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歌詞を聴く知性、心を聴く感性【変化する音楽鑑賞のスタイル】
KAWAGOE COFFEE FESTIVAL
先日、弊塾がある川越市内の蓮馨寺というお寺で「川越コーヒーフェスティバル」という催しがおこなわれていたので、足を運んだ。
ただし、コーヒーがメインの目的ではない。
私は大の甘党であり(好きな飲み物第一位カルピス、第二位いちごミルク)、コーヒーも飲まないわけではないが、カフェイン摂取の手段という感覚が強い。
ではなぜ足を運んだかというと、私の好きなアーティストがミニライブを行っていたからだ。
「キリンジ」との邂逅
堀込泰行。
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元キリンジのメンバーで、現在はソロで活動中のシンガーソングライターだ。
学生時代の私は、ハードロックやダンスミュージック等に傾倒していたので、キリンジのようなしっとりとしたポップスはあまり聴いてこなかった。
ゆえに初めてキリンジの楽曲に触れたときも「うーん、なんだか甘ったるい音楽だな」と、さほどハマっていなかった。
※「音楽の好みは思春期に決まる」ことについて書いた記事はこちら↓
しかし、不思議と「また聴きたい」と思わされ、気づいたら車内でヘビーローテーションされるようになっていた。
メロディアスなフレーズ、透き通るようでありながら芯の通った美声、エモーショナルなギターサウンドはどれも魅力的だ。
アンコール前の最後の楽曲『エイリアンズ』が演奏された時は、境内という厳かな空間の中で、集まった人々、鳥、空気までもが彼の曲に耳を傾けているかのようで、非常に神秘的だった。
事実、参拝者たちの鳴らす鐘もその時は止まり、イベントに出店していたハンバーガー屋もパティを焼く手を止めていた。
鋭敏な言語感覚
紡ぎ出すメロディーも素敵なのだが、私が特に堀込氏に惹かれたのは、歌詞におけるワードセンスの部分である。
たとえば、以下に引用したのは『エイリアンズ』のAメロの歌詞だ。
遥か空に旅客機
音もなく
公団の屋根の上
どこへ行く
誰かの不機嫌も
寝静まる夜さ
バイパスの澄んだ空気と
僕の町
泣かないでくれ ダーリン
ほら 月明かりが
長い夜に寝つけない二人の額を撫でて
「旅客機」と書いて「ボーイング(アメリカの旅客機メーカーの名称)」と読むのが洒落ている。
提喩(シネクドキ)の一種と解釈できるだろう。
また、「公団」「バイパス」という名詞は、それだけで「僕の町」の情景にリアリティを付与している。
「不機嫌」や「月明かり」などの無生物主語を使用した表現も味わい深い。
当日のMCで、埼玉県坂戸市出身であり西武文理卒業の堀込氏が、上京時の最初の居住地として新井薬師前を選んだ理由について、「高校時代の同級生が沿線に多く住む西武線に乗ってたどり着ける『精神的地続き』の場所だから」だと述べていた。
『精神的地続き』
私はその言語感覚の鋭敏さに舌を巻いた。
歌詞で音楽を味わう
思えば、近年歌詞を見て音楽を味わう人が減ってきているような気がする。
かつての音楽の楽しみ方といえば、CDを購入して曲を聴くのと同時に、ライナーノーツ(解説や歌詞が記載された冊子)を読むのがセットであったように思う。
しかし、現代ではSpotifyやYouTube Music等のサブスクサービスの発達によって、CDを買ったりレンタルしたりする機会が失われてしまった。
したがってライナーノーツに触れる機会もない。
ロックバンドのマキシマムザホルモンのように、ライナーノーツやおまけも含めたユーザー体験を重視してサブスクを解禁していないアーティストもいるが、いまや絶滅危惧種であろう。
芸術は作者の主観的内実を人間が知覚できるように形象化したものであるが、音楽にしろ、文学にしろ、論説文のように直接的に主観を伝えてくれるわけではないので、歌詞から読み取るには負荷がかかるものだ。
そもそも歌詞は関係なく、あくまでも音として楽しめればよいという人もいるだろう。
私自身インストだって聞くし(プログレ大好き)、意味が分からず聴いている海外の曲だってある。
あのちゃんは自身のオールナイトニッポン0で次のように語っていた。
言葉にならないから歌ってるんだな、言葉にならないから音楽ってあるんだなって
たしかに、言葉では表現しきれないから歌の力を借りて表現するのだというアーティストもいるだろう(あのちゃんの楽曲は結構レトリカルだが)。
しかし、そうはいっても素晴らしい文学作品のような歌詞も多く存在する。
たとえ言葉にするのが難しくとも、それでも言葉を尽くして歌詞を書くのがアーティストなのだ。
たった1小節の言葉は、それだけで人の心を大きく動かす。
普段何気なく聴いている曲にだって、秀逸なレトリックが隠れているかもしれない。
押韻、比喩(直喩・隠喩・擬人法・提喩・換喩など)、語順の倒置、撞着語法、擬声語など……。
優れたレトリックとして人口に膾炙し名前を持つようになったものもあれば、これから新たに生み出されるものもあるだろう。
それらは全て、いかにして自分の思いを形として留めるか、いかにして相手にぶつけるかという、言葉の限界に挑む人間の尊い営みの産物なのだ。
だからこそ、それらを味わう感性とレトリックを解する知性を授けるのも国語という教科の領分であると心し、日々の指導にあたりたい。
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