がっていて、ガーデンチェアもいくつか破壊されている。
ここで戦闘があったのは間違いないだろう。
でも、肝心のヒバカリさんや逃げ遅れた人達の影は見えなかった。大きなオブジェなどが置かれているわけではない、この見通しの良い空中庭園では、およそ何者かが息をひそめている可能性も低い。

「新川、ヒバカリの現在地は」

『そこにいるはずだ…二人とも気を付けて、そこにインガの反応は無いけど、何があるかわからない」

鉄棒を握り直し、慎重な足取りで円周をなぞるように端を進む。
やはり、ヒバカリさんはおろかインガの影すら見当たらない。

「…」

銃身越しに空間全体を見渡しながら、ハナヤシキさんが庭園中央の湖に向かっていく。私も周囲に目を配りながら後に続いた。
慎重かつ足早に進み、湖上の橋に出る。ハナヤシキさんがモニュメントを見せてくれた、あの橋だ。

IMGをログイン状態にしたまま、モブのカメラを起動する。
そこには先ほどのような賑やかしさは無く、現実と相違ない荒らされた庭園が広がっていた。
それは想像通りの画面だったのだけれど、やはり大事なものが壊れてしまったことを知らしめられたようで。
ともかく、私はモブをポケットにしまって肉眼を庭園に向けた。

ここにいるはずのヒバカリさん。姿を見せないのは、もしかして…いや、悪い想像はしないでおこう。

「…お嬢さん」

「ハナヤシキさん、教えてください」

橋の中央、モニュメントがあったグローリーホールの真上で、ハナヤシキさんに向き直る。

「あなたが仰っていたイデアとは、どんな…あなたはそこに、何を求めていたんですか?」

ハナヤシキさんが銃を収めて、こちらを真っ直ぐ見る。

「…全世界同時多発テロ。君が幼かった頃のことだが、忘れ得ぬだろう。君の、染井博士のご家族を奪った事件」

「…もちろんです。あれから父は…もしかして、ハナヤシキさんも?」

背後から着いてきていた弥生、その頭部に手を伸ばして頷くハナヤシキさん。そこには、旧メディカルセンターで見せた慈愛の顔があった。それと、少しだけの心痛。

「私の愛する人がね、君のお母さんとお兄さんが居た施設に、ちょうど同じ日、同じ時間に居たのだよ。
私は彼女に…由美に逢えるなら、何だってする。その一心だ…それだけだ」

再び銃を抜いて踵を返すハナヤシキさん。
やっと、この人のことが少し理解った気がする。

理想を突き詰めて、細部まで抜かりなく形にした財善メディカルセンター、そこの局長職。
肩書きが何であれ、この人は失った愛を求めるひとりの人間なんだ。

ヒバカリさんは知っているのだろうか。
この人が何のために、何を想ってこの城を与っているのか。

この現状は、私のせいじゃない。だとしても、ハナヤシキさんが大切にしているこの場所を壊したのは、私なんだ。

正しくそう思って、心の中で、すみませんと呟いた。

「ハナヤシキさん…」

「…」

「私たちはここを出ます。ヒバカリさんと合流したら、すぐに」

先を行くハナヤシキさんの背中に、話しかける。

「…お嬢さん」

「護ってくれたこと、感謝しています。落ち着いたら必ず挨拶にきます。だから———」

「お嬢さん、伏せなさい!」

弥生が私に覆いかぶさり、ハナヤシキさんが振り向きざまに銃を撃った。その破裂音に合わせて鉄が弾ける音がして、背後で何かが崩れ落ちる。

「なに!?」

『インガ…!そんな、そこに反応は無いのに!』

ハルさんの焦った声がする。どうやら、橋の下からインガが飛び出してきたらしい。
インガが脇を走り抜ける気配。次いで3発の銃声が鳴り、ハナヤシキさんの呻き声が聞こえた。

「ハナヤシキさん!?」

私に被さっていた弥生が倒れる。ハナヤシキさんの操作が切れたんだ。
顔を上げると、膝を折ったハナヤシキさんの腹部が血で染まっていた。
明らかに重症とわかるその様子に、全身から血の気が失せるのを感じる。

「ハナヤシキさん!し、しっかりしてください!」

『先輩!』

私とハルさんの焦った声を、右手を上げて制するハナヤシキさん。

「落ち着きなさい…1発もらってしまったな……ふん、何てことはない。
し、新川…貴様の方でこいつらは、検知できてなかったのだな?」

『すみません、まさかこんな…くそっ、院内のIMGが乗っ取られてるんだ。なんで気付かなかった…』

ハナヤシキさんが立ちあがろうと膝を立てるも、よろめいて橋の手すりに寄りかかり、そのまま崩れる。

「ふ、ふふ…歳だな。鉛玉1発でこのザマとは情けない…」

「すぐに手当を!ち、血を止めないと…」

「落ち着きなさい、と言ったはずだ。…うぐっ、痛むな…生きている証拠だ。
…新川よ、ここのIMGが掌握されていたなら、貴様に気付けるはずもない。貴様がモニタリングしているのは、その乗っ取られたIMGなのだからな。だから気に病まず、このお嬢さんを助けることだけ考えなさい」

『先輩、でも…』

「新川。貴様は、すでにこの娘と当院を天秤にかけて、そして前者を選んだ。
ならば…結論を変えるな。想いに殉じろ。
貴様の脳みそが出した結論を…疑うな…裏切るな。
なに、心配はいらん…少し休めば動ける」

そう言って目をつぶり、深呼吸するハナヤシキさん。
少し間があって、倒れていた弥生が立ち上がった。

「…すまんな、二人とも。私はここで、少し休ませてもらおう。
だが心配するな…弥生が、お嬢さん、君を護る」

「ハナヤシキさん…」

顔面蒼白となっている私に、ハナヤシキさんが笑ってみせる。

「正直に…言うとだね、ターゲットである君が…ここに居続けると、困るのだよ。
またぞろ敵襲に…見舞われたら、今度こそ致命傷は……避けられんだろうからね。
だからお嬢さん、行きなさい。
少し休んだら…必ず、追う…」

言い終わると同時に、弥生が私の手を引いた。
その顔はのっぺりとしていて目も鼻もないけど、ハナヤシキさんの岩のような顔が見てとれるようだった。

最後の物言いは、私からここに留まり続ける理由を無くすためだろう。この数十分で、何度この人の言葉に尻を叩かれたかわからない。

私は弥生の目を見て頷き、その場を離れた。

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