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【思い出】父

もうすぐ父の命日がやってくる。早いものでもう26年も前のことになる。

命日でなくても、時折、父はどんな人物だったのかを思い起こしてみる。

父は10人兄弟の下から2番目で、成人してからではあったが、後継のいない親戚の家の養子になった。その翌年に母が父の元に嫁いだ。二人はお見合いで出会い、お互いをまだよく知らないうちに結婚した。両親はとても仲の良い夫婦だったが、年に一度、決まって大きな喧嘩をした。父はとても温厚な人であったが、母との喧嘩では必ず新聞紙をドアに向かって投げつけるのだった。あんなに激しく口論をしていたのに、2時間足らずで、二人は何事もなかったように、いつも通りの生活へと戻っていくのだった。

父はとても子煩悩な人で、我々姉妹はもとより、甥達、彼らの子供たち、そして当時はたった一人だった孫を、本当に愛おしんだ。海や川、公園にもよく連れて行って遊んでくれた。父の葬儀では、父が可愛がっていた甥っ子達、そして小学生だった、彼らの子供たちが人前も憚らず大声で泣いていた。

父は囲碁が大好きで、自分のすぐ上の兄と会う時は、必ずと言っていいほど一局、二局と交えていた。当時は狭い部屋でもくもくとタバコの煙を燻らせながら、真剣な面持ちで碁盤を眺める父の姿を、私は好意的には受け止めていなかった。今になって思うと、父はきっと、私たちにも囲碁の面白さを紹介したいと思っていたに違いない。もっと話を聞いてあげればよかった。

父は40代になってから母と一緒に社交ダンスを始め、家でも二人でしょっちゅうステップを踏んでいた。囲碁と違って、こちらは健康的な趣味に思えたので、父に誘われるがままに、私も両親と一緒にレッスンに通っていたので、時折父ともワルツやタンゴを踊った。父は同世代の男性と比べたら、意外と背が高かったので、父の姿はダンスフロアでとても見栄えがした。

父はいつも私の日常の悩み事や不満に耳を傾けてくれた。私がイギリスに行く時には、
「誰もお前の小言を聞いてくれる人がいなくなるけど、大丈夫か。」
と、とても心配していた。さすがに恋の悩みなどは相談したことはなかったが、その他の人間関係の悩み事は、ほとんど父に相談にのってもらっていた。

父の人生の最後の5年は、闘病生活で明け暮れた。体重が相当落ちてしまっていたので、人に会うことを嫌った。地元にいたら友人、知人にばったり会うこともあるだろうということで、母は父を家から電車で40分ほどのところにある総合病院へと転院させた。
もちろん夜もそれを望んだ。父の入院中、母は毎日、父を見舞いに行った。雨が降っても、雪が降っても、毎日通って、父を元気づけた。

父が息を引き取る30分ほど前に雪が降り出した。
空気を入れ替えるために少し窓を開けていたので、
「寒くなってきたから窓を閉めるね。」
と言いながら父の方を見ると、父は大きく首を縦に振っていた。それが父との最後のコミュケーションになってしまった。

父には花嫁衣装も、私の子供たちにも会わせてあげられなかった。親孝行らしいことは何もできなかった。この思いは、恐らくずっと私の胸の中にとどまることだろう。

会いたい。父に。

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