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インガ [idea_001]

「ヨシノ、PALCOいこ」

と、私の鼻先とタブレット端末の画面との間に、カオリが勢いよく顔面を割り込ませてきた。

「もう、ビックリするからそれ辞めてって」

「まだ慣れないの?」

「慣れを待つんじゃなくて、アプローチを変えてってば」

かなり本気で文句を言ってるつもりなんだけど、カオリには全く効果が無いらしく、彼女は口を尖らせる私の様子にケラケラと笑い声をあげた。

「まったく…ちょっと待ってて、今片付けるから」

友人の悪戯で中断されたロック動作を行い、スリープモードになったタブレットを鞄に仕舞う。学業に必要な荷物は、これっぽっちのものだ。

中学1年の頃は、まだ紙媒体の教本や参考書が科目ごとに複数用意されていて、発育途中の幼い身に物理的にも精神的にもドッシリと重みを与えていた。

ここ数年で、そういったデッドメディアは教育現場から姿を消してしまい、代わりに教師と生徒ひとりひとりに支給されたのがタブレット端末だ。

鉄とガラスを重ねた薄い板の中には、何千何百の書物よりも膨大な情報が詰め込まれていて、ホームボタンに指紋を読み込ませて画面を撫でるだけで、その全てにアクセスできる。
もちろん、それは教科書に限った話ではなく、かつて紙媒体で出版されていた書籍は、ほとんどが電子に移行してしまった。

「片付いた?よし、行こう」

「ちょっと待ってね、あとコレも…」

タブレットは便利なものだけど、風情は無い。
紙の手触りと匂いが好きな私は、未だに小説は紙面で読むようにしている。
実用性は低いけど、その方が“読んでる”という気分が強く味わえるからだ。

今や紙の本は、黒電話や蓄音機なんかと同じくアンティークグッズとしての扱いを受けている。
本来の使い道を忘れられ、古式ゆかしいデザインを好む人達の部屋を飾る家具として。
こう言って良ければ、もはや単なる置物以上の価値を見出せてもらえていないのだ。

私の趣味は、そんな骨董品に本来の姿を思い出させること。つまり、タブレット以外にも紙の小説を数冊鞄に仕舞い込む作業が残っている。

「今日も持ってきてるの?今度は何読んでるの」

机の引き出しから2冊、3冊と文庫本を取り出す私を待ちながら、あまり興味無さげな声でカオリが訊いてくる。

そんな様子に敢えて気づかないふりをしながら、

「何十年も前に出版されたSF。面白いんだよ、イルカの肉を使った飛行機が出てきたり、目薬を指したらコンタクトレンズが出来上がったり…実際とはちょっぴり違うけど、私たちが使ってる道具と似た物が沢山出てきて。本当にすごいSFって、預言書みたい」

「イルカの飛行機?なんだかメルヘンだ」

「それが途上国の子供を工場で働かせて生産されてる、て聞いてもそう思う?」

私の一言に、カオリはあからさまにげんなりした顔をする。

「それ、本当に面白いの?」

「うん。もちろん、面白いのはそこじゃないけどね」

ちなみに、そのSF本を手に入れたのはつい昨日のことで、中古のアンティークショップに売られていたのをジャケ買いした。
真っ黒な表紙に、明朝体の白いフォントで大きく四文字熟語が並んだだけの、シンプルながら印象的な小説。
直感的に名作だと思って手に取り、数ページ目を通しただけで虜になった。勢いで今日の昼には読了していたのだけど、しばらくは世界観から抜け出せそうにない…それくらい、繊細かつ生々しい描写が印象的な作品だ。

残念ながら、作者はこの本を書いてすぐ亡くなってしまったようで、遺作の数は片手で数えるほども無い。ただ、店の棚にはその人の著作が全部揃っていて、私は財布の紐を目一杯緩めて大人買いしておいた。
だから、今日私が鞄に仕舞う小説には、どれも同じ著者名が記されている。

「たまにはカオリも読んでみる?」

何気なく読了済みの一冊を勧めてみたら、カオリは表紙を見るなり「そんな物騒なタイトル、怖くて読めない」と無碍に断られてしまった。
沼に引き摺り込んでオタッキーな談義を楽しみたかったので、残念。

「…ヨシノって老け専なの?」

引き出しから取り出した一冊———というより、表紙に大きく印刷された老人の顔を指差して、カオリがそう言った。

「安直過ぎるでしょ。そうじゃなくて、彼が主人公なの。あんたは知らないだろうけど、すっごく有名人なんだよ、彼」

そう返しながら、鞄の中で揉みくちゃにならないよう、一冊ずつ丁寧に片付けていく。
紙の本は高級品なのだ。出来るだけ傷や汚れをつけたくない。

「はい、片付け完了。お待たせ、カオリ」

「うい、今日はダウンを買いにいくよ!」

肌寒さを感じる気候ではあるけど、今はまだ10月半ば。冬物を買うには早過ぎるんじゃないだろうか?

「オシャレさんは新作を買うの!」

と、ニッコリ笑うカオリ。眩しい笑顔だ。
私は大袈裟に呆れてみせて、

「この間は『本当のオシャレは古着に行き着く』とか言ってなかった?」

「それ、大須に行ったときでしょ?今日行くのはPALCOだよ」

真顔で支離滅裂なことを言うカオリ。ある意味で尊敬に値する。

まあ、理路整然とした答えを期待していたわけでもないので、私は「なるほどね」と適当なことを言って席を立った。

「あ、ねえヨシノ、PALCO行く前にサイゼ寄ってかない?」

「えっ、お腹空いてるの?」

ショッピング前にファミレスを提案してきたカオリ。
でもこの子、今日の昼にハンバーグカレーなんてワンパクな代物を平らげてたんだけど。あれから3時間しか経ってないけど、そんなに燃費が悪い身体なのだろうか?
そもそも、彼女は小柄かつスレンダーな体型をしていて、私はいつも食べた物がどこに消えているのか不思議に思っている。

「ていうより、気になる新メニューがあるのよ」

「何よ、新メニューって」

えへへー、とニヤけ顔になったカオリが、スマートモブの画面をこちらに向けてくる。
そこには、ストロングベリーパフェなどというこれまたワンパクな商品名とサンプル画像があった。というか…

「これ、サイズおかしくない?」

サンプル画像には、サイズ比較として通常のパフェとストロングパフェが並んでいた。
問題は、ストロングが通常サイズの3倍ほどの大きさであるという点。

「私、あんまりお腹空いてないから、そこまで手伝えないよ?」

「何言ってんの、ファミレスでは1人ひとつ以上はメニュー頼まないといけないでしょ」

「それ1人で食べる気?」

驚愕の声を上げる私に、カオリは不思議そうな顔をしている。なるほど、この程度は1人で完食するのが当然なのね。

「わかった、わかった。じゃあサイゼ行こう」

「わーい、アガってきたー!」

小躍りでスキップしていくカオリを追って、私も教室を後にした。

昇降口で靴を履き替え、校舎を出る。
本番の冬は当分先だけど、乾き始めた空気が冷んやりと肌寒さを与えてくる。
ダウンはまだ早いだろうけど、私もカーディガンくらいは買っておこうかな。

「あ、カオリ。ちょっと待ってね」

立ち止まりモブを取り出して、家族用のグループチャットを開く。
両親と兄のアカウントが揃っているそこに、私は「カオリと寄り道していくから、帰るの遅くなる」とメッセージを投下した。即座に、大学生の兄からスタンプが送られてくる。

「これで良し、と」

モブを上着のポケットに仕舞い込み、サイゼに向かって歩き出す。

今日の夕飯、何だろう。
オムライスだといいな。

「あれ、どうしたの」

「…え、何が?」

数歩先でこちらを振り返ったカオリが、私の目元を指差す。
手をやると、指先が湿るような感覚がした。

…涙だ。

「何だろ…これ」

「何、大丈夫?嫌なことでもあった?…私何かしちゃったかな」

笑顔を作って首を振り「そんなことないよ」と答えつつ、不意に流れてきた雫の原因がわからなくて困惑した。

———困惑しながら、胸を締め付けられる感覚があることに気づく。

どうしてしまったのだろうか、本当に。
こういうとき、自分の心の中が見えたらいいのに…。

「今日はもう帰る…?」

「ううん、私カオリと寄り道したい。もう、そういう気分になっちゃってるから」

「あはは、何それ。楽しみすぎて涙出ちゃった?そんなの聞いたことない」

「私もだよ」

他愛無いやり取り。
些細で日常的なことなのに、まるで夢が叶ったみたいな気がしている。

さっきの切なさは消え失せていて、これでは情緒不安定も良いところだ。

…でも、本当、幸せだなあ。

我ながら、のほほんとした結論だけれども、心の底からそう思った。

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