「毛皮を着たヴィーナス」の感想
ここで描かれている主人公がマゾヒストなら、マゾヒストは殉教者だろう。
あらすじ(話の要約)
主人公は美しさを求めていた。最初は女神像に恋をし、次にヴァンダという女に恋をした。彼は貞淑な女か、奔放な女だけに仕えたい。中途半端なものには仕えたくないと。ゼフェリンの熱にあてられ、内にある残虐性を発揮していくヴァンダ。そして、ヴァンダがある美しいギリシャ人に恋をし、二人は破局する。ゼフェリンはその後、ひたすらに働いた。
この絵に描かれているのは…ゼフェリンが美を崇拝する姿。
そして、その信仰が洗練されていく姿である。
ヴァンダの美しさに胸を打たれ、ゼフェリンは奴隷となる誓約書を書き署名をしるす。ゼフェリンの隷従する姿がヴァンダの残虐性を目覚めさせ…ヴァンダは愛をもって鞭うつ。
やがて…ヴァンダはゼフェリンへの愛をなくしていき…ゼフェリンとヴァンダの関係は破局へと向かっていく。
終盤にゼフェリンは…
ゼフェリンへの愛をなくしたヴァンダに鞭うたれ
ヴァンダが愛する様になった恋人に鞭うたれていく。
最後の最後でゼフェリンは、官能を越えた刺激を受ける。
感想(要約)
この話は、殉教者となり死んでいく主人公の物語だ。主人公はヴァンダの美しさを崇める。彼の信仰は…ヴァンダの残酷さという試練によって、純粋になっていく。ときどき逡巡するが崇拝するものへの心が前へと推し進める。そして、二人は破局し…抜け殻になった主人公と美しさに仕えた瞬間の絵が残る。主人公は、ヴァンダが他人の恋人になるという死を以て、官能(肉体的な欲望)を越えた喜びを得た。
物語のスタート
この物語は一枚の絵からスタートする。その絵は主人公ゼフェリンが、かつてヴァンダに仕える様子を描いたものだ。
最も美しい瞬間をとらえた絵
この話は一枚の絵からスタートしている。
一人の美しい女と、男が描かれている。
女は裸に毛皮をまとっている。女はほほえみ、寝椅子に座り、左手で体を支えて右手には鞭をもち、足を男の上に無造作にのせられている。
男は犬のように横たわり、憂鬱さと情熱をもって献身している。
これは、主人公が信じる者に仕えている瞬間の絵。以下にこの絵が描かれた背景を引用するが、この様子は天上の美が自分の前に舞い降り、それを一身に受け止めている姿ではないだろうか…
そうした彼女が水浴を終わり、体から銀色の水滴とバラ色の光が波打って落ちるのを見て、私は言葉もなく歓喜の情に浸った、彼女にリネンの布をかけまわして、その輝かしい体を乾かしてやった。彼女の足の一つが、足台にのせたように私の上に乗ったときでも、静かな喜びは私に残っていた。彼女は大きな天鵞絨(ベルベッド)の外套にくるまってクッションの上に休み、しなやかな貂の毛皮が彼女の冷えた大理石めいた体に情欲的にすり寄った。彼女が身を支えている左の腕は眠る白鳥の様に、黒い貂毛のそでの中に横たえられ、その手の指は無頓着に鞭を弄んでいた。
主人公はこの様子を絵におさめよう。この美しさが失われる事こそがもっとも恐ろしいことだと主張する。
見返りを求めない。中途半端なものは愛さない
彼は物語の最初に、石の女神像に恋をしていた。愛するという行為に見返りを求めない。その美しさこそが全てだと言わんばかりに…
私は病的な烈しさで情熱的に彼女を恋している。永遠に変化せず、永遠に静かで、石のほほえみ以外には、何一つ我我の恋に答えもしない、そんな女に恋するだけが、じぶんのやれることだといわんばかりのもの狂わしさである。
主人公はいう、自分は清い心をもち正しい道を進む高貴な女性または、貞操も誠実も憐憫も持たないような奔放な女性、どちらかに仕えたい、中途半端なものは要らないと。
反対に彼らは欲情を超越した人間で、受難の中に楽しみを見出し、他の人間が喜びを求めるように、彼らは最も恐るべき苦痛を、死そのものをさえ。探し求めたのです。彼らがそうであったように、私もやはりそうです。官能を超越しているのです。
ただ、そこへと駆り立てる
主人公ゼペリンは言う。
われわれを駆り立てるのは、甘美な、柔い、不可解な力である。われわれは考える事も、感じることも、決意することも止めにしそれによってわれわれ自身を、遠くへ運んでゆかせ、どこへゆくかを尋ねないのだ。
ゼフェリンの主人となった女はヴァンダ。彼女は言う。
その美しいもの崇高なものへ仕えようとする様は、殉教者のそれだと。
男は利己主義者の場合でも悪人の場合でも、いつも主義がついているわね。女は衝動のほか決して何もついていないわ。
初期の帝王の時代なら、お前は殉教者よ。(中略)でも、お前は私の奴隷。
崇高なものへの犠牲
残虐性に目覚めた女は、自分の快楽のためにゼフェリンが犠牲になるのは当然のことで…むしろ、その犠牲をいちいち気にしてはならないと断言する。彼女はオリンポスの神々となった。
快楽と残酷とは手をつなぎ、自由と奴隷とは相携へて進んだのだわ。オリンポスの神々の様に生きようと願う人々は、宴会を開いている間にも、養魚の餌として投げ入れられる奴隷や、切りあいをするような剣士を必ず持たねばならないし、そのために自分たちに偶然血が少しはねかかたって、気にはかけていけないのよ。
ゼフェリンは、破局の直前に…ヴァンダの残虐性の犠牲となり…ヴァンダを神々の領域へと押し上げた。同時に、試練を越えた殉教者の様に肉体を越えた法悦の領域へと入っていく。
最も屈辱的であったのは、最初私は、アポロの鞭と、私のヴィーナスの残忍な笑いの下で、その私の立場がどんなに恐ろしいものであったにしろ、ある野生的な超官能的な、刺激を感じた事であった。
抜け殻のゼフェリン
彼は破却の後に、ひたすら働き…自分に仕えるものに厳しく鞭うつ残虐な人間となっていた。そこに喜びや信仰はなく…ただ…空っぽな何かを労働や従属関係を厳守することで埋める姿しか見えない。
形骸化した信仰へのアイロニー
訳者の言葉から推測すると、このゼフェリンの姿は…真の信仰の姿ともいえる。あえて、仕えるものを残虐で道徳のないものとして…残虐さによって生まれる試練を迷いながら乗り越えていく姿を殉教者としている。
訳者は、サドとマゾッホは以下の様に習俗の虚偽を攻撃しているとしている。
マゾッホの場合は全編から一種のやわらかなアイロニーを感じ
サドの場合には痛烈なサタイヤを感じる
アイロニー…ユーモアとしてあえて逆の主張をすること。
サタイヤ…風刺
マゾッホもサドも…形骸化した道徳に欺瞞を感じて…美徳から遠い所から信仰とは何か道徳とは何かを再考させようとしたのだろうか…
少なくともマゾッホは、真の信仰は何かを示している様に見えた。
以上が私の感想です。
読んだ本の詳細情報
「毛皮を着たヴィーナス」
著者:ザッヘル・マゾッホ
訳者:佐藤春夫
出版社 : 大日本雄弁会講談社 (1957/1/1)
発売日 : 1957/1/1
- : 282ページ
ASIN : B000JAWIJC
図書館でかなり古い本を借りた。
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