『未来のだるまちゃんへ (文春文庫)』の感想
感想要約
子どもは、未熟な大人ではない。大人は大人のやるべきことをしなければならない。つまり子どもに対するのでなく、人に対峙しなければならない。ただ、それができる範囲は家族と友人くくらいだろう。体力には限界がある。
そんなわけで、やることは変わらない。試行錯誤して、人と対峙して、興味ある事をやっていく。
子どもは、未熟な大人ではない。
子どもは、様々な思考を繰り返して日々成長している。一見すると無為で無意味な事にエネルギーを浪費しているようだが、それは試行錯誤だ。そこから得られた経験から自分を環境に適応させようとしている。
子どもたちは、自分の持っている知識や観察して得られる情報や自分にできる事を総合して、可能な限りの最適解を探しているのだ。
子どもは、子どもなりの世界を持っていて…その中で大人を観察して評価している。そして、子どもは真剣に今どうやって生きるべきなのかを真剣に問うている。
その問いに、今分かっている結論をそのまま押し付けるのではなく、もっと本質的な基盤事項を伝える事、生きる力(自分の楽しいを作り、活力としていく力)を伸ばすように回答を出す事が必要だ。
大人は大人のやるべきことをしなければならない。
生きる為に試行錯誤して自分を適応させようとするのに年齢は関係ない。大人は子どもと同様に試行錯誤を繰り返している。
人間は間違えるもの、それを乗り越え克服する過程が大事なのだ。
置かれている環境は過酷だ。周囲の人は状況によって、賞賛や批判をくるくると切り替える。
作者は戦争前後の世間の変化で、その変化を目の当たりにしている。その中で末弘厳太郎教授という人物からもらった「強い、たくましい体とともに、強固な思想を持ちたまえ」という言葉を生きる手掛かりとしている。
生きているなら、その体と思考がある。それをもってやれる事に価値があるのだと。どんな環境にあろうとも、本人と人格と感性次第で自分はきまると。
つまり子どもに対するのでなく、人に対峙しなければならない。
子どもは自分のできる範囲で環境に対峙して試行錯誤している、大人も同様に環境に対峙している。両者をわかつのは過ごしてきた年月だけではない。あくまで両者は背景の違う人間で、上下はない。
そのため、私たちは子どもに対峙するのではなく、人に対峙しなくてはならない。相手を観察し、分析し、最適な行動をとるべきだ。
そして、子どもを教育するという事は、社会に役に立たせるため(利用するため)に分かっている結論を押し付ける事ではない。いかに生きるべきかという問いに一人の人間として真剣に回答する事だ。
あくまで目の前の人に回答するのだ。年齢や性別で類型化して、パターンにそって応えるのではない。その人を観て応えるのだ。
ただ、それができる範囲は家族と友人くくらいだろう。体力には限界がある。
私はこの本の内容を、上記の様に人は年齢に関わらず個人として真剣に対峙する事が必要だと理解した。
しかし、人が人として対峙するのはおそろしく消耗する。だからこそ、人は人を類型化してパターンにそって対応する。それを責める気にはなれない。
おそらく、ここで言われている様に人と対峙できる人間はそれほど多くはないだろう。ダンパー数という概念があるように、人には限界があるだろう。
そんなわけで、やることは変わらない。試行錯誤して、人と対峙して、興味ある事をやっていく。
私の中で結論は変わりない、この本でかかれているように、自分のできる範囲で試行錯誤していく事だ。自分は人生で結構つまづいている。でも、人間は失敗するものだろう。だから立ち上がるんだ。
そして、失敗の中には人とのかかわり方だったり考え方だったり倫理観だったりがある。人ときちんと対峙できなかったこともある。恥ずるべきことも数々ある。
しかし、私は生きている。今ある肉体と思考を使ってやれる事をやって、思考と肉体を磨いて、またやれる事をやる。興味ある事をやっていく。
あらためて、出来る事を出来る範囲でやっていこう。
文献
かこさとし『未来のだるまちゃんへ (文春文庫)』文藝春秋, 2016.
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